第8話 1/13

 年が明けた。

 地獄の釜を開いてから、ちょうど3ヶ月目を迎えることになった。

 一時期はどうなることかと考えたし、これからもあるものと思われるがうつの現状について、記録も兼ねて綴らせてもらう。最後のうつ状態は火曜日に明けて、明日で何事もなく1週間を迎えられる。

 1週間。長いようで短かった。短いと思えることの素晴らしさよ。一日の長さに絶望して、気分が下がるということもなく、ましてその発想に至ることもない。これほどの長いスパンでうつ状態が現れないことは我が身にとって本当に幸運なことだ。十一月の第2週以来となる。

 これを少しずつ延ばしていく。まずはそこから安定期に入ることが出来るだろう。結局のところ、うつというのは脳の問題で神経伝達物質の調整が困難になり、不安を差配するホルモンの分泌量が出すぎたり、出なさすぎたりする、れっきとした病気なのだ。

これは蛇口に例えると良い。

 人の感情の全ては脳の分泌する、物質の作用でしかない。

 感情の変化の要因は外部刺激が殆どだが、人間は思考によって種々の感情の蛇口を開けたり、閉じたりを繰り返して生きている。だが、ストッパーが存在する。その蛇口から感情を出しすぎないようにさせる、そういう留め金があるのだ。

 躁鬱は、その蛇口が壊れる。

 なんの原因も無いのに、不安の蛇口が勝手に旋回して、脳が自分の感情の外で左右される。なんの比喩的表現もない。ただよくわからないまま、不安になったり、塞ぎ込んだり、世界が暗くなり、鬱然として息苦しくなる。

 あの感覚は知れば知るほど、慣れないし、どうしてそうなっていたのかが分からない。

 風で寝込んだ辛さを治った人間が思い出せないように、それは酷く病的なのだ。

 思い出したくもない。

 酷いと「底が抜ける」。底が抜ける、の表現は我ながらいい。これは世界の底が抜けたような浮遊感に近いものがあって、冷や汗が止まらなくなり、動悸が一段と酷くなる。加速度的に悪い考えが脳を駆け巡り、日常生活にある肝を冷やすような、ひょっ、とする心臓の締まる瞬間が数分ぐらい続く。これが凄まじく、恐ろしい。正直、そう何度も味わいたくない。あんなに恐ろしいことが世の中にあってたまるか。

 壊れた蛇口はなかなか締め切らないし、時折突然にひねり開いていって、次第にゆったりと気分が下がっていく。生活が侵されるような感覚だ。常に病気のことがついて回るし、それがいつ何時ひどくなるかも分からない。

 人付き合いも、大学もよくやった。

 あの状態で大学に行き続けるのは相当な無理をしているのは間違いない。

 後の為にも言っておくが、自分の心持ちに違和感が出てきたら、すぐに病気を考えた方がいい。俺は初動が良かった。まともな医者に会えたし、すぐに薬も出してもらえた。薬は悪いものじゃない。

 薬漬けになるとか、過剰摂取してしまう、とかそういうものはない。そもそも日々進歩する医療において、依存性のある薬などを野放図にはしない。まして医者は別にこちらを薬漬けにする気も、オーバードーズさせる気もないわけで、この蛇口を上手く締め切らせたり、あるいは留め金を作ってくれたりする。

 まずかったら、すぐに薬だ。

 蛇口は壊れていても、本来はその調節量を覚えている。それを思い出すようになるまで、安定するまで、薬で補ったり、支えたりし続ければそう長くは続かない。これからの俺にも、これを読む誰かにも言っておく。

 自分の心は空模様だ。

 静かに曇っていき、途端に嵐を呼んだりする。だがそれを上手く見極めて、心に沿うようにすれば良い。嵐が来れば隠れれば良いし、雨ならば傘をさせば良いのだ。対処療法でしかないけれど、脳はまだ若い。すぐに行動すれば永久には続かない。

 一番に恐ろしいのは、薬を飲まずに無理くり抑えようとすることだ。壊れた蛇口を日々の生活に平常運転で動かしていれば、どんどん緩んでしまい、戻らなくなる。自分の感情をどうにもコントロール出来なくなって、俺のまだ知らない深い地獄が待っている。

 脳にうつを覚えさせてはならない。脳は戻るべき本来の分泌量を見失い、うつ状態を自然状態と捉えだす。こうなれば治るものも治らない。重度のうつ患者はそういう自分の病状に目を瞑って、病識を持たなかった成れ果である。彼らの脳の形は歪んでいるらしい。うつになるべくして、なり続け、うつが続くように自己の脳が成長してしまうのだ。

