8月その④
「ねえ、センパイ」
「どうした、後輩」
「暑いです……」
「そうだな」
今は八月末。
もうすぐ夏休みは終わりというこの季節なのだが、まだまだ夏の熱気が衰える気配はない。
当然のように部室の中もうんざりするような暑さだ。
「正直もう一か月くらい夏休み延長してほしいですよねぇ」
「それはそう」
暑くて勉強に集中できないから自宅で勉強しろっていうのが夏休みの理屈なら、正直八月も九月も暑さに大差がねえだろと言わざるを得ない。
「九月とかほぼ八月ですからね」
「前半は特にな」
昔は今よりもっと涼しかったらしいけど、現代の九月は普通に人が倒れる暑さだしな。
「なんて言ってても夏休みは伸びない訳だが」
「あー、本当のこと言わないでくださいよー。せっかく現実逃避してたんですから」
「別に課題は終わってるだろうしいいだろ」
うちの学校はそんなに課題を出す学校でもないのだが、後輩はその少ない課題も部室に来たときにやって終わらせていた。
「夏休みが終わっちゃうのが嫌なんですよー。センパイはいいんですか、夏休みが終わっちゃっても」
「そう言われてもな」
結局毎日勉強してるし、なんなら休み中の方が学校の日よりも勉強時間が長かったまであるし。
「センパイは悲しい休みを過ごしたんですね……」
「世の中の受験生は似たような夏休みを過ごしてんだよ」
まあ全員とは言わないが、とはいえ俺みたいな夏休みを過ごした人間がいないと俺が悲しすぎる。
「そんな寂しいセンパイの休みを豊かにしてあげた後輩にはもうちょっと感謝してくれてももいいんですよ?」
「勉強しろ」
「嫌ですけどっ」
なんて食い気味に言ってくる後輩はたしかに話してると気分転換になる部分はあるけれど、素直に感謝したくないこの気持ちわかりますかね。
「せめてもうちょっと涼しくなりませんかねえ」
愚痴をこぼす後輩はうんざり顔だ。
「後ろ髪纏めてみたら体感温度は下がるんじゃないか」
「なるほど」
髪は熱を保つ効果もあるので、結べば首筋からちょっとは放熱されるかもしれない。
そんな俺の提案通りに、後輩が鞄からゴムを取り出して後ろ髪を左右で結ぶ。
「今日は二つなのか」
「髪が伸びてもうちょっと弄れるようになりましたからねー」
たしかに二本の短い尻尾は、短い頃だったら結ぶのに苦労していたかもしれない。
「どうですか?」
後輩は出来上がった結び目を見せるように少し首を傾けてこちらに見せる。
「悪くない、けど夏なら上にあげた純ポニテの方が好き」
ついでに運動着ならモアベター、それがバスケ部ならベストだ。
「えー、あれ難しいんですよー」
と言って後ろ髪を一旦ほどいた後輩が、髪を集めるように上に持ち上げる。
「ほら」
横を向いてそれを見せられると、たしかに後頭部でちょんと短く括られているのはあまり格好がついていない。
書道の筆を上向きに移植したみたいだ。
「下と違って上はもうちょっと伸ばさないとですねー」
ポニテが一番映える季節は夏だと思っているのでもったいないが、そこまで注文できる立場でもないのでしょうがないか。
「やるなら来年の夏まで待ってもらわないと」
「そうだなー」
まあそこまでしてもらう義理もないんだけれど。
髪伸ばし続けるのも大変だろうし。
「やっぱりこっちですね」
再び髪を下に結んだ後輩はこちらを見てニコッと笑う。
「かわいいですか?」
「悪くない」
「ふーん」
「なんだよ」
俺の短い反応に、なぜか後輩は楽しそうに笑っている。
「いやー、センパイは素直じゃないなーと思いまして」
「素直じゃないのは後輩の方だろ」
「私のどこが素直じゃないって言うんですか」
「むしろ後輩が素直だった記憶がないが」
「私はいつでも素直ですよ?」
はいはい。
それからまた勉強を始めると、後輩も同じように教科書に向かう。
たまに視線を上げると後輩のつむじが見えて、おさげが二つ左右に揺れている。
それと同時にうなじには汗が浮いていて視覚的にも夏の暑さが感じられた。
なんて、思っていると後輩がおもむろに立ち上がり視線を窓際に向ける。
