飴と鞭 後編 -1-
防御結界を維持し続けて一昼夜。体力はまだあるけれど、さすがに魔力の方が目減りしている。ヴァリアンテ・ゼフォンは獣の声を聞きながら、小さく息を吐き出した。
「奴ら、昼も夜も関係ありませんね」
「そうだね」
薄い膜みたいな結界の向こうには、耳が長い二足歩行の魔獣がひしめいていた。爪が結界に触れるたび波紋が広がって攻撃を打ち消していく。
魔獣それ自体は珍しいものではない。ただ、人型に近いほど歪な種は初めて見るものだ。
白みはじめた空のせいで魔獣の影がよくわかるようになった。黒々とした毛並みに闇色の瞳。鎌のように長い爪と、肉食を想像させるするどい牙。暗闇で全容が見えていなかった時のほうが、精神的にはマシだったかもしれない。
「怪我はどう?」
「平気ですよ。あなたに回復術をかけていただいたし」
「本職じゃないから、応急処置に毛が生えた程度だよ。過信はしないで」
「私の自業自得ですもの。ゼフォン様こそ気になさらないで」
ヴァリアンテが告げると、隣に座った女性はゆっくりとうなずいた。彼女は魔術士だが非戦闘員だ。いくら自業自得で守る必要のない軍属でも、怪我を負わせてしまったことに負い目を感じた。
この程度の突発的状況でも誰かを無傷で守れないのなら、護衛官を名乗るなどおこがましいのではないか。そんな使命感と同時に、尊いカーマの民を守らねばならないというダークエルフの本能が疼く。
「魔脈、どうなっちゃったのかしら。救援が到着して落ち着いたら、教授も呼んでちゃんと調べなくちゃ」
彼女――マイヤ・ミノアは
生徒に魔脈と魔泉について学んでもらうはずが、十五時間近く魔獣に囲まれている。
◇
遡ること十八時間前。
「カーマ王国の魔泉は、特に大きなものが七つあります。魔泉は魔脈の上、またはその近くで、まるでガス抜きをするみたいに魔が吹き出して溜まった場所のことです」
観光パンフレットに載っていそうな説明を、生徒達は反抗もせず大人しく聞いていた。現役の魔梟師団の研究者が珍しいだけかもしれない。
雲ひとつない青空が、新しい葉を茂らせた落葉樹の隙間からのぞいていた。ランチボックスを片手に森林浴にきたような、穏やかで優雅な散策だ。実際に軽食とお茶の入ったバスケットを持たされている。
「魔泉は周辺の土地に恩恵を与えます。作物の収穫量があがるだとか、栄養価が普通より高いとか、特殊な鉱石が産出することもありますね。魔力酒を作るには欠かせない場所でもあります。けれど、同時に魔獣の発生を促し、魔力値の低い者が源泉のそばで長時間居座り続けると体調に影響を与えます」
「え、魔獣は知ってましたけど、そんな危険なとこだったんですか?」
「魔泉の上で一年過ごす、とかじゃなければ問題ないですよ。実際、ルーノ基地から魔泉までは歩いて一時間の近さですが、
マイヤの言葉に、数人の生徒がほっとしていた。王立士官学校に通ってはいるものの、魔力値が高くない一般の生徒だろう。
「そういうことで、色々恩恵があったり害があったりもするから、魔泉一帯は国有地で、黒羆師団が整備と管理をしています。実際に異変があったら魔梟に丸投げしてくるんですけれどね。私たちも自分の研究があるからずっと監視なんてしていられないし、お互い様ってとこかしら」
どことなく
「ここの魔泉は、七つの大魔泉の中でも一番美しいと言われています。だから、ちょっとした観光地になっているの。ただ、不用意に立ち入らないように、見学するには申請が必要だし、兵士の同行が必要です。今回はゼフォン様っていう破格の護衛が一緒だから、兵士はお留守番よ」
兵士どころか士官学校の引率教員まで基地で留守番になったのは誤算だが、マイヤが代わりを務めているので問題はないだろう。ちなみに教員は、馬車に酔って動けなくなってしまったので、基地で休んでもらっている。
だが、そもそもヴァリアンテが護衛になったのは偶然だった。