 

 また日数が経った。

 先に言えば、1週間はもたなかった。先日、前段の文章を書き終えた直後に下がりだしていって案の定、鬱転した。この感覚は慣れない。慣れたくもない。心にざわめきがあって、首筋が硬直する。そうして世界から色が抜け落ちて、何をする気力も吸われて、虚無感に支配される。想像も、意欲も、うちの子すら描けない。

 あんなに怖いことはない。断言して良い。病ほど、恐ろしいものはない。

 元旦の夜から鬱を味わうハメになった。次の日も、その次の日も……と思われたが、割となんとか持ち直している。少し嬉しいことだ。数日間の復活が来た後は、また不安定になるものだと思っていたが、ちゃんと自分が戻ってくる時間が多い。昼間はかなり上手くやれている。

 問題は夜だ。

 夕方の5時頃から、鬱転しやすくなった。こいつは困る。夜はのんびりしたいのに、このもやもやが(これまでのと比べたら幾分マシなものだが)現れる。こいつを潰す為にいくらか手を尽くしたが、今、処方されている頓服はどうにも効かない。

 耐えるしかないが、少し付き合いが分からなくもない。

 夜の8時から9時が鬼門だ。そこを越えるとケロッと治る。これまで時間帯で悩まされたことは無かったからこそ、こいつには正直、得体の知れない嫌な風がある。酷いと底抜けまで持ってかれそうになるのはどうにもやりきれない。

 思えば、夜だったかもしれない。鬱に夜はキチいのだ。

 ログを漁ってみればNにも鬱らしき時期はあったように思う。Nも同じようなことを言っていた。なった人間にこそ、やっぱり色々と聞いてみたいものがある。どこから始まり、どのような経過を辿って、どうして治ったか。

 考えてみればNKにもその気があったろうか。彼のアルバイトに賭ける、ある種、病的なまでの執着はどこかで彼の中に壊れた部分があるんじゃないかと誠に失礼勝手極まるが思うところがある。誰もがそれなりに辛いのだ。自分もこういうものを一端の人生経験と言える時が来てほしい。

 病状はこの2週間でだいぶ良くなっている。これからのレポートラッシュに、休み明けの大学でぶり返さないのを祈るばかりである。

 

 友人に白状しようか、時々、思うことがある。

 こんなものを書いているのだから、もう公言しているも同然だと言えるやもしれないが、まだそこには幾ばくかの心理的な壁がある。わかってほしいが、家族にも理解されないものだし、鬱が抑えられているときの自分ですら、なんであんな調子だったのか見当もつかないものだから、どうにもならない。

 ただ辛いものを辛いと言える仲が欲しかった。自分の友人づくりを少し悔やむ時がある。

 Tにはとてもだが言えない。弱者を思いやるという考えを持たない人間だ。俺もほんの少し前までは鬱は甘えだとへらへら思っていたろう。人間誰だって、我が事にならなければ、人のことなどを思いやれたりは出来ないものだ。

 文学者は弱くあれ、そう言ったヤツがいた。その通りだと思う。誰かの身の上、誰かの苦境、誰かの葛藤、そういうものを描くのならば、思いやるのが前提だ。物書きは弱くて上等で、弱いからこそ、誰よりも側にあって、優しくなれるのだと信じている。

 誰かを思いやって書いているのだ。誰かが自分であってもいいと思う。人に言えるものはないが、誰かに言われたら今度こそは優しくありたい。苦しむ人間に、少しでも優しくなれたのなら、俺はまた一つ成長できたのだろうか。


 成人式と、同窓会はよくやれた。周りから見た俺はどうだったか知らないが、少なくともよくやれていた。正直、ほんの数日前まで自分がそこに立てるほどに復調できているとは思えなかった。よくやった。あれは本当に。

 その分の疲れも出ると踏んだが、やはり成人式後の二次会ですぐに帰宅した。

 反動が来ることをまだ怯えている。とりあえずは、また今日の夜も鬱転していたが、次第に良くなって、ただ書くばかりだ。書いているといい。書いていてよかった。自分の病の軌跡がわかると、あるいは書けるまでの自分がいると思うと、俺はまだやれると力が湧いてくる。地獄にも俺は書いた。ならばこの身あるかぎりは書き続けてやろうと思えるのだ。

 先は見えない。だが、書いていこう。

 道に導を撒いていって、辛い時に振り向けば長き道程となって誇らしく思える。重いものを背負って、時々後ろを、あるいは先ゆく己に石を撒いていけば、この峠を乗り越えた時に見る世界が、輝かしいものだと俺はきっと信じられるだろう。

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