序章 特別な夜に出会い⑥

「リザ、あなたはこのこんいんについて何を聞いた?」

「……二日前に、とつぜん、住んでいる離宮に兄上……陛下のおつかいが来て、キーフェルきようとつげと言われました」

「それだけ?」

 リザはだまってうなずいた。

「それでリザはどう思った?」

「別になにも。兄上は、領主夫人になるのだから、いい生活ができるとおっしゃいました」

「……なるほど」

「あの……イストラーダってところに、ニーケも連れて行っていいですか?」

 リザの質問に、エルランドはしんけんに考えこんでいたが、やがて重く口を開いた。

「リザ……その問いに答える前に、俺からも大切な話がある。聞いてくれるか?」

「はい」

「俺にとっては、このけつこんは望んだことではなかった」

 知っている、とリザは思った。こんな自分を望む者などいるはずがない。

「俺は南の国境戦で、かなりの武功を立てたと自負している。しかし、王がほうしようとしてくれたのは、何もない辺境だった。俺は苦楽を共にした仲間を養わなくてはいけない。王家には義務を感じるけれども、正直、心から忠節をちかっているわけではない。だから」

 そこでエルランドは、リザがわかっているのかどうか、確かめるように言葉を切った。

すべて言いなりになるのは嫌だと思った」

「言いなりになるのは嫌……」

 いつもきようぐうを受け入れるだけの自分のことをリザは思う。

「普通なら初夜を迎えるむすめには、だれかが手ほどきをする」

「しょや?」

 リザは小首をかしげた。あどけない仕草にエルランドは唇をみしめる。

「婚姻の後の初夜になにが起きるのか、あなたには想像もつかないだろう。普通なら絶対にすることがある。しかし、俺は今夜それをしない」

「それって、しなくてもいいものなの?」

「いや、しなければならないものだ。しかし、見たところ、リザにはまだ、その準備ができていないし、俺はこんなになあなたに、男のするこうはとてもできない」

「それは私がカラスだから?」

「カラス?」

「髪も目も黒いから。兄上や姉上がそう呼ぶの」

「あの気取り屋どもが……いや、なんでもない。だが、リザはカラスなんかじゃない」

 小さな顔からこぼれ落ちそうなひとみが、ゆらゆらとエルランドに向けられた。

「リザ、申し訳ないが俺は、あなたを連れて行かない」

「……それ、どういう意味?」

「あなたはここに残るということだ」

「……ここに、のこる?」

「イストラーダは、ミッドラーン国の最東にある。そこは今まで誰も欲しがらなかった土地で、非常に貧しく危険なところだ。俺ですらほとんど足をみ入れたことのない地方なのだ。そんなところに、深窓のひめを連れて行けない」

「しんそうのひめ?」

「そうだ。リザは王宮から出たことはないのだろう? とりでは何十年も放置されていて、まだ住めるところではない。情けないが自分のねぐらもままならぬのに、リザをあらゆる危険から守り抜きながら、広い辺境をしようあくする自信が俺にはまだないんだ」

「……」

「だが俺は、どんな苦労をしても領地から利益を生み出してみせる。ただ、それには時間がかかる。おそらく数年以上は」

「数年……」

「ああ。おそらく三年以上はかかるだろう。だから、リザはここに残して行く。俺は明日にでもここをつ」

 エルランドが、リザの指先をにぎってくれる。それはとても大きくて熱い手だった。

「……リザには心からすまないと思う。だが、俺がイストラーダを統治することができたら、必ず迎えに来る。約束する。本気だ。あなたを見てそう決めた」

「約束? 迎えに来る?」

「そう。だから……何年か待っていてほしい。いつだとはっきり言ってやれないのが申し訳ないが、捨て地とはいえ、せっかく拝領した俺の領地だ。必ずやりげてみせる。だから、それまであなたをここに置く。どうか許してほしい」

「……わかりました」

 たった十四年しか生きていないリザだが、自分がらないと言われていることは理解できた。約束はした。しかし、約束とは、常に守られないことも知っていたのだ。

 リザにとって、「いつか」とは「永遠にこない」と同義だった。

「わかりました」

 わかり過ぎるくらいだった。だからうそをつくのも簡単だ。大人に対して、ものわかりのいい振りをすることなど造作もない。いままでずっとそうしてきたのだから。

「ここで待っています」

「いい子だ、リザ。だが、行く前にできるだけのことをしよう。そして、毎年イストラーダからおくり物をしよう。最初は大したものは贈れないだろうが」

「それはてきね」

 ていかんを帯びたリザの声にエルランドは気がつかない。

「さぁ、今夜はもうるとしよう。あなたもつかれただろう。俺はなが椅子いすで寝る」

「このしんだいは大きいわ。あなたがいつしよに寝てもだいじよう

「……いいのか? こわくはないか?」

 エルランドはえんりよがちにたずねた。

「ええ、不思議と今は怖くないの。ほら、私ははしに寄るから」

 寝台の向こう側に体をずらしかけたリザを引きとめるように、エルランドも寝台によじ登った。上着をわきほうるとリザのとなりに横たわり、そのかたを引き寄せる。

「この部屋は広すぎて寒いが、こうすれば温かい」

「……」

 リザは男性とねむるのは初めてだった。彼の体はおどろくほどかさ高く、体温が高い。まるでだんのそばにいるようだ。

「ではもう、眠ってしまおう。明日の朝、リザをきゆうまで送って行くから。ニーケが心配しているだろう」

「ええ……でもひとつお願いがあるの」

「なにかな?」

「私もあなたの名前を呼んでもいい? 一度だけでも」

 リザはこれ以上なにも望まない。これが形だけの結婚で、夫となった男は、自分を捨てて去っていくのだ。彼が自分に向けたのは、ただひとつ──あわれみだった。

「一度と言わずに何度でも、リザ」

「いいえ、一度で……一度でいいの。私はずっとここにいます。エルランド様」

 しゆんかん、リザは強く胸にきこまれた。額にくちびるが押し付けられ、熱いいきが顔にかかる。

「すまないリザ。必ずむかえに行く。あなたは俺の妻だ」

「私はあなたの妻です」

 ぴりりと苦い男のかおりを吸い込みながら、リザは嘘をついた。にがくて甘くてくるしい。

「リザ……」

 エルランドはリザを見つめた。昼間見たんだあいいろの瞳は、今は黒くけぶっている。

「おやすみ、リザ」

 男の大きな手がリザのかみでる。それが心地ここちよく、とても安心できた。

「安心しなさい。リザが眠るまで見ているから」

 昼間の疲れもあって、リザのまぶたはゆっくりと閉じていく。リザは自分が微笑ほほえんでいることに気がついていなかった。昼間の疲れからか、すぐにぐっすり寝入ってしまう。

 だから知らなかった。何かが唇にれたことを。これが二人の初めての夜。

 情熱もよくぼうもない。

 だが、二人にとって忘れられない夜となった。

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置き去りにされた花嫁は、辺境騎士の不器用な愛に気づかない 文野さと/角川ビーンズ文庫 @beans

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