第6話 11/23
うつを心の風邪と形容するのは実はそう的確ではない。これは心、ではなくて、脳の問題なのだ。だから気に病むとか、あるいは心持ちでどうこうなるものではなくて、脳に対してできる限り労ってやらないとそうそう良くならない。
足が折れたのなら患部を使わない選択肢を取ることが出来るが、現代生活には脳を酷使せねばならない場面など幾らでもある。もっとも人体で最も使われる場所はどこか、それは脳内なのだ。
頭を使う。これは良い表現だ。脳を使って、モノを考えて、あるいは集中し、事物を思考する。これこそが私たちが考える葦である所以だろう。そして五体よりもまず、頭は使われ続ける。脳は特殊な機関だ。人類が持つには大きすぎた複雑で、巧妙な人体の神秘だ。人間は頭を使ってしまうばかりに、日に半分もの時間を睡眠に当てなければならない。そうでなくては脳は働かない。脳はデリケートだ。数日徹夜すれば簡単に壊れる。
思えば頭を使いすぎた。幼い頃から日に数時間は勉強して、ものを覚えて、考えさせて、かなりてひどく扱ってしまった。俺の脳が苦しんでいることを、俺は気づけなんだ。身体を動かそうとしない代わりに、頭ばかりをでっかくすることが自分の未来への道だと信じ込んでいた。
疲労骨折なるものがあるように、使いすぎた頭は使われたことを忘れていない。これまでの二十年の人生で俺は人一倍考えてきた。考えたからこそ、内気で臆病である性分を形成し、あるいはその卑屈な境涯に一矢報いるために、自分の脳で以てうちの子を描いてきた。俺の創造は描画に似ている。とてつもない容量を食って、負担を脳にかけながら、創作をしてきたし、あるいは生きてきた。考えなくてよいものを考えすぎて、描かなくていいものを描いてきた。
私はそれを恥じても、卑下もしないが、脳はたまったものじゃない。
脳は叫んだ。壊れる間際に、もう許してくれと、休ませてくれと咆えた。
よってうつになった。
私の人生は長い。今ここで、物書きとしての何かが決まるわけでも、あるいは思考によって何かが果たされるほど上等な人間ではない。哲学者がいつも精神を病むように、脳は人には過ぎたる宝だ。赤子が自ら考えないことで、脳を保たせて、あるいは脳機能を制限していることをご存知か。考えるとは、それだけで大きな疲労なのだ。考えない人間の方が長く生きる。鈍感力が大事だと、余計なことを考えない、と長寿は口を揃えて言う。
だれでも脳を持っているが、それを扱いこなせる人間は稀だ。そういうものになろうとも俺は思わないし、その先には脳がぐちゃぐちゃになって、まともな認識も出来なくなってしまう。
今は情報化社会だ。街を歩く、スマホを見るだけでも脳に負担をかける。勝手に入ってくる情報量が脳にとってどれだけ要らぬ容量を食っているか。そういうものを重ねすぎてしまって、脳は休むことを要求している。
だから休ませてやろう。ここは少し加熱した脳を冷まして、彼に都合よく過ごしてもらうことにする。脳の休暇だ。俺にだって、夏、冬休みと四ヶ月も年にぐうたらしているのに、二十年にわたって休みなしの彼はきっと辛かろう。私と彼は、長い付き合いだ。五体全てがそうだ。まだ道程は長いのだから、少しばかり膝をついて、景色を見て、あるいは惰眠を貪ってもいい。でなくては彼が可哀想だ。
実を言えば、俺が文章を書いているとき、大したことは考えていない。徒然なるままにではないが、頭で描いたものをそれとなく書き散らして、追ってくる文章を自分に都合の良いリズム感で綴っているに過ぎない。それが後から読み返すとそれなりに形になっているのだから、自分の言葉には感謝している。
自分は饒舌な方だった。だが、人のことを考えろと言われるばかりに黙るようになってしまった。代わりに頭をからっぽにして、言いたいことをのべつまくなしに吐き出している方が本来の性分なのだ。
俺は人と話すのが好きだった。いや、勝手に喋るのが好きだった。
話の終着点ぐらいは考えろと今になって思ったが、そういうわけだ。
要は大したことを考えずに時間を潰せる行いは、自分にとって心地よい。今、脳は苦しいと言っていない、気がする。脳は今、大変に敏感だ。嫌なものに対しては露骨に嫌だと言ってくる。私はこの前「何者か」に自分の感情を制御されていると述べたが、正体見たり。
長年に酷使され、決死の覚悟でストを実行した我が脳みそだった。
受け入れよう。ここは休め。いっぱいの栄養と、報酬を五体から送ってやりたい。表彰だ。うちの子を産んでくれて、あるいは書くべくに必要な言葉を抑え込んでくれたお前には確かに休息する権利がある。
少しうつの定義について、知ってほしいことがある。
今の私が患っているものは、「原因のない」うつだ。ストレッサーのような「原因のある」うつは、症状は同じとは言え、成り立ちがかなり違う。
「原因がある」方は必死にそこから逃げ切る必要があるが、まともな判断が出来ておらず、誰かの助けを必要とする。前者も無論、大事な時には人が必要になるけれど「原因がない」とは確実な解消が難しい。脳を休ませて、本来の調子に戻ってくれば大丈夫だが、脳は酷使すれば怒りだすことを覚えねばならない。よって私はある程度、自分の脳を気遣わなければならない。おくすりにはあまり頼りたくはない。症状を和らげても、疲れている脳は疲れているのだから休ませねば根本的にどうこうもならない。
だからこそ、脳の人生の蓄積による無意識レベルの彼らの労苦について、私たちは目を向けてこないが、だが何かしらを背負っているのは間違いない。誰にでも起こりうる。そして起こった暁には、とんでもない目にある。現にとんでもない目にあって、二月ほど苦労した。
だから少しばかりは自分の脳が考えてきたことに思いを馳せて、彼らに感謝して休ませるような心持ちであるべきだ。いつか、何かの拍子で堪忍袋の緒が切れた彼に向き合う前に、ほんの少しでいいから存分に労ってあげてほしい。それが自分の為で、あるいは疲れ切った彼の為だ。
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