第1章


 桜を背にひた走る音々野々亜蘭が、あと数メートルで到着する都立百鬼総合高校を選んだのは、ただ家から近く電車に乗らなくても良いという単純明快な理由だったが、遅刻をしても走ればギリギリ間に合うという利点が入学二日目にして効果を発揮するとは努々思っていなかった。


 初日に行われた入学式は余裕で間に合った。けれどその後すっかり油断して地元の友達と高校はどうだったこうだったと夜通しグループで通話をしてしまったのがいけなかったのだろうという事は、本人も重々分かっている。

 それに、音々野々にはもう一つ熱中していることがあり、そちらの更新にも手間取った。


 さすがに綺麗な新品を着込んだ新入生はいなかったが、数名の生徒がまだ登校しているのを確認し、少し胸を撫でおろす。

 とはいえ自分は入学して二日目の身であるため、そこでさらに走るスピードを速めて教室へと向かった。

 あとは階段を駆け上がって、右に曲がればすぐ自分の教室。担任が歩いているところはまだ見ていないから、既に教室に入っているか、自分の後に職員室から歩いてきているかの二択である。

後者であれとを祈りながら最後の一段へ踏み込んだ時、不意に目の前を見慣れない黒が横切った。


 突然現れた人影を避けることは出来ず、階段を大荷物で降りて来た誰かと正面衝突をする。不運にも抱えていた籠から木の棒のようなものが数本落下し、吹き抜けの階段にカランカランと高い音が響き渡った。



「あっ!さーせんごめんなさい!」

「びっ、……くりしたぁ。良かったな、俺が頑丈で。これがか弱い女の子だったらトラックに撥ねられたくらいの衝撃で飛んでく所だった」



 ぶつかった黒い何かはどうやら上級生だったらしく、落とした棒を軽快に拾いながらそう明るい声音で言った。

 その上級生が着ているのは制服でもジャージでもなく、黒のタンクトップにボンタンのようなパンツ。全身黒ずくめで明らかに学校指定の服ではなさそうだったが、外部の青年がこんな時間に校舎内にいるとは思えない。



「あんまり遅くなると千鶴の目が吊り上がっちゃうって急いでた俺も悪いしね。あぁ、そっちのやつ拾ってくれる?」



 眼下で鮮やかに目を引く彼の銀色の髪に目を奪われた音々野々が「はい」と返事をした後、ぼんやりと二の句を継げないでいると、彼はあっという間に全ての棒を籠に入れ、再び立ち上がる。

背丈や体格はだいたい同じくらいだが、音々野々とは明らかに筋肉の付き方が違う。どっしりしているだとか筋肉粒々というわけではないが、きちんとつくべき所についているような雰囲気だった。

 少し遠くに落ちていた最後の棒を拾い上げると、ヒノキの匂いがふわりと鼻腔を通り過ぎていった。

思ったよりも重いそれを手渡すと、彼はふわりと花が咲いたような笑顔を見せる。



「どうせ走ったって間に合わないんだから、のんびりいこうぜ!」



 とても先輩から後輩に言う言葉ではないと思ったが、そもそもぶつかって時間をロスさせたのは音々野々自身である。

むしろフォローの声掛けなのかもしれないとぐるぐる考えてしまい、「えっと」とか「あぁ」という言葉にならない声を出すことしか出来なかった。

 人と話すのは苦手なわけじゃなかったし、昨日の入学式の後は持ち前のコミュニケーション能力で初対面の男女問わず数人の同級生と連絡先を交換した。恐らく今日だって教室に飛び込んだら笑って受け流されるような雰囲気を作り上げている。


 それなのに、この銀色の青年を前にすると何も言えなくなってしまうのだ。

 音々野々が相変わらず何も言えないでいると、青年は再び口角を緩めて人懐こい笑顔を浮かべる。



「体育館でやる新歓、ラストまで絶対見ろよ。むしろ俺たちのだけ見ろ。いいな!」

「はい!見ます!」



 強い言葉にほぼ反射的で返事をした音々野々の肩を、青年が満足そうに籠を持ち換えて空いた方の手で叩く。



「いい返事だ」



 先ほどまで朗らかに笑っていた青年の、一瞬みせた鋭い表情に呼吸を止めてしまう。決して何か音々野々がやらかしたというわけではないだろう。

ただ、彼は自分の思い通りに世界が動いたと確信したから、先のように笑ったのだ。

 底の知れない人と相対した時、底の浅い人間は何と無力なのだろうか。



「またな新入生!俺はそろそろ行かないとガチギレされるから行く!」

「あっ、あの!」



 ひらりと身を翻して、棒の入ったそこそこ重い籠を軽々と担ぎながら、青年が二段飛ばしで階段を下りていく。あまりの俊敏さに一瞬ついていけなかったが、咄嗟に音々野々が制止の声をかけた。

 何か謝ろうとか、体育館で何があるか聞こうだとか、そういうことは一切無くて、ただ単純に彼は一つだけ問いたかったのだ。



「寒くないんですか!」



 音々野々の悪気が一切ない真っすぐな言葉に、青年は一瞬目を丸くしたが、すぐにケラケラと屈託のない笑顔を共に答えを返す。



「くっそ寒いよ!」



「新歓って何すんのかと思ったら部活紹介か。授業より全然いいわ」

「百総は部活に力入れてるらしいから、亜蘭もどこか入らないと不味いぞ」

「えー、まじか。俺帰宅部狙ってたのに。いっそ映えるから軽音とか入ろうかな」

「映えで三年間過ごせるならそれはそれでありだけどな。でも百総にはあれがあるんだよ」

「あれ?」



 ざわざわと話し声が飽和する体育館で音々野々の前に座っていたクラスメイトが、そんな事を言いながら振り返る。

ふと目を落とした手元には、体育館に来る前にクラスで配られた百鬼総合高校の部活一覧表があり、それを見る限りギリギリ人数が集まった同好会レベルのものから全国大会常連の部活まであるようだった。

 サッカー部やバスケ部といった定番運動部系は中学から同部だった経験者がそのまま入る印象があるし、かといって文化部というのも面白みに欠ける。

無所属の選択肢がない以上、どこかを選ばなければならないのだが、音々野々はさっぱりどこにも魅力を感じなかった。


ただ、一つだけ気になる文章がある。おそらくクラスメイトがニヤリとしたり顔をしながら言った「あれ」とは、恐らくこの事だろうと心の中で思った。



「それでは最後の部活紹介に映ります。和太鼓部の皆さん、よろしくお願いします」



 凛とした声で放送部の二年生がそう紹介すると、ふっと照明が暗くなった。

 先ほどまで水泳部が紹介を行っていた舞台には何も無く、さてここから何が始まるのかと思っていたその瞬間。

 タタン!と背骨を突き抜けるような高く張り詰めた音が聞こえ、ざわついていた館内が一気に静まり返った。その音は特別大きかったわけではない。軽音部のアンプを通して響いていたギターの音色の方が音量的には上だった。


 先程の音は機械を通して拡張されたものではない。楽器そのものが出した音だ。

 誰もがおよそ経験したことの無い響きに動揺を隠せない。しかし何一つ口を開けないでいる。次に何が来るのか、どこからどんな音がするのか、皆が全ての神経を研ぎ澄ませて待っているという印象だ。


 部活紹介中ここまで館内が静かになることはなかった。必ず誰かが雑談程度の声を上げていたのに、たった二打で、彼らはこの世界を手中に収めたのである。

 誰もが呆気に取られてただ辺りを見回すことしか出来ずにいると、不意に照明が全灯した。


 突如として明るくなった世界に大人子供問わず目を細めていると、いつの間にか彼らの前には一台の肩がけ太鼓を背負った生徒が二人立っていた。

 どれほどの重さなのか想像もできないが、ペットボトルのごみ箱ほどもありそうな太鼓を軽々と担いだ二人が、にっこりと目を合わせて笑う。

 そのうちの一人に、音々野々は目を奪われる。



(寒いって言ってた銀髪の先輩じゃん。前髪オールバックになってるし、てかうわ、腕の筋肉すご、やばい、なにこれ、超かっこいい……!)