すっと椅子を引いて、すたすたと扇風機の前まで移動すると、その場にしゃがみこんだ。
「あ~~~」
小学生か。
「つ~い~で~す~~~」
「扇風機の前で変な声出すのやめろ」
「だって暑いんですもん」
「そこで変な声出したって涼しくはならんだろ」
まあ扇風機を目の前で独占してれば涼しいという理論はあるけど、それは俺が困るから置いておいて。
「たしかにそうですね。じゃあ」
腕を回して扇風機の首をパキパキと上に向けた後輩がそのまま立ち上がって、スカートからシャツの裾を出して持ち上げる。
「あー」
と後輩の変じゃない声。
そりゃシャツの中に直接風を取り込めば涼しいは涼しいだろうが……。
「ちょっとは恥じらいってものはないのか」
「別に先輩に見せてるわけじゃないしいいじゃないですか」
「たしかに見えてはいないが……」
むしろ風を受け止めて膨らんでいる背中の部分は肌に張り付いていたのが剥がれてるし。
「んー、涼しいです」
なんて言った後輩がくるっと半回転して背中を扇風機に向けると、今度は吹き込んだ風が胸元を膨らませる。
開いたシャツの胸から顔に風が抜けて、後輩は気持ち良さそう。
揺れる前髪はちょっと邪魔そう、だけどそれよりも膨らんだ胸元はそのまま後輩の胸が大きくなったようにも見えるなあなんて失礼な感想。
そんな視線を、後輩にとがめられる。
「なんかセンパイの視線が怪しいんですけど?」
「お前は人の視線を気にする前に自分の立ち居振る舞いを見直せ」
「そんなの知りませんー」
なんか若干勘違いされた気がしなくもないけど、ほんとに考えてたことがバレるよりはマシだから放っておこう。
というか後輩の立ち回りは付き合ってもない異性の前でやるもんじゃないだろと思わなくもないが、そもそも異性として意識されてないんだろうししょうがないか。
それを気にするようなら、そもそもここに通ってないだろうしな。
「だからってスカート持ち上げようとするのはやめろっ」
「えー、絶対涼しいですよー」
そりゃスカートの中に風入れたら涼しいだろうが、客観的に見たら大分ヤバい。
「センパイには見えないようにやるので大丈夫ですよ」
「そういう問題じゃない」
それでも不満そうにする後輩だが流石に自分の席に強制送還させて、俺は扇風機の首をポキポキと元の角度に戻した。
「ねえ、センパイ」
「どうした、後輩」
「暑いです」
「知ってる」
時刻は昼過ぎで夕方前。
暑さのピークは集中力をジリジリと削ってくる。
まあ後輩は単純に課題も全部終わってイマイチやる気ないだけなんだろうけど。
それでも部室に来てからは二時間くらい勉強してるんだから前と比べたらずっと続いてる方ではある。
というか最初にここに来たときは一秒も勉強してなかったしな。
俺は後輩が来る前に更にここで二時間くらい勉強してたし、その前に家でも勉強してたので脳みそが熱暴走寸前だ。物理的な意味で。
「アイス食べたいです」
「そんなん俺も食いたいわ」
だが実際にはこの場にアイスは存在しない、それは後輩も承知の上だろう。
いや、食べようと思えば食べられるか。
「じゃあアイス食うか?」
言うと後輩が、意外そうな顔でこちらを見る。
「有るんですか、アイス」
「無い」
「じゃあダメじゃないですか」
「無いなら買いに行けばいいだろ」
「えー、そんなのいいんですか?」
「放課後ならともかく、休日なら問題ないだろ」
幸い近くのコンビニまで歩いて十分もかからない。
放課後に一回外に出てまた戻ってくるのは目立つかもしれないが、休日なら一度出て戻ってきても今学校に来たように見えるだろう。
「なるほど。それじゃあ行きましょうか」
「おう」
「あっづ……」
部室から出て靴を履き替え外に出ると、直射日光に当てられた後輩が心底うんざりしたような声を漏らす。
当然のように日はまだ高く、なんなら一日で一番暑い時間帯である。
白い半袖のシャツにノーネクタイで胸元のボタンを外してかなり涼しげな格好の後輩でもこの暑さは堪えるようだ。
「センパイ、やっぱり私は部室で待ってるんでアイス買ってきてください」
「流石に見つかったら面倒だから買って戻ってはこねーぞ」