王立士官学校高等部、前期日程が始まって授業にも慣れた頃に、一泊二日で魔泉へ見学に行くという課外学習がある。強制参加ではないけれど、武官や魔術系の進路を選ぶ者で、実際に魔泉を見たことのない者たちに一度本物を見せるのが目的だ。
魔に触れてインスピレーションを得るなり、未来を想うなり、実際に才能が開花するなり、将来有望な生徒たちになんらかの影響があればそれだけで充分お釣りがくる。
王都カーマから足の遅い乗り合い馬車でも六時間程度で到着するルーノ基地へは、行き帰りも学習の一部になっていた。武官コースに所属している者は単独で馬に乗り、馬車を護衛する形で移動を行う。一行全体を守るのが護衛の役割だ。
通常は
大人の都合で子供に不都合を味わわせることを懸念した学校側は、師団を通り越して剣聖へと相談をあげ、ヴァリアンテが派遣されることになった。
ヴァリアンテはすでに教鞭はとっていなかったが、主が不在の親衛隊員で、元は剣聖麾下の指南役となれば使い勝手がいい。各師団や士官学校など王家の関わる案件でお鉢が回ってくる。いつか戻る主のためにも顔を売っておくのは得策だと、専門外ではないかぎり大抵の依頼は引き受けていた。
王都を出発したのは昨日の早朝だ。天候にも恵まれ、二度休憩を挟んで昼食時には黒羆師団ルーノ駐屯地に到着した。魔獣の一匹もでなかったことに、血気盛んな武官志望の生徒は落胆していたけれど、その手の慢心が一番危ないのだ。無事に到着してひと安心だった。
「うわあ、すごい!」
生徒の歓声が響いた。鬱蒼とした森の中、ぽかりとひらけた場所に出た。中心に巨木がそびえている。参加者の生徒達十六人が全員で手を繋いで、やっと届くというくらいに太い大木だ。その巨木のうろの中に魔泉があった。魔が結晶化して幹を浸食し、黒や紫の柱が突き出している。
動植物が魔を取り込むと魔獣に転化するけれど、この巨木は植物のまま生きていた。とても珍しいことだ。むしろ魔泉を取り込んでいるのは樹木の方かも知れない。
「そうそう、カーマの王が即位をする前に、七つの大魔泉を訪れることになっているんですよ。そのくらい、魔泉は特別な場所なんです」
マイヤの解説を聞いているのかいないのか、生徒達は各々観察に勤しんでいた。滞在時間は軽食休憩も含めて一時間程度だ。ヴァリアンテは少し距離をとって、全体を見渡していた。
我が主が即位をするときに、またここへ来られるだろうか。いつになるかわからないが、そうなればいいと思う。カーマ王国継承第一位ヴァマカーラ姫の親衛隊に内定していたヴァリアンテは、現在その職を全うできずにいる。彼女はいま、復活した『
「……何か、変だわ」
マイヤのつぶやきを聞き逃さなかったヴァリアンテは、石畳で舗装された地面に触れる彼女のそばへ行った。
「皮膚の下がざわざわするのよ。ゼフォン様は何か感じませんこと?」
「いえ、特に」
「魔脈の揺らぎかしら……」
魔獣が放つ殺気の類なら間違えようはないけれど、魔剣師とはいえ武官のくくりに入るヴァリアンテには、魔の繊細な機微はわからない。
マイヤはおっとりとした学者風だが、光が当たると赤紫に見える髪を見るだけで、魔力の高さが窺える。それもそのはずで、彼女は第十六王家ミノア家の出身だ。師団に所属する研究者として接しているけれど、立派に王族だった。
魔力の高さは能力の高さと比例する。彼女は戦魔術士の類ではないが、魔を察知する特技があるのかもしれない。魔梟師団に所属している者は、たいていが己の異能を隠すので想像することしかできないが。
その異変は、突然だった。
魔泉の魔結晶が淡く光った。魔泉を囲む石畳の隙間から魔が噴出する。目に見えないはずの魔が、黒い霧状に視認できた。それだけでも異常事態だ。
「全員集合! 急げ!」
ヴァリアンテは叫んだ。魔泉を擁した巨木を背にするのが、退路は断たれても守るにはちょうどいい。生徒達もマイヤも、疑問は挟まず慌ててヴァリアンテの背に隠れた。