 そうして二人はしばらく会場中から注がれる歓喜の視線と期待を孕んだ沈黙を味わった後に、高々と撥を振り上げて、風を切るほどの速さで面を叩く。

 彼らが撥を振るう度に内臓が振動するような気さえした。耳を塞いでもなお身体に飛び込んでくる圧倒的な打音は、その場にいる全ての人を惹きつける。


 音々野々は軽やかに桶太鼓を叩く彼から目が離せないでいる。いつの間にか拳は強く握りしめられており、呼吸をすることすら忘れていた。

時に力強く、そして時に細かく正確にリズムを刻む二人は、やがて背中合わせになり、そのまま舞台の方へ体を向ける。


 回転中、銀色の髪をふわりと揺らした青年と、音々野々の目が合った。

 そのたった刹那の間、桶太鼓を叩いていた青年が、あの踊り場で見せたものと同じような、けれどそれよりもっと輝かしい笑顔を音々野々に向ける。

 演技だったのかもしれない、自分に笑いかけていないかもしれない、そう思いつつ、音々野々がふと身を乗り出す。

すると、青年はリズムとリズムの間、撥が一瞬休められるそのタイミングで、射貫くように音々野々に向かって真っすぐ人差し指を向ける。



(熱くなっただろ?)



そう言いたげな表情だけ残して、彼らはステージの方へ完全に向き、生徒たちには背中をみせる。

 すると生徒席側の照明が少し暗くなり、代わりに舞台上に全てのスポットライトが注がれた。



「さぁ、祭りの本番だ!」



 それまで黙って桶を叩いていた青年が体育館中に響き渡る声で高らかに叫ぶと、それに呼応するようにいつの間にか舞台上にいた生徒たちが各々一斉に声を上げる。

 舞台の上には大小さまざまな太鼓が並んでおり、その他にも端の方には笛を持った人がいたり、小さなシンバルのような鐘物を持った人もいる。

 まるで魔法のように現れた和装集団は、センターに構えていた男子生徒の一打を皮切りに、見事な一曲を披露した。

 誰もが息を止めただろう。これで心を動かされない人間が果たしているだろうか。



「……すげぇ」



 その日一番大きい拍手とともに、音々野々亜蘭は入部届けに書き込む名前を決意した。



 新歓と称した部活紹介があった当日の放課後、さっそく音々野々は校舎の外れにある和太鼓部の部室へと歩を進めていた。

 数名のクラスメイトから違う部活に一緒に入ろうと声をかけられていたが、その誘いをやんわりと断り、足早に教室を抜け出してきた。


 やがて辿り着いた部室からはまだ太鼓の音はせず、防音の扉に阻まれた数名の生徒の話し声が僅かに聞こえるだけだった。

 和太鼓という性質上、窓を全開にして練習をすると近所や他の部活から苦情が入るという事で、特別に和太鼓部はセミナー室という総合学科ならではの広いホールのような空間を練習室として使用することが許可されている。


 その重い扉に手をかけて、音々野々は深く息を吸い込んだ。

 柄にもなく緊張しているようだった。中学までは特別何かに打ち込んだりはしなかったし、SNSでのフォロワーが五千を越えてからはこれといって趣味といえるものは作らないようにしていた。

 だからこそ、あの体育館で射貫かれた熱情が忘れられずにいるのだ。



「あ。おーい!遅刻ギリギリ新入生やっほー!」



 扉の前で静止していると、遠くから不名誉なあだ名で音々野々を呼ぶ声がした。

 反射的にそちらへ目を向けると、体育館で見たオールバックをやや無造作にくしゃくしゃと崩したあの青年が、屈託のない笑顔を共に音々野々の方へと駆けてくる。



「来てくれたのか、ありがと。俺のファンサ見た?」

「見ました!まじアイドルでした!」

「あっはっは、そうだろうとも。俺の指差しなんかそうそう貰えるもんじゃないぜ。しかも男子になんか滅多にやらないから光栄に思えよ」

「ありがとうございます!」



 目をキラキラさせながら素直にお礼を言う音々野々の反応が面白くて仕方がない様子の青年は、しばらく得意げに賞賛の言葉を受けていたが、やがてセミナー室の扉に手をかける。

 音々野々が開けようと思っても開けられなかった新しい世界への扉を、彼は得意げな笑みと共に簡単に開いた。



「ようこそ、百鬼総合和太鼓部へ」 



 中に入ると、数名の生徒が着替えやアップを始めていた。注がれる視線にぴしりと背筋を伸ばすと、音々野々は青年より少しだけ背が高いのだと認識する。



「お疲れ。隣の顔の良い男子は入部希望者?」

「そう、俺の超絶技巧桶太鼓見て一目惚れしちゃった?みたいな」

「さすがだな秋介。初めまして、俺は百総和太鼓部部長の初春瑛人。ちょうど良かった、これから他の入部希望者に説明始める所だったから、君も一緒においで」



 秋介と呼ばれた青年の発言は華麗にスルーして、初春は穏やかな笑みを浮かべながら音々野々を最前列の席に座るよう促した。


 一見ではあるが、他の部員と比較して初春は成長が進んでいるようで、身長も百八十以上ありかなり体格もしっかりしている。

大型犬のようなふわふわとした茶髪が、彼の穏やかさを良く表現しているので、高身長による近寄りがたさは緩和されていた。


 勧められるまま席に着くと、隣に座っていたふくよかな男子生徒が控えめに首をかしげて音々野々と目を合わせてくる。

音々野々の普段の交友関係ではあまり付き合わないタイプの人間ではあったが、彼の良い所は誰かれ構わず引き込み受け入れるところである。



「一組の音々野々くんだよね。びっくりした。君がここに来るなんて思ってなかったから」

「えっ、何で俺のこと知ってんの?そうだけど、俺前にどっかで会ったことあった?」

「ううん、僕が一方的に知ってるだけ。クラスの女の子が君の事話してたから、気になってて。SNSのフォロワーだって子もいて、百総一年生の中じゃちょっとした有名人だよ。でも僕とは住む世界が違うし、声かける機会なんて一生無いだろうなって思ったから本当心臓止まるくらい驚いたし、今も何で僕なんかが君と話せてるんだろうって不思議で不思議で……」



 そう言うと、彼は音々野々から視線を逸らして自分の足元をじっと見つめ始めた。

 音々野々は根っからのポジティブ気質であるが、彼はどうもその反対にいるようだ。体の大きさに反して話している声もだんだんと小さくなる。

 彼の声が完全に聞こえなくなる直前で、音々野々がその丸まった両肩をがっと勢いよく掴んで自分の方へと強制的に振り向かせる。あまりに突然の物理的リアクションに、彼は大きな瞳を丸くして音々野々を見つめた。



