へその緒博物館

雨の粥

へその緒博物館

 10代の頃、半ば強引に家を飛び出した。

 しばらくの間、海の近くで暮らしていた。その頃、忘れられない場所を訪れたことがある。そこは人の心の原風景とでもいうべき場所だった。その体験の前と後とでは、私の物の見方はがらりと変わってしまった。



 住んでいたのは傾きかけたような古いペンションだった。生活費やスマホ代のために、知人の紹介で働いていたのだ。住み込みで、しかも食事付きだったのでありがたかった。

 年代物のペンションは、壁がところどころ剥がれ落ちていた。だが、青い窓枠が外壁のクリーム色によく映えて、美しい建物だった。

 休日は特にすることがなかったので、街じゅうを隈なく歩き回り、頭のなかの地図を完璧に近づけていった。景色の良い海沿いは先に回ってしまったので、後半は暗い路地ばかりが残っていた。

 ある日、気分転換に海岸を散歩していると、奇妙なポストカードが落ちていた。


 ――へその緒博物館

 特別展2124年〇月△日~□月〇日


 展覧会の告知のようだが、日付は100年後だ。

 ジョークで作られたものか、それとも単なる誤植か。薄くて硬い、不思議な紙でできていた。砂浜に転がっていたにも関わらず、折れ曲がった跡や水染みはなく、砂を払うと刷り上がったばかりのようだった。

 表には、展示室を写したものと思われる写真があった。

 写真は解像度がとても高い。まるでポストカードを通して展示室を覗いているようだった。しかし、美しい写真ではあるけれど室内の照明が不足していた。陰になってしまい、展示品までははっきり見えなかった。あるいは、わざと隠されているようでもあった。

 へその緒博物館というからには、実際にへその緒が展示されているのだろうか……。それともへその緒をコンセプトにした何らかの作品だろうか。

 私は、この奇妙な展覧会を自分の目で確かめたくなった。

 日付の怪しい会期など、気になる点はいくつかあったが、現地まで行ってみることにした。

 ポストカードの裏面には簡単な地図があった。

 最寄り駅として記載されている駅のことは知っていた。

 だいぶざっくりした地図なので、具体的な場所までは分からない。よほど小さいビルなのか、地図アプリで検索しても出てこなかった。一階に「ミモザの吐息」という喫茶店があるらしい。こちらも検索では見つからなかったが、ビルの前まで来たときの目印にはなるだろう。博物館は5階にあるらしい。

 後は向こうに着いてから歩いて探すことにして、電車に乗った。

 駅を出ると、見知った景色が広がっていた。

 地図アプリ上の▼が指しているのは、オフィス街の真ん中だった。

 奇妙なのは▼が道路の真ん中にあることだ。ポストカードの地図によれば、ちゃんと区画に収まっているのだが――。実際はその周辺の路地の奥なのかもしれない。狭い道を探索するのにはすっかり慣れていたので、見つけられる自信はあった。

 オフィス街の主要な道をひと通り回ってから、クルマが一台通れるぐらいの筋に入っていった。大きなビルが立ち並ぶメインストリートからは離れていくことになった。

 うらぶれた一画にたどり着いた時には、自宅に帰り着いたような安堵を覚えた。

 ツタに覆われた集合住宅や、シャッターを降ろしたビルが並んでいた。

 そのまま奥に進むと、目印である喫茶店「ミモザの吐息」を見つけた。栗色の看板が錆びてボロボロになっている。シャッターは降りていない。まさか営業しているようには見えないが――。

 喫茶店を通り過ぎ、私は階段を上がっていった。5階まで階段というのはなかなか疲れる。ひょっとして出入口は反対側にもあり、こちらは非常口なのではないか。反対側にエレベーターがあったなら笑い話だ。私は長いらせん階段を一段ずつ上った。



 5階の廊下の途中に「へその緒博物館」という看板が出ていた。心臓の鼓動が速くなるのが分かった。へその緒博物館はほんとうにあったのだ。

 扉は開いていた。

 だが照明はなく真っ暗で、真夜中のような暗闇が広がっていた。真正面には壁があり、左右に通路が延びていた。なんとなく動物園の夜行性動物舎を連想した。私は一度扉の前を素通りし、廊下の端まで歩いた。緊張が収まるのを待ってから引き返し、右側の通路をそっと覗きこんだ。

