飴と鞭 後編 -2-

 野外で一晩をあかすことなどしたことのない生徒たちも、怯えは隠せないがパニックになることはなかった。それは、現役の魔梟ストラ師団の軍人であるマイヤが、ヴァリアンテの守護者としての能力を確約したからだ。ヴァリアンテの肩書きや経歴を、生徒達は詳しく知らなかった。それでも、士官学校に通うくらいなので、金剛位の卓越した異能は理解している。

「そういえば、出立前に魔梟師団に寄ったとき、新種の魔獣が送られてきたって噂は聞いたんですよね。これかしら」

「そういう情報、どうしてこっちに回さないかなぁ」

「だって、出現場所が全然違うんですもの。それに解剖前だったから詳細も出ていませんし。私の専門分野じゃありませんしね」

 マイヤが頬を膨らませた。魔梟師団にいい思い出のないヴァリアンテは、無意識に彼女を責めてしまう自分を恥じた。昨日の昼過ぎからずっと結界を維持しているせいで、身体の感覚や理性的な思考が鈍っていくのを感じる。

 ああ、救助はまだだろうか。

 救難信号はルーノ基地へ向けて放っている。ルーノ基地は王都防衛も兼ねているので兵の数は少なくないはずだ。半数が王都へ補充されていたとしても、救難信号を無視することは、師団としての存在意義を失いかねない。

 一番の懸念は救難信号が届かなかった場合だが、せめて士官学校の引率教員が気付いてくれることを祈るしかない。いつ救助が来るのか話題にしないのは、生徒達に無用な不安を抱かせないためだ。それを口にしないだけの分別は、マイヤにもあるらしい。

 ついに朝日が昇った。

 夜間は大人しくしていた生徒達も目を覚ましはじめた。眠れた者は少ないだろうが、こんな状況でも休めるに越したことはない。

「魔獣、五十くらいまで数えたけど、奥の方にもっといそうだな」

「一匹ずつ倒し続けていく、ってのは?」

「馬鹿が。五十以上だぞ。外にでた瞬間にボコボコにされて終わりだろ」

 その通り。高等部一年の見習いが戦ったところで戦力にはならない。むしろ、この結界の維持を代わってくれた方が役に立つ。それができれば、ヴァリアンテが魔獣と戦えるからだ。

 武官志望の生徒である程度基礎ができていそうだと判断した者には、帯剣を許していた。王都の周辺、特に街道沿いで魔獣が出たなんて話はほとんど聞かないけれど、皆無というわけではない。彼らでも低級の魔獣くらいなら、討伐は可能だろう。

 生徒の中には、家督継承権の低い第二十王家ヘルファスト家の男子と奨学特待生が二人いる。その彼らでも戦力としてカウントするのは難しい。何より、学生を戦わせたくはなかった。

 だが、そろそろ判断をしなくてはならないだろう。

 防御結界は万能ではない。維持する時間が長いのならば、術者は結界に直に触れているか結界の中にいなくてはならない。位置を固定するかわりに強度が保たれるのだ。

 移動型の結界を敷くこともできるが、規模が大きくなればなるほど魔力消費量は高く、強度や効果時間も落ちていく。

 走ることが難しい相手と非戦闘員を守るなら危険を冒すより救助を待つのが最善だろうと思ったが、ここまで救助が遅れるなんて想定外だった。

 太陽が中天に昇るまで。それが限界ラインだ。

 その時がきたら、生徒を守って死に物狂いで戦おう。カーマの民を守るのが使命で本能だ。覚悟などとうに決めているし、この程度を切り抜けられなくて何が金剛位だ。

 だが。

「あ……」

 ヴァリアンテは無意識に声をもらした。

 馴染んだ気配を感じた。安堵で気が抜けそうになる己を叱咤する。まさか、どうして、よかった。無数の疑問がよぎるけれど、やはり感じるものは圧倒的な安心感だ。自然、肩から力が抜ける。

 最悪の事態になる前に、願った救助はやってきた。

「みんな起きて。できるだけ奥の方へ移動しておいて。助けがきたよ」

「ゼフォン様?」

「マイヤ、君も。全員、いつでも脱出できるよう準備を」

 ヴァリアンテは気配のする方角を見つめた。木々の向こうが騒がしい。普通こんなふうに己の魔力を主張しながら戦うことはないのだが、何か理由があるのだろうか。確かに魔獣たちの意識があちらに逸れている。