「知ってるかもしれないけどもう一回言うな。俺、音々野々亜蘭!お前は?」

「か、杜若よよ…」

「よよ?名前めっちゃ可愛いな!つか苗字もかっけーし。俺初めて会った、そういう名前の奴。俺のことも亜蘭って呼んで」

「音々野々くんだって相当かっこいいよ」

「亜蘭」



 すかさず杜若の苗字呼びを訂正し、ずいと顔を近付ける。

 およそ人とそんな距離になったことのない杜若が小さな呻き声を上げるのと同時に、亜蘭の空いていた右隣に誰かがすっと荷物を置く。

 音々野々と杜若が揃って視線を移すと、スポーツゴーグルのようなごつい眼鏡が印象的な背の高い男子生徒が、リュックの中から携帯を取り出しながら着座したところだった。

 すかさず音々野々がぐりんと体を反対側へ向け、顔を輝かせながら彼に声をかける。



「お前も入部希望者?俺は音々野々亜蘭で、こっちは杜若よよ。一緒に頑張ろうな」



 声を掛けられた青年が眼鏡越しに音々野々と目を合わせる。右目の下に小さく目立たない程度の傷跡があったが、しかしそれ以上に温度の無い瞳が印象的だった。



「間宮九十九。従兄にここに入れって言われてきただけだから、あんま熱血に関わって来ないでくれる」



 予想外に冷ややかな返答が返ってきたことに、杜若が眩暈を覚える。

 単細胞脳筋系の音々野々と、冷徹無気力な間宮の相性が悪すぎるし、その間に入っていなければならない自分のポジションを呪った。

 明らかに関わるのを拒絶されたにもかかわらず、音々野々は快活に笑って間宮の背中を叩く。

 はっきりと迷惑そうに眉間にしわを寄せる間宮と、何も気づかず能天気に友人が増えたことを喜ぶ音々野々。そして終始頭を抱える杜若の元に、他の部員への指示が終わったらしい初春が戻ってきた。



「待たせて申し訳ない。まだ正式入部ではないと思うけれど、まずは部長として礼を言わせてほしい。本当にありがとう。君たちがここに来てくれて、俺は心から嬉しく思う」



 恭しく初春が頭を下げると、音々野々と杜若が勢い良く頭を下げる。それにつられて間宮も小さく会釈をしたが、表情は一切変わっていなかった。

 自己紹介をしたときもそうであったが、初春の一挙手一投足は全てきちんと型にはまっているような印象があり、とにかく綺麗であった。典型的な日本男児というイメージさえある。

 音々野々はそんな動作等をよくよく観察して、ようやく彼が舞台のセンターで叩いていた人物であると気付いた。

 少し前に自分よりも高い場所で力強く太鼓を打ち鳴らしていた人とは思えない温和な人柄に、無意識に張っていた緊張の糸が解けていく。



「あ、あの、もう入部届けは出したんですけど、まだ正式入部じゃないんですか」



 おずおずと杜若が少し震える声で初春に問いかける。

 かくいう音々野々もすでに入部届けには記名してきたし、後は顧問に提出するだけだ。まだ顧問をしている先生の事をよく知らないから出せていないだけで、この部室に顔を出せばすぐに手渡すつもりでいた。



「杜若の入部届けは、一旦俺預かりという形になってる。今日から一週間の間は、まだ君たちはあくまでも入部希望者だ。一週間後にまだ入部の意志があり、かつ顧問である結城先生が認めたら、初めて百総和太鼓部の一員になれる。遠回りだし、上からな言い方で申し訳ないが、一応毎年の事なんだ」



 そう言いながら、心から申し訳なさそうに初春は眉を下げた。

 確かに配られた部活一覧の注意書きのところにも、部活紹介から一週間以内に入部する部を決定することと、そしてその一週間の間は希望の強さに関わらず仮入部の扱いになることが明記されていた。

 音々野々らは決め打ちで和太鼓部に来たが、他の一般生徒たちは様々な部を渡り歩いて最終的に入部する部を決定するのだろう。

なかなか一本に絞って初日に突入する者は少ない。スポーツ推薦入学であったのならばそれは当然該当する部活に入部しなければならないが、ほとんどの生徒が一般入試で合格して入学してきている。



「それから、これがうちの年間スケジュール。ここに記載されてないイベントや公演のオファーは当然あるし、今後もっと増えると思う。でも参考程度になるから、一度よく読んでみて」



 初春がプリントを新入生一人一人に手渡しする。紙を一枚掴む指が太くがっしりとしており、同じ男でありながらも男性的な魅力を感じてしまうほどだった。



「すごいたくさん公演をしているんですね。月に三回の時もある」

「有り難い話だ。俺たちが日々鍛錬を積んでいるのも、こういう舞台があるからといっても過言じゃない。どれほど練習しても、やっぱり一度の舞台に勝るものはないからね」



 杜若が感心するのも無理はなかった。

百総和太鼓部は共学でありながら、現顧問の意向で入部を男子のみとしている。

女子は別に日本舞踊部というものがあり、そちらで和太鼓も交えてしているが、どちらかといえば琴に力を入れているらしい。大会には出場してかなり上位の成績を残している強豪部であるが、あまりイベント等には出演していない。

 それゆえに、百総に来るイベント出演の依頼は、全てこの和太鼓部が請け負っているという事になる。



「えっ、と。基本休みって無い感じ……ですか?」



 手渡された年間スケジュールには部活休みの日は赤色が塗られていたのだが、テスト期間や年末年始を除いて、長期休み含めもほぼ毎日活動日とされていた。

 杜若はさほど驚いていない様子であったし、間宮に至ってはケロリと一言。



「年末は休みなんですね。正月公演とかあるかと思ってた」

「さすがにな。帰省する部員もいるだろうからって先生が休みにしたんだ。基本的にそれ以外の日は朝から夕方まで活動してる」



 さらりとそう告げる初春と、当たり前だという風に受け止める間宮。

 ただ一人、音々野々だけが置いて行かれている。



「音々野々、大丈夫か?」



 それまで誰よりも明るく喋っていた音々野々が急に黙ってしまったことに対して、初春が酷く心配した表情でそう問いかけた。

 話しかけられるまではぼんやりとただ紙を眺めているだけであったが、初春の声が聞こえてからはパッと顔を上げて先ほどまでのような明るい笑顔を浮かべる。



「大丈夫っすよ!すみません、ちょっとフリーズしてました」

「そうか。それなら良かった。俺からの説明は以上になるが、他に何か質問がある人はいるかな」



 音々野々が見せた笑顔に初春も柔らかな表情で応え、他の新入生を見やって問い掛ける。

 実際まだ質問するべきことが分からないという所ではあるので、皆黙り込んでいたのだが、間宮がゆるりと片手を上げて初春と目を合わせる。そうして、さも当然のように間宮はこう質問した。