 すると、反対側の通路から声を掛けられた。

「初めまして。館長のルトスワフスキです」

 驚いて声を上げるところだった。

 振り返ると、黒いシャツを着た老紳士が歩いてくるところだった。髪は白髪のオールバック。厳めしいあごひげを蓄えているが、表情は柔らかかった。

「あの、すみません。ここのポストカードを見つけて……」

 ルトスワフスキ氏は頷いた。

「ようこそいらっしゃいました。いや、ここまでたどり着くとはなかなかのものです。並大抵のことではありませんからな」

「暗い路地を歩くのには慣れているので」

「ええ、そうでしょうとも」

 ルトスワフスキ氏は静かに笑みを湛えていた。

 確かに道は分かりにくかったが、そこまで大変だとは思えない――。

「今は展示の期間中ですか? ポストカードの日付はだいぶ先だったみたいですけど……」

「ええ、心得ていますとも。もう一度よくごらんなさい」

 まさか見間違えていたのだろうか。

 現にルトスワフスキ氏がいて、扉は開かれている。私がポストカードに書かれた日付を見間違えていたという可能性は大いにある。

 私はコートのポケットからポストカードを取り出し、日付を確認した。


 ――へその緒博物館

 特別展2124年〇月△日~□月〇日


 間違いない。やはり100年後の日付が記されていた。

「いえいえ、申し上げているのは、お持ちになっている機械の方ですよ」

 なんとなく奇妙な予感があった。私はスマホを取り出し、画面をオンにした。

 私は息を飲んだ。

 画面が、砂嵐のようになっていた。

 かろうじて操作することはできたが、時刻などの表示はすべて文字化けしていた。

「影響を受けるのは、あくまで概念です」ルトスワフスキ氏は言った。「そちらの機械の仕組みは分かりかねますが、季節や天体の運行を表すものなら何であれ、ここでは用を為しません」

 ここでは――。ならばここは何だというのか。

 奇妙な状況だったが、ルトスワフスキ氏という人物のせいだろうか。今の状況を愉快に思っている自分に気づいた。

 私は微笑んで言った。

「もっと教えてもらえますか」

「ええ、いいですとも。では参りましょう」

 私はルトスワフスキ氏と博物館に足を踏み入た。彼は最初の扉を開けて入っていったので、私も続いた。

 そこは応接セットが置かれた部屋だった。調度品はすべてレトロな西洋風のアンティークだった。飾り棚には、ガラスでできた地球儀のようなオブジェが置かれていた。

 勧められた椅子に座り、ルトスワフスキ氏が淹れたコーヒーを飲んだ。

 一息ついたところでルトスワフスキ氏が言った。

「まずは窓の外をご覧ください」

 私は椅子から立ち上がり窓の側まで歩いた。優雅な窓枠に目を奪われながら、窓の外を覗いた。

 オフィス街の外れにいたはずが、窓の外には素朴な造りの庭園が広がっていた。

 季節は冬だというのに数多くの花が咲いている。これはどういう仕掛けだろうか。

「いいですか、ここはとても深いところに作られた秘密の園です」

「地下深くっていうことですか」

「そうとも言えます。この場所を、そのように捉えていた人々の国は数多くありました。とても古く、とても遠い場所。それが今われわれがいる場所です。天国だとお思いですか? ここを作られたお方は、そのようなものを作るつもりでおられたようです……。いえ、神ではありません。ですが、神のように振舞っておられました」

 地下にあるならむしろ地獄ではないかという気がしたが、私は言葉を挟まなかった。牧歌的な花園には確かに天国という名前が相応しい。あるいは楽園ではないだろうか。

 ルトスワフスキ氏は変わった形のパイプをくわえた。見たこともない品だったが、彼にはとても似合っていた。煙を燻らせながら話を続けた。

「とても古い時代に失われてしまった太古の園を、陛下は取り戻そうとされたのですな」

「陛下?」

「私がお仕えしている女王陛下です。今は力の及ばないところに隠れておいでですが、いつの日かお戻りになると信じております」

 この紳士は王族に仕える家臣だということらしい。そう言われてみると、この男の雰囲気は王族の家来という表現がぴったりだった。

「おっと、どうも話が逸れていきますな。この建物の話をいたしましょうか。すでにお気づきかもしれませんが、この建物は見かけ通りのものではありません。見る者によって形はそれぞれです。あなた様の目にも、自然なふうに見えていることと思います。これもそう、あくまで概念なのです」

 ビル街の中の雑居ビルの一つと思っているが、そうではないということだろうか。

 そうだとして、どこで何が変わったのだろうか。私は彼に訊ねてみた。

「あなた様がかつて属していた世界との繋がりを失いつつあること。それが一つの引き金になっております。この世界はすべて混沌としております。地図で調べていらっしゃったかと思いますが、この建物は載っていなかったかと思います。その上で歩き慣れた路地を頭に描きながら、歩いて来られたことでしょう」

 確かにその通りだった。だとしたら一つ気がかりなことがある。私は言った。

「今から、元いた世界に戻ることはできるんですか?」

 ルトスワフスキ氏は笑って言った。

「できますとも! 安心なさい。あなたはまだ展示を見ておられない。今なら引き返すことができます。そうでしたね。あなた様は博物館の展示を見に来られたのでした。どちらでも結構です。見るのも見ないのも自由です」

「展示を見たら引き返せないということ?」

「そういうわけではありません。展示を見た上で、元の生活を続けてらっしゃる方もおられます。ただ多くの場合、展示を見た瞬間、魂の在り方が大きく変わってしまいます。時間や空間に関することなどは序の口に過ぎません。……ちょうど、お手元の機械の不調のようなことが、ご自身の肉体に対してあらゆる面で起こってゆきます。ですが、それ相応の精神力があれば、対処することができます。申し上げておきますと、あなた様には十分な素質が備わっております。しかしそれでも確実なことは言えません」……



 ――私は選択をした。

 結果として、かつて自分が住んでいた世界に戻り、ペンションで稼いだ資金を元手に新しい生活を始めた。選択を後悔したことはない。この世界には開いてはいけない扉があるということかもしれない。

 私のスマホだが、帰ってみると電源が入らなくなっていた。中身を確認するのも怖い気がしたので、そのままゴミに出してしまった。どちらにしても、きっともう使い物にはならなかったことだろう。中身の心配はしていない。  

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