 獣の雄叫びと破壊音が聞こえたと思えば、黒い影が魔獣の間を縫って、猛スピードでこちらへ近づいてきた。魔獣の一団の前で影が飛んだ。鮮やかな赤毛に目を奪われる。

 ほとんど着地音もなく、開いた隙間に長身の男が降り立った。カーシュラード・クセルクス。カーマ王国で最強の剣技を持つ者がそこにいた。

「遅くなりました」

 彼は流れるような素早さでギュスタロッサの黒刀を納刀し、ヴァリアンテの隣に膝を突く。黒羆バラム師団の軍服に身を包んだカーシュラードは、瞬時に状況を察してヴァリアンテの手首をつかんだ。眉間に皺が寄っている。

 防御結界を肩代わりしようというのだ。結界術に流し込んでいた魔力のラインを強引に奪われる。強制的な魔術移譲にも抵抗はせず、ヴァリアンテはありがたく防御結界を肩代わりしてもらった。

 身体が軽くなる。へたり込みそうだけれど、生徒がいるのでそんなへまはできない。

「ヴァリアンテ、無事ですね?」

「なんとかね」

「結構。まずは状況確認を。そのあいだ、少し休憩していてください」

 端的に告げたカーシュラードは、要救助者へ視線を走らせた。

 彼の格好は驚くほど身軽なものだ。師団のサーコートの上から魔獣の革を削りだしてつくられた胸当てで急所を守り、あとは金属製の長手甲と脛を覆う脚絆を兼ねた頑丈なブーツだけ。鎖帷子くらいは着ているだろうが、一見して軽装にみえる。だが、これで重騎兵相当の強さを誇る。

 腰に吊った特異な黒刀が、今か今かと出番を待ちわびているように騒いでいた。

黒羆バラム師団、第十五連隊特殊剣撃部隊、隊長のカーシュラード・クセルクスです。救助要請に従い、皆さんを助けにきました」

 力強く優しい声だ。焦燥など一片も混じらない。彼に任せておけば無事に帰ることができるのだと、そう信じられる声。実際、生徒達の大半が安堵の溜め息をもらした。

「状況を説明します。まずは救助が遅れた理由を。ルーノ基地で救難信号を受理した直後に、王都へ続く街道上で大角鹿の魔獣ペリュトンの複数発生の報が入りました。王都および近隣都市への襲撃が予想されたので、師団はペリュトン討伐を優先しました」

「なんだって?」

「王都の防衛は剣聖が指揮しているのでご心配なく。ルーノ基地に所属している大半も迎撃に出ています。救難信号は一度本部に送られ、発信者が金剛位であることと、様々な要因を加味して僕が派遣されることになりました」

 色々と説明を端折ったなと、ヴァリアンテは胸中でぼやいた。

 それにしてもペリュトンとは、なんてタイミングだろう。王都周辺は鹿の魔獣が多いけれど、大角鹿の魔獣は野生動物が転化したものではなく、魔から生まれた天然の魔獣だ。大きくて力も強いから街に入られると建物を破壊されて大変なことになるが、討伐のノウハウは整っている。ただ、人員がそれなりにいないと狩る難易度が上がるのだ。それが複数となれば、指揮官クラスに欠員の多い王都では対応に難儀しただろう。

 ヴァリアンテのことをよく知る養父でもある剣聖ならば、救難信号の送り主を見て後回しにすることも理解できた。

「要救助者の早期安全確保のため単騎で先行しましたが、別働隊が基地側から退路と安全地帯を作っています」

「詳細は別として、なんとなく察したよ。君がきてくれて助かった」

「僕の移動に時間がかかったので、予想外に待たせてしまってすみません。あなたがいるので心配はしていませんでしたが、よく耐えてくれました。みなさん、もう少し辛抱してくださいね」

 口調と声色の優しさに反して、カーシュラードの纏う気配は剣呑だ。魔力の主張はそのままで、そのせいか魔獣が殺気立っているように感じる。

「この魔獣についての情報は? 新種なんだろう?」

「調査途中ですがある程度は。高魔力保持者を狙って襲いかかると予想されています。魔術耐性と反射の特徴があるので、攻撃魔術は厳禁。あちらの攻撃は物理特化で、こちらからも物理攻撃で討伐が可能です。物理防御特化の結界を敷いたのは慧眼ですよ」

 マイヤの怪我からして予想はしていたが、長期戦を覚悟していたので、防御結界の種類をいくつか試していた。魔獣の観察結果、物理攻撃しかしないので、それに特化したものに組み直してある。