「高文連には出ないんですか」



 その一言で、今まで少しざわついていた室内が一気に静まり返る。

誰もが次に喋り出すことに恐怖しているような、そんな怯えさえ取れる異様な雰囲気が、セミナー室を支配した。

 異様な空気感に一瞬戸惑いはしたが、音々野々は隣に座ってどこか気だるそうに初春を見上げていた間宮の肩を小さく叩く。

 くるりと間宮が初春から視線を移したが、相変わらずその瞳からは特別感情が読み取れず、空虚さしか伝わってこなかった。



「なぁ、コウブンレンって何?テレビとかでやる系のイベント?」

「高等学校文化連合。そこが主催する関東大会とか全国大会には出ないんですかって聞いたの。脳筋は静かにしてて」

「脳筋!」



 先ほど初対面を果たしたとは思えないほどのふてぶてしさを見せ、しれっと悪態をつきながら間宮が音々野々から顔をそむけた。

あまりにストレートな罵倒に、同じ言葉を繰り返すことしか出来ず、音々野々はぐうと唇を尖らせる。


 高文連とは、高校生の文化活動を様々な面で支援する団体の呼称であり、その範囲は吹奏楽や演劇、郷土芸能まで幅広い。

当然ながら和太鼓もその一部に含まれており、大々的な大会の運営は高文連が行っている。

なぜか間宮が口にしたように、そこが主催する大会を「高文連」と団体名で呼ぶ高校生は多い。


 和太鼓部には甲子園やインターハイのようなものはない。あくまでも文化祭や発表会という名目で、各高校が集結し、全国大会への切符を争う。

それこそが全国高等学校総合文化大会、そして東京都高等学校総合文化活動祭典である。

全国へ進めるのはこの東京都大会の伝統芸能部門の出場校のうち、優秀賞を獲得した一校のみ。その審査に携わる者も、強豪校顧問であったり現役和太鼓奏者であったりと様々だ。



「確か去年も出ていないですよね。その分公演を入れているようですが、二年前は出場したと聞きました。今年もエントリーしないつもりなんですか」

「去年は一気に半分くらい先輩方や同級生が辞めてしまって、とても出られる状況じゃなかったんだ。かなり大変でね。皆が辞めていった後の公演なんて本当にドタバタで。俺たち今の三年が全曲出演してもまだ足りないくらいだった」



 肩を下げながら少し懐かしそうに話す初春を、間宮たちはただ黙って見つめていた。

まだ演奏者として舞台に立ったことのない彼らに、全ての演目に連続して出場することの体力的負担は分からない。しかし、体つきの良い初春がそういうのだから余程のものなのだろうと察することは出来た。

 しばらく初春は困ったように視線を泳がせていたが、やがて自分の右手に視線を落とす。

 何かを決意するような、己に言い聞かせるような、そんな心の揺れが読み取れる沈黙だった。



「確かに去年は出ていない。でも、今年は」

「出ねえよ」



 初春が何かを言いかけたその瞬間、彼の背後から酷く不機嫌そうな顔をした男子生徒が現れた。

ふわふわとした初春とは対照的に、黒くツンとした短髪が印象的な青年は、じろりと敵意を孕んだ目で周囲を睨み付ける。



「高文連に出たいってんなら今すぐ転校しろ。俺たちは大会で良い点数取る為に太鼓叩いてんじゃねえんだよ。くそつまらん競い合いは他所でやれ」



 突然現れた口の悪い上級生に、その当人よりも体の大きい杜若が委縮して身を縮こませてしまう。

音々野々と間宮も明確に態度に出しはしなかったが、グッと息を止めた。



「千鶴、言い過ぎだ。新入生を怖がらせてどうする。少し慎んでくれ」



 喧々と棘のある言葉を吐いていた柊千鶴を、初春がたった一言で黙らせた。

 叱責されて口を閉ざすことに従いはしたが、納得はしていない様子の柊は舌打ちを一つ残して足早にその場を去っていく。そうしてわざと音を立ててセミナー室の扉を閉めると、びくりと杜若がさらに怯えるように肩を震わせた。

 初春が一連の様子を眺めた後に小さくため息をつき、やや遠くで練習着に着替えていた銀髪の青年、明日葉秋介に声をかける。



「秋介。悪いが千鶴を頼む」

「りょーかい。本当あいつは大会が絡むと駄目だな」



 初春の呼びかけに、「いつもの事です」と顔に書いた明日葉が軽やかに返事をし、柊の後を追って部室を飛び出していく。

 百総和太鼓部に所属している初春、柊、そして明日葉は共に三年生であり、クラスは違えど同じ部で三年間過ごしてきた仲だ。何も言わなくとも通じるものがあるのだろう。

 少なくとも、初対面で新入生を揃って震え上がらせる柊をここまで穏便にコントロールできるのは、現時点で初春しかいない。

 もう一度溜息を吐いた後、初春は努めてにこやかに音々野々らに向き合った。



「同級生がすまない。怖がらせてしまっただろう」

「いや全然平気っす」

「えっ……、めちゃくちゃ怖かったんだけど。亜蘭くんそういう素っ頓狂なやつ今本当やめて」



ケロリとした表情で音々野々が返事をすると、隣で杜若が心底不快そうな顔をする。先ほどまで少し緊張していた顔をしていたくせに、と心の中で文句を言いながらも、今やすっかり通常運転の音々野々の能天気さを羨んだ。



「別に気にしてませんけど、あの先輩は大会に何か嫌な思い出でもあるんですか」



 一方の間宮もそれまで通りの感情が読み辛い表情に戻り、申し訳なさそうに眉を下げる初春へ遠慮なく話しかけた。

 後輩から悪気の無く投げかけられた純粋な問い掛けに、初春はしばし悩むような素振りを見せたが、やがて今までの彼と想像はもつかないほどの冷たい声音で小さく答える。



「嫌な思い出があるのは、千鶴だけじゃないよ」



 地の底を這うような、けれど努めて冷静さを取り繕っているかのような歪な初春の言葉に、その場にいた誰もが一瞬黙り込む。初春と多くの時間を過ごしているであろう同じ三年生や二年生たちでさえも、会話に割って入る様な真似は出来なかった。

 唯一その輝く大きな瞳を真っ直ぐに向けていた音々野々が、何かを言おうと口を開いた瞬間。



「はい、説明はこれでお終い。俺たちはそろそろ練習の準備を始めないといけないし、あんまり君たちをここに拘束すると結城先生に怒られてしまうから、今日はもう帰って、よく休んで」



 パンと大きく叩かれた拍手の音が、初春の思惑通り空間に振動して重く沈みかけていた部室内の空気を変える。

 不穏な空気に飲まれて準備の手を止めていた部員も、忙しなく着替えをしたりタオルや必要な道具を手にバタバタと上へ下へ移動し始め、新入生たちもいそいそと先ほど配られた用紙をバッグに詰めて帰り支度を始める。

 音々野々には、実際の練習を見学したい気持ちもあったが、初春の有無を言わせない帰宅命令に特に反論することなく、他の同級生と同じように荷物を片付けることにした。


やがて全員が荷まとめを終え、ぱらぱらと部室から出ていく。最後まで緩やかな笑みを絶やさずに初春が全員の背を見送り、音々野々はその列の最後についた。

ちらと、どこか後ろ髪を引かれるような思いで小さく振り返ると、その視線に気が付いた初春が、音々野々だけに笑いかける。

彼のその完璧な部長像に、どこか不安定さを感じた。



「亜蘭くんは一週間の間、他の部活って見て回る?」

「んー、見ないかな。あんま他に気になるところなかったし」

「そっか。僕も和太鼓部以外は行くつもりないから、これから一緒に頑張ろうね……って、何同等の立場みたいに物言ってるんだろう。僕なんかが亜蘭くんと同じポジションなわけないのになに図々しい事言ってんの自分、はぁ本当ごめんちょっと自己嫌悪が押し寄せてきた」



