第3話 11/1

 世間ではハロウィーンの真っ只中だが、私は大人しく精神科にかかった。我が身のことながら、これが病でなくてなんだというのか、私には自分の中における貧相な理屈付けによってこの憂鬱を誤魔化しきることが出来なかったのである。

 一つだけ、経験に則って言わせてもらおう。

 鬱は甘え、ではない。断じて。

 

 診断は双極性障害Ⅱ型だった。

老人の医者曰く、まあ典型的な王道症状のオンパレードらしい。

二十代前半に特に起きうる、稀によくあることであると言われた。

 私は諸々を覚悟した。一生かかっても、こういうものに向き合い続けなくてはならないのかという覚悟であったが、医師は優しく、自分に対して助言を良くしてくれた。図式や脳科学的見地からの種々様々な実践的助言である。科学は偉大だと実感した。医師に対しての憧れを思い出したのはいつ以来か。

 人は無意識の中に生きている。

 意識の表層に上ってくるものはそう多くなく、そう多くないゆえに人は人らしく生きていけるのだ。元来、人間は自らの体験や無意識を十全に生かして、物を考えるのに適した脳をしていない。

しかし、その意識と無意識の境界を線引くラインがいやに浅い人もいれば、深い人もいる。その個人差の中で後者にあっては思慮深いが、それは同時に深い故により大きな無意識を抑圧し続ける状態にある。

 よってラインが失せれば、無意識の不安や恐怖、喜びや興奮も綯い交ぜになって浮かんでくる。躁鬱とは自分の意識の及ばぬ所で無意識によって感情が制御される状態なのだ。病であって、病でない。心はよく出来ていてラインを自ら放棄して、ときに無意識の濁流に自ら身を打つことで、溜まった抑圧を整理することがある。

 今回のそれは、原因がなかった。

 ストレスは新学期ぐらいで、しかも大したものでもない。

 ただ何らかのきっかけもあって、心が勝手にオーバホールをし始めた。

 それが正体であった。双極性障害とは心の機能の一つなのだ。

 Ⅰ型は誰もが知るハイとバットが繰り返すタイプだが、Ⅱ型はバットが強めに続いて次第に落ち着くタイプらしい。まあ治せるようなものでもないが、Ⅰ型と違って社会生活に及ぶ所は小さい。ようはまだやれるということである。

 時間はかかるが、治りは悪くない。

 嵐はいつか過ぎるはずである。最近はモノの書きようも悪くない。


 個人的なことを言えば、薄氷を踏み抜いたという感触がある。知ってはならない感覚を知ってしまい、あるいはこれはもう戻らないのではないかと散々苦しんだけれど、とりあえず、自分なりに蓋はされて、次第に自分が戻ってくる感じがある。

 まだ昼間には不安にやられることがあるが、何かの拍子で戻る。

 不安には感触がある。自分がまずい状況にいると理解できる状態にある。

 鬱は甘えじゃない。自分の心を自分で制御できない状態は、病気なのだ。

 思考するというだけで、心臓が圧迫されるように気分が重く、鬱々しくなっていく。

自分の見るもの、感じるもの、全てが我が身を傷つけるような感覚である。思考を深めればすぐに自死という結論を急かされ、考えや感情が己を直に殺しにくる。

まともに本など、アニメなども触れられない。なにをどうすることもできない緊張と不安に苛まれて、目を瞑れば放散する思考に追い立てられ、安静にすることも出来ないまま、ただ天井を見つめ、考えないことを考えるだけしか許されない。

 強いて言えば、永久に人前で発表しているような圧迫感と緊張感が、理由もなくずっと続く。こんなのが終日続くと思うだけで、逃げ出したくなるが逃げようもなく、気を紛らわせることを気に咎められる。

死が唯一の逃げ道だと考えるのがどツボにハマる瞬間で、次の一瞬も、あるいは未来の全てがそういうものに塗りつぶされると感じたときに、それが浅い呼吸になって、もうどうにもならないのだという絶望と希死念慮が脳内を駆け巡る。

叫ぼうにも叫べず、思考の本流が脳内でひたすらにうるさい。

思考が思考を呼ぶ。

とてつもない、膨大な、余りにも膨大な思考を脳が処理しきれないのである。

 おぞましい感覚だった。出来ることならば二度と、味わいたくない。

 深淵を見た。少なくとも、それは私を見ていた。

 鬱患いが言うところの「戻れなくなる」が、理解できてしまったことが恐ろしい。

 ある臨界点を超えたときに、「戻れなくなる」という感覚がある。

 今までの自分の思考や、未来への考え方、目先の意欲、喜び、言動。己が己であることそのものを、欠いて生きねばならないと覚悟することの恐懼。治らないと不都合に信じたときに、人は本当の意味で「戻れなくなる」のだと思う。

 私は戻れた。環境が良かった。

 まだ、地獄の釜蓋は閉じきってはいないが、自らあら捜ししなければ、もう開かない。無意識の中に存在するストレスの原因と状況が重なったときに、まだ気分の不沈が起きるが、とりあえずは今、峠を過ぎた。あの状況を書けるだけで、自分には十分なほどなのだ。

 

 何度でも言う。

 誰にでも、ある時に突然起きうるものだから。

 その時は、少なくとも、戻れることを信じた方がいい。

 何も見ず、何も聞かず、とりあえずは自死の回避に専念して、考えないことを考えるのだ。

 少しだけ余裕を持てたら、元の自分がしていたことをまたやるのがいい。

 自分の中で連続性をもたせるのが重要だ。その連続性が、今まで自分が熱中していた時間が、自分というものを引き戻してくれる。ある時に、大台に乗る。そうすれば、それ以降の気分の浮沈には出口が見えるはずだ。一度戻れれば、また戻れる。

 鬱は甘えじゃない。これは地獄だ。自己がいかに巨大な虚のように出来ているか、あるいは己の知る自己がどれだけちっぽけであったかを知る。私には私など分からなくて良い。誰もがとてつもない無意識を抱えながら適当にやけくそに意識の上辺を持ち寄って生きている。本来は全くそれで良かったのだ。


 マズイなら他人に頼るのが良い。本当に他人が救うところがある。

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