 同時にいくつもの属性を完全に防御するには、大量の魔力を消費する。十六人を守りながら完全防御結界で丸一日粘るなど、さすがのヴァリアンテにも無理だ。

「……まあ、あんたの天敵みたいな魔獣ではありますね。本当によく保たせてくれました。あんたじゃなきゃ、きっと危なかった」

 ヴァリアンテはかすかな苦笑を浮かべてうなずいた。指摘通り、魔術に対する防御の手数は多いが、物理攻撃に対しての守りはいささか苦手だ。悔しいけれど。

 しかし、高魔力保持者を狙ってくるというのなら、下手に動かなくて正解だった。ここにはヴァリアンテも含めて、王族関係者が三人いる。王族は能力の差こそあれ、その身体には大量の魔力を保持している。

 ヴァリアンテが全貌を飲み込んで、ある程度の休息が取れたことを確認したのだろう。カーシュラードが小さくうなずいだ。

「物理防御のまま維持して、出力だけ最大にしてください。十五分程度保ってくれたら充分です」

 その要求で、彼が何をするのかがおおよそ読めた。攻撃魔術を一切使わずに、取り囲む魔獣を全て剣技だけで殲滅するつもりなのだ。

 そして、守るのは魔獣からの攻撃ではない。カーシュラードの攻撃の余波を防御することを求められている。彼は手加減などする気がない。そして、相手ができないと思うことは要求しない。

 あんたならやれるだろう。信頼からくる要求に、自然と口角が上がった。迷いもなく挑まれて、できないなんて言えるわけがない。くたくたに疲れていたって、やり遂げてみせよう。

「そんな、ゼフォン様は昨日からずっと結界を張っていたのに、これ以上――」

「当然です。この人は自分が死ぬことになろうと君たちを守りますよ。これ以上がなんですか? 止めるわけがないでしょう」

 マイヤの苦言に、カーシュラードはぴしゃりと返した。確かにその通りではあるが、もう少し言い方というものがあるだろう。

「カーシュ、大丈夫。全力で戦ってくれ」

 言い過ぎだと視線に込めて名を呼ぶと、彼は冷たく鼻を鳴らした。やっぱり機嫌が悪い。

「物理攻撃なら、せめて俺たちも」

「足手まといです」

 生徒の中で一番腕が立つと自負している少年が、勇気を持って助力を願い出た。だが、カーシュラードは取り合うことはしない。

「ヒーロー願望も結構ですが、実力が伴ってからにしてください。これは演習じゃないんですよ」

「でも、この数をひとりでだなんて、そんなの無理です!」

「くどい。将来軍人になりたいのなら、相手の実力と状況を読めるようになりなさい」

「こら、学生相手に無茶言うもんじゃない」

 相手は十六歳の時の君とは違うんだぞ、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 全面的にカーシュラードの主張に同意するが、それは持てる者の傲慢だ。ヴァリアンテは生徒達を見渡した。

「君の使命感はくむよ。でも、そうだね。今の私ですら、クセルクス隊長の邪魔になるんだ。君たちが出ても彼を煩わせるだけだよ」

 それでも生徒の何人かが不安そうに互いを見合わせていた。そうか。彼らはカーシュラードの噂や強さを知らないのか。ならば実際に見せるのが、一番の近道だろう。

「金剛位の言葉を信じて」

 ヴァリアンテが確信をもって告げると、表面上は大人しく食い下がった。カーシュラードの初撃を見てしまえば、きっと手助けをしようなんて思えなくなる。彼らは幸運だ。

 パチ、と防御結界が攻撃を反射する音が聞こえた。魔獣も焦れている。

「ヴァリアンテ、僕の魔力を渡しておきます」

「……なんとかなるよ」

 何をしようというのか、付き合いの長さから読めてしまう。カーシュラードの判断は嫌になるほど正しいけれど、喜んで受け入れるには抵抗感が強かった。生身での魔力交換は魔力酒を飲むより即効性が高い。わかるが、わかりたくない。恥ずかしい。

「綱渡りしてる状況じゃないでしょう」

「軍人してる君は、たまに腹が立つな」

 睨み合うことしばし。突然仲違いが始まったのかと、生徒達がハラハラしているのが伝わってくる。マイヤは魔梟師団らしく何をするのか気付いたのか、くるりと背を向けた。

 折れたのはカーシュラードだった。ただ、魔力交換をしないという選択肢はないらしい。

「皆さん、一分でいいのでそっぽを向いておいてください。今すぐに」

 軍人らしい命令口調で言い放つ。武官コースの生徒は反射的に従うのが見えた。よそ見をしていられたのは、そこまでだ。カーシュラードに胸ぐらをつかまれる。結界を維持しているせいで片手が塞がっているからだが、彼にしては乱暴な仕草だった。