 最寄り駅が異なるが、電車に乗るまでは一緒に帰ろうと音々野々がほぼ半強制的に杜若を誘い、駅まで共に向かっている間、ふと会話は入部に向けた話になった。

その途中でぶつぶつとネガティブモードに入った杜若を快活に引き戻すのかと思いきや、音々野々は手元の紙に目を落としたまま特に何も言わないでいる。

 シカトされているのではと杜若が横目で音々野々の様子を見やると、彼はその視線にも気が付かないほど真剣にびっしり埋められた活動カレンダーを見ていた。



「亜蘭く、」



 心ここに在らずな様子を心配した杜若が何かを言いかけたその瞬間、音々野々のスマホから控えめな音量の着信音が鳴った。

 ディスプレイに表示されている名前まで杜若が確認することはできなかったが、音々野々はその相手を確認して杜若に小さな声で謝りを入れてから、ひらりと手を振って駅とは反対方向に足早に歩き始める。

 去り際、一瞬だけ振り返った音々野々は、初めて杜若と合った時と同じような人懐こい笑顔を浮かべて「また明日」とだけ残した。

 


『初日お疲れ様。どうだった? さっそく練習させてもらえたかい』

「何でこの時間に電話出来るの。部活中でしょ、今」

『僕くらいになったらこのくらいの自由誰も文句言わないもん。それよりも、可愛い可愛い僕の従弟が百総に虐められてないかが心配でさ。千鶴とかに脅されてない?』



 電話口の向こうで男性がケラケラと笑いながら心底楽しそうに間宮へ次々と言葉をかける。

 愉快なその声の主とは対照的に、間宮は会話することに疲弊しきったロートーンで嫌味を交えつつ返答をする。

そんな間宮のリアクションも面白くて仕方ないのか、電話の相手はなおも軽快に会話を続けた。



「早々にキレてたけど、多分地雷踏んだの俺」

『あはは、いいねぇ、それは愉快だ。千鶴の導火線の短さは今に始まったことじゃないけど、最近特に短くなったから、お前も気を付けるんだよ』

「そうさせたのはあんた達じゃないの」



 間宮の一言によって、それまで饒舌に話を続けていた男性がピタリと何も言わなくなる。

 不自然に会話を止められてしまった間宮が不思議そうにいない彼をスマホ越しに見るような仕草を取ると、それとほぼ同タイミングで鼓膜を突き抜けるかのような高らかな笑い声が耳元で響いた。

 しばらく電話の向こうで笑い続けた後、男性は声のトーンを一つ落として呟く。



『お前を百鬼総合に入れて正解だったみたいだ。秋の大会楽しみにしてるよ、九十九』

「はぁ? だから大会には出ないって柊先輩が……って、あの野郎」



 間宮の返事を待たずして男性は通話を終了したらしく、無機質な機械音が聞こえるばかりだった。

 自分の話したい事だけ話し、聞きたい情報だけ聞き出した電話先の相手に嫌味の一つでも連絡しようかとも思ったが、また余計なことを勘繰られても面倒だ。

彼に限った話ではないが、あまり間宮自身人と積極的に関わりたいと思っていないから長話をする気も更々なかったし、無事和太鼓部とコンタクトを取れたことを報告するつもりであったから目標は達成できている。

いつにも増して真意の読み取れない従兄と会話をしてどっと疲れた。一人で小さく肩を落として控えめな溜息をつき、気分を切り替える為にワイヤレスイヤホンを耳に捻じ込む。

ほどなくして聞こえてきた大して興味もない流行のアーティストの最新楽曲は、間宮の抱いてる疲労感を増幅させるばかりだった。



 柊を連れて戻ってきた明日葉が遅れていた自分の支度をするべくリュックを漁っていると、ふと出入り口の辺りで立ち止まっている初春の姿が見えた。

 彼も厳格な男ではあるが、周囲にそれを悟られることは一切無く、むしろ緩やかな印象さえ持たれる。

しかし、自分以外の人をあまり信用していないと言えば聞こえは悪いが、どこか壁がある様な、そんな雰囲気を出しているように明日葉は感じていた。

 音を立てず、けれど軽快な足取りで初春に気取られる事なくその背後まで向かう。そうして油断しきった初春の背中におんぶを強請る子供のように勢いよく飛びついた。



「えーいと! 何暗い顔してんだ、他の部員が心配するぞ。お前がそんなこの世の終わりみたいな顔してたら二年とか気の弱い三年は何があったのかって基礎連の手も疎かになるってもんだ」

「びっくりした。急に飛び掛かかるなよ秋介、もう小学生じゃないんだぞ」

「心はいつでも若くありたいだろ。俺は大人にはならない、ずっと子供でいい」

「心は子供でも身体は立派に成長した高校三年生なんだから、俺に全体重をかけてくるのはやめてくれ」

「冷たいなぁ瑛人。ちょっとでもお前を励まそうと試行錯誤してのダイブだぞ」



 口ぶりとは裏腹にそこまで気にしていない様子の明日葉の頭を、初春がポンポンとやや投げやりに撫で、ふわりと微笑む。

二人が並ぶと初春の方が色々と大きいので、父にあやされる子供のようにも感じられた。



「ありがとう。元気出た」



 そう優しい声音で言った初春は、すぐ踵を返して部室の中にいた他の三年生に練習を始めるよう声掛けをし始める。その姿はいつも明日葉が見ている部長としての初春瑛人であったが、彼が一番見たい姿ではない。

 まるで置いて行かれてしまったようにその場に取り残された明日葉が、小さく口を尖らせる。



「……逃げんなよ」



 同じ時期に生まれ、同じ高校で同じ部活に入った自分の事を、もっと信用して欲しい。

ただ一つ、明日葉だけが経験していないあの秋が初春を変えてしまったのであれば、ただ後悔に両手を握りしめる事しか出来ない。それが、酷く歯がゆかった。



 帰宅して食事や風呂を終え、自室に戻って初めてスマホを起動した。

 その瞬間、音々野々が酷く驚く。いつもであれば帰宅してまずSNSをチェックし、風呂にも持ち込み、さすがに食事の際は持って行かないが、ほぼ四六時中スマホを起動していた自分が、今無意識に遠ざけていたのだ。

 案の定いつもに比べ長く放置していたせいで未読のメッセージや通知のポップアップが画面を埋め尽くしている。


 一般的な考えであれば、未読が溜まっていたらウンザリするのかもしれない。けれど、音々野々はそのたくさんの反応を前に安堵感を覚えていた。

 自分の事を待っている人がいる。自分の事を必要として連絡してくれる人がいる。自分の事を良いと思って反応をしてくれる人たちがいる。

それが例えネット上の希薄な関係だとしても、頭に刷り込まれた自己承認欲求が音々野々を動かしているのは間違いない。


まずは一番利用していてフォロワーの多い画像投稿がメインのSNSを開き、高校に入学したことを煩雑なハッシュタグをつけて記載し、通学路に咲いていた桜と自分の写真を投稿する。

その瞬間様々な人のコメントが音々野々の通知欄を埋め尽くし、先程全て確認して空になったポップアップは再びいっぱいになる。



『亜蘭くん入学おめでとう! 今日もカッコいいです~』

『桜綺麗! 私も今日入学式でした。一緒の日に高校生になれて嬉しい!』



 押し寄せる自身の容姿への称賛の声と、他愛もない報告。きっと自分を特別に認知して欲しいか、音々野々からの返信が欲しいからだろう。投稿の閲覧数は数分で三桁を超え、なおも増え続けていく。