その瞬間。噴出した魔の中から、黒毛の魔獣があふれ出してきた。咄嗟に剣を抜くが、数の多さで選手攻撃を渋った。広場が埋まるほどの魔獣を前に、いくら金剛位の魔剣師だろうと生徒を守り切れるかわからない。
魔獣図鑑などでも見たことのない姿形をしていた。性質がわからない魔獣を相手に賭けはできない。こちらには守るべき十六人がいて、真っ当に戦えるのはヴァリアンテだけだ。
瞬時に状況判断を行って、ヴァリアンテは愛剣の一本を地に突き刺した。ギュスタロッサの魔器を核として防御結界を展開させる。同時に、基地へと救難信号の魔術を放った。
てんでばらばらの方向をみていた魔獣が、一斉にこちらを向いた。それは、戦闘に慣れていない者を恐怖させるには充分な視線の数だった。
「『
マイヤの叫ぶような呪文が響いた。止める間もなかった。
ヴァリアンテの敷いた結界は、外からの攻撃は弾くが内側からの攻撃は通すものだ。だからといって、この状況で不用意に魔術を放つ馬鹿がいるかと、胸中で罵詈雑言をわめく。軍人のくせに何を考えているんだ。
マイヤの放った攻撃魔術は魔獣の爪を折ることはなく、弾かれた。威力は三分の一程度に減ってはいたが、そのまま彼女に跳ね返ってくる。風の刃は彼女の右脛を切り裂いた。
これが結界術の厄介なところだ。結界内の術者が放った魔術は、それが結界外で炸裂した場合なら防御できるが、なんらかの術で反射された場合は完全に防御することができない。術者の強さだとか様々な要因があるので一概にそうだと言い切れないけれど、一般的には今のような事態になる。
「全員、魔術も剣も、どんな攻撃も禁止です。私の張った結界内で大人しくしている限り安全は保障するので、状況を整理するあいだ、皆さんは深呼吸をして心を落ち着かせてください」
武官コースの生徒が逸って外に出ないか心配になったが、この魔獣の数を前に、英雄的行為に走るものはいなかった。生徒達を安心させるように微笑んで、お互いを励まし合うよう指示をする。それから、しゃがみ込むマイヤの横に膝を突いた。
「……ごめんなさい」
「わかっているなら、それ以上は言いません」
きちんとした手順を踏んで回復魔術を詠唱し、剣で切りつけたようなマイヤの傷を塞いでいく。出血を止める程度の応急処置しかできないが、何もしないよりはマシだろう。
マイヤは座り込んだまま肩を落として落ち込んでいた。学術色が強いとはいえ、魔梟師団も王国軍のひとつだ。軍人だというのなら、未知の敵に対して不用意に攻撃することがどれだけ危険な行為かわかっていなくてはならない。生徒達に対しても悪い見本になってしまう。
彼女の失態を責めたくなるけれど、親衛隊員になろうとする者としては恥じ入るような気持ちになった。彼女は軍人なので守護の対象ではないが、本能的なものはどうしようもないのだ。
ヴァリアンテの身体には、ダークエルフの血が半分流れている。だからこそ、ミルクティーのような髪色でも、金剛位を得られるくらいに剣技と魔術の才に恵まれていた。ダークエルフは『
絶対に、マイヤと生徒達は守らなくてはならない。無傷で王都まで送り返すのが己の使命だ。そのために、彼女たちにも少しだけ協力をしてもらいたい。守られる側にも心得が必要なのだ。さしあたって、怪我を見て動揺した生徒が不安で暴走しなければいいのだが。
ヴァリアンテの懸念は、とうのマイヤによって晴らされた。
「みなさん、初めてみる魔獣に対して迂闊に攻撃すると、私のようになります。護衛官に迷惑をかける最たる行為です。絶対に真似はしないで。ゼフォン様の指示に従っていれば、怪我ひとつしないで帰れますからね」
彼女は己を棚に上げることをしなかった。むしろ、いい機会だからと、結界術について講釈を始めた。そういう図太さは、たしかに魔梟師団の一員だ。
そうして、一晩たった今も、魔獣に囲まれながら救助を待っていた。
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