 瞳孔の境目もわからない漆黒の瞳がヴァリアンテを真正面から射貫いた。噛みつく勢いで唇を塞がれる。すぐに舌がねじ込まれて、粘膜をこすりあわせるように口腔を荒らされた。

 他者への魔力譲渡は特別な魔具を使うか直接的な接触が必要だ。握手をするだけでも可能だが、その場合の譲渡量は三割程度まで低下する。粘膜接触を行うなら八割という高さまで跳ね上がり、相手との相性がいいのならほとんどロスなく譲渡ができた。

「ふ……っ」

 力強くて濃厚で、あまりに慣れ親しんだ魔力が流れ込んでくる。カーシュラードの魔力を味わうのは初めてのことではなかった。彼の魔はいつだって強引で、同じくらいに優しいのだ。

 背中が震えて喘ぎそうになるが、状況を思い出して意地で耐え抜いた。もう充分だと伝えるべく睨みつけると、彼はあっさりとくちづけを解いた。

 生徒達の視線が気になるけれど、ヴァリアンテはあえて無視した。カーシュラードに至ってははなから気にしていない。その図太さが羨ましい。

「……こんなに、いらないよ」

「終わって余るようなら返してもらいます」

 そんな軽口が返るのもここまでだ。カーシュラードはもう一度ヴァリアンテの手首を握った。今度はヴァリアンテがカーシュラードから防御結界の術式を奪う番だ。

「出ます。準備を」

「いつでもどうぞ」

 意識を戦闘へと切り替える。自分が出撃しなくとも、何があっても対処できるよう警戒しなくてはならない。

 カーシュラードは重心を落としたまま立ち上がった。鍔に指がかかり、今にも抜刀しそうな緊張を孕んでいる。

 そして、土埃ひとつ残してその場から消えた。

「……みんな、しっかり見ておくといい。彼がカーマ王国最高峰の金剛位剣士だよ」

 カーシュラードの攻撃は、初撃が一番過激だ。ほとんど反射的に防御結界の強度を上げたけれど、それでも反動が腕にまで響いてくる。

 真っ二つになった魔獣の死体の中で、黒衣の剣士が立っていた。赤毛だけが鮮やかで、目を奪われる。

「え、いつのまに?」

「いち、に、……十匹くらい? たった一撃で倒したのか?」

 生徒達の動揺が手に取るようにわかった。どうだ、すごいだろう。これが私の育てたカーシュラードだよ。そんなふうに自慢したくなる。生徒達はやはり、誰ひとり手助けに出るなんて言い出す者はいなかった。

 気配も魔もまったく隠さずにいるのは、魔獣の意識を己に集めるためだ。自分を囮に使い、向かってくる敵を一刀で屠っていく。

 攻撃魔術は使わないだけで、補助魔術の類は大盤振る舞いしているようだ。あれほど重い一撃を与えながら、彼の移動速度や反射はあまりに早い。防御に回る瞬間がないでもないが、守りに入ることはなかった。基本的に攻撃の全ては刀で受けきって、受け流したまま攻撃に転じていた。

 最大火力で戦うカーシュラードの姿を見るのは久しぶりだ。対人演習ではこんな芸当はできないし、隣国との小競り合いがあってもヴァリアンテが隣に並ぶことはできない。手合わせはしても、お互いの戦闘スタイルの違いや設備の問題で、全力で戦うことは難しい。

「す、すごい……」

「何してんのか、ぜんぜん見えないけど」

「一切、動きに無駄も迷いもないんだ。一刀目を放った時には、二手三手先まで考えてる。カーシュラードが本気で戦ったら、倒された方もどうしてやられたのかわからない。私でも彼の切っ先の前に立つのが怖くなるときがある」

 いっそ楽しそうに魔獣を狩りまくるカーシュラードの背中を見つめながら、ヴァリアンテは結界を維持するために両手を使わざるを得なくなった。魔獣どころか、斬撃が木々や地面まで抉っている。なんて威力だ。切り飛ばされた魔獣の腕が飛んできて防御結界にぶつかって跳ねた。

「ゼフォン様は、あの方とお知り合いなんですか?」

「知り合いというか、学生時代のカーシュラードを鍛えたのが私なんだ。すっかり私を越えていっちゃったけど」

 すると、今度は驚愕の視線がヴァリアンテの視線に刺さった。けれど、すぐにカーシュラードへと視線が戻る。そうそう。よそ見なんて勿体ない。

 魔獣の数は半数に減っていた。

 人間相手ではないとはいえ、カーシュラードにはまるで死角がないように感じた。首を跳ねた切っ先を真後ろに返したかと思えば、背後を確認せずに突き刺して、振り返る要領で袈裟切りにする。足運びだけで爪の攻撃を避けて、カウンターで胴を薙ぐ。本当に、嫉妬を覚えるほどに無駄がない。