「そんなー」
コンビニの袋ぶら下げて校舎の中を歩くほど豪胆じゃない。
教師に見つかってもなにか言われるかは微妙なところだが、多少でも可能性があるなら避けた方が無難だろう。
「ほら、行かないなら置いてくぞ」
「わかりましたよー」
俺が先に歩き出すと、後輩も渋々従うようにあとに続いて校舎から離れた。
「あっついですねー」
「そうだなー」
コンビニまでさほど歩くわけではないのだが、それでも直射日光を浴びた髪が熱を吸って熱々になってるのがよくわかる。
頬には汗が浮かぶし、シャツの背中も肌に張り付くし、これは後輩じゃなくても嫌になるというものだろう。
今ならシャツ絞ったら滝みたいに流れ落ちそう。
やっぱり外を出歩くなら早朝か日没後に限るわ。
「そういえば、この時間にセンパイと歩くのは珍しいですよね」
「たしかに、いつもは放課後だからな」
休日に会って出かけるような間柄でもないし、例外の夏祭りも夕方以降だったし。
「そう考えるとなんだか新鮮なようなそうでもないような?」
「どっちだよ」
「どっちにしても、もうこんな機会はないかもですね」
「そうだな」
あと数日で夏休みは終わり、秋には長期連休はなく、冬休みはもう受験が目前だ。
個人的にわりとプレッシャーには強い性格をしているとは思っているんだけど、それでもその日のことを考えると少し憂鬱になる。
「なら今は今を楽しみましょ、センパイ」
後輩のそんな気楽に見える言葉は、それでも悩んでもしょうがない事の前では救いかもしれない。
「ということで折角ですし、アイス奢ってくれてもいいんですよ」
「調子に乗るな」
あんまり毎回奢ってるとまるで付き合ってるみたいになりそうなので、今日は自分で払わせよう。
「ちぇー」
不満そうにしながらも、コンビニに到着すると後輩は楽しそうにアイスを選びはじめて会計を済ませる。
「同じのですね」
「そうだな」
俺と後輩が買ったのは同じく青いアイスキャンディー。
ソフトクリームもいいけれど、やっぱり真夏には氷菓かなってチョイスだった。
「折角ですし下まで降りましょうか」
視線の先には車道を一本挟んで下に降りられる堤防がある。
「俺は別にここでいいが」
「私一人だけ降りても寂しいじゃないですか。ほら」
後輩に誘われるように車道を渡り、堤防の階段を降りるとそこには白い砂浜と水平線が広がっている。
「眩しいですねー」
「そうだな」
遊泳禁止のこの場所は夏でも人はいなくて、砂浜は貸し切り状態だ。
そんな砂浜に後輩は汚れるのも気にせず腰を下ろす。
「ほら、センパイも」
「わかったよ」
普段ならこんなことはしないだろうけど、夏休みだしまあいいかと後輩の隣に座ると砂に尻が沈む感触があった。
「アイス美味しいですねー」
「そうだなー」
包みをビリっと剥いて口に含むと、冷たくて甘い感触が舌に生まれる。
夏だなあ。
海と炎天下と棒アイス。
これほど夏なシチュエーションは早々ないだろう。
たぶん来年はこんなに夏っぽいことをすることもないんだろうな。
きっとここの海を眺めることもないだろうし。
なんて思うと少し思うところがないわけでもないけれど、それはきっとこの場所に対するものじゃなくて、高校生活という期間の終わりに対するもの。
あとはまあ、隣に座ってる相手にもあるかな。
別に恋愛感情とかがあるわけではないけれど。
それでも高三のこの時期に時間を共有している相手という意識はあった。
そんな後輩は海の方に視線を向けたまま、美味しそうにアイスを食べている。
「ねえ、センパイ」
「ん?」
「夏休み楽しかったですか?」
「いや」
正直楽しいと思う要素はほとんどない。
受験生なんだから、それが普通だと思うけれど。
でも。
「アイスは美味いな」
後輩と並んで海を見ながらアイスを食うこの記憶は、来年になっても再来年になっても思い出す、かな。
「私も、アイス美味しいです」
「そうか」
なら後輩も、同じようにこの味を思い出すのかもしれない。
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