 いつもであればその一つ一つを丁寧に確認していくのだが、今日はどうにも小さなその画面に集中できずにいる。音々野々は電源を入れっぱなしのスマホをベッドの上に投げ出し、自分自身も四肢を脱力させて仰向けに寝転がった。

 帰宅時や入浴時に日常のルーティンを忘れるほど考えていたことが、今も頭の中を支配している。

魂ごと震えるあの感覚を、どうしても手離せずにいるのだ。

 机の上に丁寧に置かれた二枚の紙に目を通し、深いため息を吐く。



「両立は無理だもんなぁ」



音々野々が手にした紙の片方は今日初春から配られた和太鼓部のスケジュール表。そしてもう一枚は、新規芸能プロダクションからの合格通知だった。



「どうするよ亜蘭~……」



SNSからの通知が絶えない。多くの欲望や好意を伝えるが為だけに褒められる桜が、何だかとても不憫に思えた。



 部活説明から六日後。選定期限が明日まで迫っていたが、まだ音々野々は入部届けを提出していなかった。

説明会の後に消してしまった部活名。どうしてもその一筆が、今も彼には書けないでいる。

 そのせいで何となく部室に行く足も遠のいてしまい、結局音々野々が部室を訪れたのは初日の説明が最後になっていた。微かに聞こえてくる太鼓や笛の音を遠くで感じ、そのまま背中を向ける。

 考えることを放棄すべく体を反転させたその先に見えたのは、音々野々がここまで悩む原因を作った張本人だった。



「おっ、新入生。これから部室? 俺も今から行くところだから一緒に行こうぜ」

「明日葉さん、お疲れ様です」

「まだ入部してないのに俺の名前覚えてくれてるとか熱烈なファンじゃん。お前は?」

「音々野々です!」


 当の本人は、よもや自分がここまで人を悩ませているとは露知らず、始めて音々野々と会った時と同じような屈託のない笑顔を共に彼の背中を自分の進行方向に押す。

 けれど音々野々はその場から動かず、明日葉だけが足踏みをする結果となった。

 新歓の舞台の後、自分に興奮気味に食って掛かってきた姿とは全く異なる彼の予想外の反応に明日葉が目を丸くし、表情を曇らせた音々野々の顔を覗き込む。



「どうした。今日は何か他に用事ある感じ?」

「いえ。何にも無いんですけど、でも行けないっていうか、なんつーかその、えっと……」



 上手に嘘が吐けない音々野々の困ったような笑顔をしばらく眺めた後、明日葉がスマホを取り出して画面をタップする。

最近の若者はフリック入力が主なのだが、明日葉は一回ずつタップするやり方らしく文章の入力にもだいぶ丁寧に時間を取っていた。

 SNS慣れした音々野々にとってタップ式の入力は恐ろしく非効率的だから、未だにそんな事をしている人がいることがにわかに信じられないのだが、今はその空白さえもありがたい。

 やがて明日葉がスマホを再びポケットにしまい、音々野々を正面から見る。彼のあまりに真っすぐな視線に、どこか居心地の悪さを感じてしまい、音々野々が反射的に目を逸らした。



「何にも無いなら別に何しても良いよな。ちょっと面貸してもらうぜ」

「え? いや俺部室はちょっと行けないんだってほんとに! 絶対無理! 嫌だ!」

「はっはっは、関係ないな。この場じゃ俺が正義だ」

「話聞いて下さいよ、ちょっと! 明日葉さん!」



 抵抗するべく踏ん張りはしたが、お構いなしに明日葉はぐいぐいと嫌がる後輩の腕を引っ張って走る。

同じ体格のどこからそんな力が出るのか分からないが、音々野々も本気で嫌がっていなかったのかもしれない。本気で振り払おうとすれば、もっときつい言葉で、全力の力で明日葉の手を払いのけられた。

 けれどそれをしなかったのは、目の前の輝く銀色に自分の世界を示して欲しかったから。



「俺のとっておきを教えてやる、特別だぞ」



 眩しいほど良く笑う彼に、自分の空を晴らして欲しかったからだろう。




 部室の前を通らず、やがて辿り着いたのは元屋上に繋がる階段の途中にある、踊り場のような小さなスペースだった。

現在は数年前の校舎大規模改装の際に和太鼓部の部室がある別校舎と、普段生徒が利用する教室等がある本校舎を繋ぐ渡り廊下になってしまい、扉の向こうはただの壁なのだが、階段だけはそのまま残されていた。

 まるで隠れ家のように辺りから隔離されたそこに明日葉がすとんと腰を下ろし、音々野々に隣に座れと示すように床をトントンと叩く。



「練習、サボって良いんすか」

「部活より大事なことが時にはあるだろ。それがお前だったってだけ。ほら座れ座れ」



 努めて明るく、何でもないように言っていたが、すぐに連絡があった時に確認できるように自分のスマホを膝の上に置いている。

そのちょっとした行動からも、明日葉がいかに部活を大事にしているか、部員に心配をかけないように気を配っているかがよく分かった。

 自分の事は大丈夫ですから、もう放っておいて練習に戻って下さい。その一言がどうしても言えずに、音々野々は促されるまま床に座り込んだ。



「うちは特別強豪校ってわけじゃない。全国大会には今まで一度も出たことないからな」

「えっ、そうだったんすか。あんだけ練習してるのに」

「あははっ、お前それ絶対千鶴の前で言うなよ。秒でキレるぜ」



 音々野々の正直すぎる感想に、明日葉は特に気分を害した様子はなく、「それもそうだ」とでも言いたげに笑ってみせた。



「強豪ってなんだろうな。大会で優勝したら全国の舞台で演奏したら? より高い点数を取れたら? そう言われてもさ、なんか違うと思わねえ?」



 明日葉が小首を傾げながらそう問いかける。ふわりと彼の銀色が顔の動きと連動して揺れ、夕日に反射して輝いているように見えた。



「俺たちが毎日休みなく練習してるのはさ、シンプルに太鼓が好きだっていうのもあるよ。でも、やっぱそれだけじゃモチベーションは続かない。じゃあ何でやる気を持続させてるのか」