 華麗で熾烈。踊っているようだ、なんて表現は彼に相応しくない。あまりに力強く、素早く、荒々しい。

 そうして十分後、あれだけひしめいていた魔獣が、全て地に伏していた。

 魔獣に血はないけれど、血振りをしてから納刀を行うのは癖のようなものだろう。カーシュラードは魔獣の屍の中で、肩が上下するほど呼吸を乱していた。深呼吸を繰り返してクールダウンをしている。

 ただの一度も、呼吸を整えたり筋肉を弛緩させることもなく戦い続けたのだから、疲労は相当なものだろう。それでもカーシュラードは、こちらに振り返るときには涼しい表情に戻っていた。魔獣の死骸をよけながらこちらに戻ってくる。

「結界、解除していいですよ」

 カーシュラードに声をかけられて、自分の方が彼の一挙手一投足に見惚れていたのだと気付かされた。過負荷で震えそうになる指を隠しながら結界を解除すると、その指ごとカーシュラードにつかまれた。引っ張り上げられて、立ち上がる。

 魔力は大幅に減っているけれど、倒れるような無様な姿をさらす気はない。戦闘には参加せずとも、ヴァリアンテも金剛位の剣士としてのプライドがある。

 カーシュラードがサーコートの裾を払って、片膝を突いた。ヴァリアンテの指先をつかんだまま、焦がれるような視線で見上げてくる。

 何をはじめる気なのかと、心臓がはみ出しそうに跳ねた。

「ヴァリアンテ・ゼフォン殿。黒羆バラム師団にかわり、カーマの未来を担う民を守ってくださったことに感謝いたします。あなたの献身は、いかなる讃辞をもって賞するもなお足りません」

 歌うように礼の言葉を紡ぎ、彼は迷いもなく頭を下げた。騎士の最高礼だ。目を見張る美形で、鍛え抜かれた優美な長身の軍人がそんなことをすれば、嫌でも様になる。しかもカーシュラードの場合は、王族としての生まれからこの手の仕草に対する年期が違う。

 だが、ヴァリアンテとて剣聖の懐刀で、王家の中枢に食い込むような地位にいるのだ。孤児の生まれでも物を知らないわけではない。カーシュラードがただ正義感だけで賞賛を向けているのではないと、うっすら気付いていた。

 攻撃と防御ではどちらがもてはやされるか。派手で直接的な効果がわかりやすい攻撃のほうが、目立って注目を集めるのだ。防御の方が難度が高いことを、たいていの市民は知らない。今回の場合、ヴァリアンテが生徒達に舐められてしまうことを危惧したのだろう。

 カーシュラードはそこが気に食わないのだ。己の凄さは棚に上げ、影に隠れがちなヴァリアンテを引きずり出してくる。見てくれも地位も行動の意味も、全部わかっていて武器にする。それが、カーシュラードだ。

 そんな贔屓をしたいと思われているくらいに、ヴァリアンテはカーシュラードから熱烈に愛されていた。嬉しくないといえば嘘になるけれど、そこで傲っていられない。

「黒羆師団が私の能力を信用してくれたということで、救助を後回しにされた件は水に流しましょう。君という最大戦力を投入してくれたことに、こちらからも感謝を。顔をお上げください。カーシュラード・クセルクス連隊長」

 馴れ合いではなく儀礼的に返すと、カーシュラードは微笑を浮かべて立ち上がった。満足したらしい。

「さて、怪我人の搬送は僕がしますので、あんたは先導をお願いします」

「任されよう」

 ヴァリアンテがうなずきを返して背後を振り返ると、やり取りをみていた生徒達の何人かが顔を赤らめていた。視線の大半がカーシュラードに向いている。その気持ちはわかるよ、と内心で盛大に溜め息をこぼす。

「みんな、よく頑張ったね。基地へ帰るよ」

 パン、と手の平を叩いて生徒達を正気に戻し、ヴァリアンテは今後のあれこれを考えた。まずは食事だろう。

 カーシュラードがマイヤを横抱きにすると、女性との一部が羨望のまなざしを向けて出発が遅れるというハプニングがあったが、一行は疲労を滲ませはしたものの、魔泉から移動をはじめた。

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