 ピンと立てられた人差し指が音々野々の前に掲げられる。

 無邪気な子供のようににこにこと終始楽しげにしている明日葉とは対照的に、音々野々はなおも顔を曇らせたままだった。

 そうして明日葉は新歓で見せたものと同じ、大人びた笑みを浮かべる。



「お客さんがくれる声だよ。俺たちの音が世界を震わせる。公演だとその感動がダイレクトに伝わってくるんだ。最っ高だよ。俺はこれに勝るものは無いと思ってる」



 ネット上の文字だけの称賛ではなく、直接注がれる生の声。音々野々の心でずっと引っかかっていた問題が浮き彫りになった気がした。

和太鼓をやりたくない訳ではない。ただ、自分を表現する一番のツールをもう既に彼は手にしてしまっている。手軽に自分を認めてもらえる場を得てしまっている。

それを手放してまで新しい世界飛び込む価値が、果たして百総和鼓部にあるのかどうか。


真っ新なスタートラインは時としてチャレンジ精神を掻き立て、人を一段階上に押し上げるが、またある時は全てを失わせる結果を招くことにもなる。

今まで積み重なったものが大きい音々野々にとって、飛び出すことはなかなかに難しかった。

ましてや芸能プロダクションのオーディション合格という一般人では掴めないチャンスをものにした現状なら猶更。

下を向いたままの音々野々に、明日葉は声をかけ続ける。



「もしお前に他にやりたいことがあるなら俺は止めない。それは俺が奪うべき選択肢じゃないし、人生を歩んでるのは俺じゃなくお前だ。物事の価値は人それぞれだからな」



 今もスマホを振動させるSNSの評価が音々野々の全てだった。

 けれど初めて五臓六腑を震わせた明日葉の音が、一瞬にして彼の価値観を変えたのだ。



「あの日抱いた感動を、今度はお前が違う誰かに繋げ。それが出来るのはここしかないよ」



 今まで俯いていた音々野々がぱっと顔を上げると、待っていたかのように明日葉がふわりと笑う。何も言わなかったが、「やっとこっちを見たな」と表情が雄弁に語っていた。



「選べ、音々野々」



 凛と射貫くように明日葉の瞳が音々野々を見つめている。

 もう逃げられないのだと言い聞かせているようであったし、彼にはもう答えが見えているような雰囲気さえ感じられた。

音々野々には道を自分で選べと言っておいて、既に明日葉はどうするべきかを示している。

 とことん狡い人だと、音々野々が心の中で悪態をつく。自分が思う通りに何もかも進むと信じているし、実際そうさせるほどの目に見えない力がある。

 すうと深く息を吸い込んで、音々野々が両掌を握りしめた。



「明日葉さんが教えて下さい。俺に和太鼓の楽しいも苦しいも、全部」



 さっきまで落ち込んでいたくせに、今度は明日葉を圧倒するように音々野々はずいと顔を近付けて力強い声でそう言った。

 やります。入部します。そんな一言が来るんじゃないかと予想していた明日葉にとって、今眼前に迫る後輩の意志は想像以上のものだった。

明日葉は選べと言った。けれど、問いかけた相手から返ってきたのはただの選択ではない。自分も含まれた、彼の未来への指針だ。

音々野々が太鼓を続けるには明日葉が必要であると、入部前から条件を付けられたようなもの。

 言葉にしなくとも伝わってくる後輩からの真っ直ぐすぎる願いに、憎たらしささえ覚える。



「良いよ、分かった。俺がお前を同じところまで引き上げてやる。その代わり、その後の二年は百鬼総合を頼むぞ」



 まだ入学したばかりだというのに、明日葉は音々野々に未来を預けた。

そうして初めてしっかりと自覚した。自分が明日葉といられる時間はもう僅かしか残されていないという事を。



「はい!」



 色々な思いもあっただろうが、ただ力強く返事をするに留めた後輩の姿を見て、明日葉が満開の笑顔を浮かべる。

それは舞台の上で見せる演者としての顔でも、純粋に和太鼓を楽しんでいる時の演奏者としての顔でもない。等身大の十八歳の青年の笑顔だった。



「今年の入部希望者もずいぶん減ったな。やっぱ女子がいないとモチベ上がんねえか」

「そんな事はありません。単純に俺が魅力を伝えられていないだけです」



 入学式から一週間が経過し、セミナー室には間宮や杜若、音々野々を含む数名の一年生が集められていた。

 席に大人しく座っているやや緊張気味の生徒を前に、ジャージ姿の初春ともう一人、百鬼総合高校和太鼓部顧問である結城紫教諭が立ちながら話をしていた。

伝統芸能を担当する顧問かと疑いたくなるほど猫背であり、かつ機嫌がいいのか悪いのか分からないジトッとした瞳が印象的で、新入生が口を開けない一因となっている。



「とりあえず今ここにいる君たちの入部届けは私が受領する。明日から正式に新入部員として他の生徒と同じスケジュールで参加してもらうから、初春の指示に従って下さい」



 初対面から陰湿な悪態でもつくのかと思っていたが、存外そこまで社交性にかけた男ではないらしく、想像以上に丁寧な言葉遣いと柔らかな声音で結城は淡々と説明を始めた。

 同じスケジュールとはいえ、朝昼の練習には参加する必要が無く、練習メニューもまだ初心者向けのものからスタートするらしい。当然ながら新入部員のほとんどが和太鼓未経験者であり、フォームも一切入っていない。

 百鬼総合高校は全日制の他に定時制生徒の受け入れも行っており、練習は何があろうとも午後六時には終了しなければならなかった。

毎日練習があるといえど、日々夜遅くまでやっているわけではない。だからこそ続けられているというのもある。



「じゃそういう事で。後はよろしく頼んだ」



 必要最低限の事だけを伝え、結城はひらりと軽く手を上げた後に部室を後にする。去り際にふわりと煙草の匂いがした。

 そのまま出ていくのかと思ったが、ふと足を止めて結城は間宮と目を合わせる。



「君か。御来屋棗のとっておきは」

「……は?」



 恐らく気を付けていなければ聞こえないくらいの音量で呟かれた人名を、間宮だけがはっきりと聞き取っていた。

だが彼の言葉の意図が分からず、怪訝そうに眉間にしわを寄せる事しか出来ない。

 間宮と結城が一往復だけの言葉を交わしている間、初春が後ろを振り返って「集合」と良く通る声で他の部員に伝える。

すると、それぞれ準備を終えて待機していた生徒たちがぱらぱらと足早に集まってきた。誰一人遅れたりすることが無い様子から、いかに初春の統率が取れているかが良く分かる。

 セミナー室の前部分にある少し広めのスペースに部員たちが集合し、初春の次の言葉を待っている。その間にも、新入生である音々野々たちに好奇の視線が注がれていた。いつの間にか結城の姿はなく、既に退室したようだ。



「今日から一年生が正式に入部する。一人ずつ簡単に自己紹介を。じゃあ、右からいこうか」



 ミーティングの一番初めに突如として訪れた緊張の一瞬に、音々野々と間宮以外の新入生たちの顔が強張る。その二人は至って平然としており、音々野々に至っては心底楽しそうに口元に笑みを浮かべていた。

 初春の右隣に立っていた一人目の新入生が緊張感全開で挨拶をした後、その雰囲気が移った様子の杜若が若干震える声で自己紹介をする。



「一年二組の杜若よよです。いっ、一生懸命頑張ります!」



 精一杯さが伝わってくる新入生らしい挨拶の後に、無気力に視線を下げた間宮の番が来る。



「一年一組、間宮九十九です。よろしくお願いします」



 言葉は簡単であるし、口調も気だるげであったが、年上の先輩を軽視している様子ではない。

 間宮が自己紹介をした時に、部活説明の際に一触即発であった柊が露骨に嫌な顔をして隣に立っていた明日葉につつかれる。柊を注意した後、明日葉は待ってましたとばかりにふわりと口元を緩ませて、最後の生徒の紹介を見守った。



「同じく一年一組、音々野々亜蘭です!新歓の舞台で明日葉さんと皆さんの演奏に一目惚れしました。これからよろしくお願いします!」



 入部するほとんどの部員が同じ理由でここへやって来ているのだろうが、はっきりと自分の思いを口に出したのは後にも先にも音々野々だけであった。そのあまりの素直さに、明日葉が堪えきれずに噴き出す。

 音々野々の自己紹介で何となく緊張感が張り詰めていた部室の空気が和らぎ、杜若はじめ新入生たちの顔も綻んでいく。

 訪れにしては派手ではあったが、百総和太鼓部にも春がやってきた。



* * *



和太鼓部という言い方をしてはいるが、実際に演奏しているのは太鼓だけでは無い。それに一概に和太鼓といっても種類は様々だ。


 百鬼総合の曲で主に使用されるのは、一般的に良く目にする平置きの長胴太鼓。これ一つとっても皮の張り方や直径の大きさで音の高低がある。

他にも囃子などで使用されることの多い締め太鼓や、運ぶのに男子生徒四人を要するほどの大締め太鼓がある。


 さらに添え物としてもいくつか和楽器を使用する。すり合わせたり打ち合わせたりして軽快な音を奏でる小さなシンバルのような和楽器、チャッパ。

はっきりとした音でリズムキープなどの重要な役割と持つチャンチキ。

そして、唯一和太鼓部が使用する楽器の中で音階を持つ篠笛。


 新入生である音々野々らはまだ和太鼓の基礎から入っているが、教えてくれる先輩は時間によって変わる。

練習曲によって空いている生徒が講習を代わる代わる担当しているようで、先日柊が教えに来た時は一年生の間に戦慄が走った。


 基本全部員が長胴太鼓を叩くことが出来る。上達具合に多少の差はあるが、公演で演奏しても全く問題ないレベルだ。教え方も人それぞれであったが、皆共通して同じフォームをしている。それ程に型が染み付いているのだろう。


 和楽器の練習にも、吹奏楽でいうロングトーンのような基礎的な練習メニューがある。

ひたすら連打を続けたり、逆に一打一打を強く打ち込むために間隔を開けて全力で振り下ろしたり、実際同じ太鼓から出る高さは一つだけなのだが、打ち方ひとつで聴衆に届く音は変わる。

 習い始めに変な癖がついてしまうと、元に戻すことが難しいのは和楽器に限ったことではない。だからこそ新入生の講習はとても丁寧に行われた。

 入部して約二週間。夏の陽気になり始め、部室の中でもちらほらと半袖を見かけるようになってきた。



「間宮くんは形が綺麗ですね。音々野々くんは力強くて大変良いですが、もう少し型を重んじましょう。フォームが整えば、さらに強い音が出せるようになります」



 この日も志貴が講習を担当していた。あまり意識はしていなかったが、代わる代わる先生役が変わっていく中で、志貴がこうして新入生の面倒を見てくれる機会は他の二年生に比べて多い気がする。

 それはただ単純に教え方の上手さを先輩が買っているからなのか、別の理由があるのかは追求していないが、一年生たちにとって優しい志貴が教えてくれるという事は有難い話であったし、気にするほどの事でもなかった。



「杜若くんは……、そうですね。下半身の筋肉を使ってあげましょう。今は腕の重みだけで太鼓を叩いているような印象があります」

「えっ、腕の重さだけじゃ駄目なんですか。だって撥握ってるのは腕なのに」

「あくまでも一番力を伝えるのが腕というだけです。実際はもっと様々な筋肉を使っているんですよ。肩や背中、それから振り上げる為の下半身。その集大成が」



 あえて志貴はそこで言葉を止め、自分の撥を振り上げる。

 体の大きさは杜若の方が横幅だけで言えば倍近く大きかったが、振り下ろした志貴の音はそれまで杜若が出していた音の数倍は大きく、深みのある音だった。

 それまであまり本気で叩いていないような雰囲気のあった志貴がみせた全力の一打に、杜若含めその場にいた全ての一年生が息を飲む。



「こんな感じです。ですから杜若くんはもっともっと良い音が出せるようになりますよ」

「おぉ、雅かっこいい~。珍しいねぇ、今みたいな打ち方するの」



 志貴が杜若に笑いかけた瞬間、その背後からゆるりと寿屋が顔を出した。

 そのまま寿屋が不機嫌そうに眉をひそめた志貴の両肩を掴んで、自分の方へと引き寄せる。突然のスキンシップにうまく受け身が取れず、されるがままに寿屋の腕の中に納まった。

 同じ二年生ではあったが、寿屋は志貴の頭一つ分ほど背が高く、そのまま無遠慮に志貴の頭の上に顎を乗せる。



「理央。今は僕が彼らを教えているんです、邪魔しないで下さい」

「ごめんごめん、暇になっちゃってさ。俺も一緒に教えていい?」



 寿屋の素っ頓狂な発言に、志貴が「はぁ⁉」と声を荒げる。ふと練習スケジュールを見れば、本来なら寿屋も参加するべき曲の練習中だ。けれど今ここで一年生と共に時間を過ごしている。


その理由は、寿屋が担当している和楽器にあった。寿屋理央はこの百鬼総合和太鼓部の中で特異な立場にいる。


 当然ながら彼も人並み以上に太鼓は叩けたが、寿屋は好んで笛やチャッパを担当していた。

和太鼓演奏の花形といえばやはり魂を震わせる太鼓なのだが、彼はそれ以外の、時として小物と呼ばれる「添える」役割を担う楽器ばかりを選ぶ。



「そういえば寿屋先輩が太鼓叩いてるところ、あんまり見たことないかも」

「基礎連はまだ俺たち参加させてもらってないしな。そっちではちゃんとやってんのかな」



 杜若と音々野々が小さな声で話していると、寿屋が二人の方を見て口角を上げた。

 失礼に値するだろうからあまり聞かれたくない事だっただけに、気付かれてしまったという事実に対して二人してピンと背筋を張る。

 分かりやすい反応に寿屋がカラカラと笑い声をあげ、志貴の顎の上で喋り出す。



「俺は上手いから、好きなことしかしたくないって我が儘が通るの。瑛人さんとか千鶴さん、あと秋介さんはめちゃくちゃ上手いと思う。でもさ、他の三年生がどうかって言われたらちょっとグレーじゃん」



 眠そうに垂れた寿屋の瞳が少しだけ優しさとは反対にある感情を孕んだような気がして、音々野々たちは無意識に立ちすくんでしまう。



「だって舞台に上がれば年齢なんて関係ないもん。上手い人が正義。人を感動させることが出来れば勝ちなんだ。俺、先輩たちに敬意はあるけど対抗心もめちゃくちゃあるよ」



 実際に寿屋が太鼓を本気で叩いている姿を一年たちはまだ見たことが無かったが、彼が時折セミナー室の一番後ろで吹いている笛の音は、今まで聞いたことが無いほど繊細で、一つ一つの音がクリアに飛んでくる綺麗な音色をしていた。



「紫せんせー、今年の夏合宿いつから?」

「夏休み入って五日目から」



部室の一階下にある農業科目教諭室で、明日葉と結城が話をしている。

期末テストが終われば学校は休みになり、夏がやってくる。祭りの一大シーズンであるし、公演依頼もいくつか入っているようだった。

明日葉としては炎天下の下演奏するのは夏らしくて好きなのだが、去年も数名の生徒が熱中症になっている。


夏季休暇に入れば今まで土日にしか行われなかった筋力トレーニングや長距離ランニングが毎日行われるし、最上級生として不安があるのは確かだ。

そんな明日葉の不安を感じ取ったのか、結城が自分から目を逸らした彼を一瞥する。



「何事も早く固めた方がいい。辞める判断も、続ける覚悟も」



 生徒の前だというのに一切気にも留める様子も無く煙草に火をつける結城。煙と同時に吐き出された言葉は酷く残酷で、高校生の自分には簡単には出来ない大人の考え方だと明日葉が口を真一文字に閉じてしまう。



「そこは大丈夫だって言ってよ、仮にも顧問なんだから」



 ヘラリと笑いながら呟かれた明日葉の懇願に一切答えることなく、結城は肺いっぱいに吸い込んだ煙を、彼に当たらないよう頭上にふわりと吐き出した。


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