8月その②

セミの鳴き声と部活の掛け声、グラウンドから金属バッドの甲高い音が時折聞こえてくる。


夏休みが始まってから二週間ほど経って、久しぶりに来た学校はどこかよそよそしさを感じる。


冷静になって考えると、二週間は久しぶりって程でもないんだけど、普段が平日毎日通ってるからそれとのギャップだろうか。


あと昼前に誰もいない通学路を歩いて学校まで来るっていう平日とは違う行動も違和感の正体かな。


夏の熱気は青々と繁った葉桜の陰に入っても衰えることはなく、校庭で部活をしている部員たちを勝手に心配してしまう。


まあ体育館も同じくらい大変だろうけど。


そんな関係ないことを考えながら昇降口にたどり着いて靴を履き替える。


やはりまだ暑いことに代わりはないが、それでも完全な日陰と風のある場所では体感温度が下がったような気がした。


やっぱり空気が流れる場所は熱が淀まなくて良いなあ、なんて思いつつ、階段を登って部室の鍵を開ける。


そして一歩中に踏み入れると、全身からぶわっと汗が吹き出した。


部室についてからはいつものように、エアコンと扇風機を点けてから勉強を始める。


うん、やっぱり集中できて良いな。


俺は思ったよりも学校のことが好きなのかもしれない。


いや、自宅が嫌いって訳じゃないけどね。


今日は夏期講習が休みで予定が空いていたので学校に来てみたのは正解だった。


制服着なきゃいけないのはめんどくさかったけど、まあ私服で来て目立つよりはマシか。


なんてことを思いながら勉強を続け、昼を過ぎた頃にコンコンと部室の扉が叩かれる。


「開いてるぞー」


声をかけると、見知った顔がひょこっと覗かせた。


「おはようございます、センパイ」


「おはよう、後輩」


そのまま入ってきた後輩が、バッグを置いてからパタパタと手で顔を扇ぐ。


「それにしてもここ暑いですねえ」


「夏だからな」


これでも勉強している間に空調が効いて多少マシになっているので、最初の真夏の車内のような殺意は感じないけど。


「というか後輩、制服なんだな」


後輩は見慣れた制服姿。


半袖のシャツに短いスカート、スクルーバッグ、そういえばソックスがいつもよりも短いかも。


「学校来るのに私服は変ですからねー」


「それもそうか」


後輩が休日に制服を着る様子が想像できなかったが、そもそも後輩が休日に学校に来ている姿も想像できなかったので今更か。


「あ、もしかして私服見たかったですか?」


「んー、そうでもねえな」


「なんですか、私の服には興味ないって言うんですか」


「だってインスタ見れば普通に載ってるんだろ」


見たことないけど。


「そうですけど、生と写真は別物ですよっ」


「そういうもんか?」


どっちにしろ、後輩と休日に学外で会う予定なんてないんだけど。


「はあ、センパイにはがっかりです」


「悪かったな」


「お詫びにお菓子ください」


「ん」


言われてクッキーの袋を差し出すと、後輩もいつもの椅子に腰掛けてそれに手を伸ばす。


「美味しいです」


「そりゃ良かった」


ということで満足そうな後輩は置いておいて、いつものように勉強を続けた。




「ねえ、センパイ」


「どうした、後輩」


「暑いです……」


「知ってる……」


勉強を中断した後輩がペンを置いて机に向かってぐったりと溶けながら、部屋の暑さに堪えた声を出す。


エアコンと扇風機を併用してもまだ抜けきらない夏の熱気は、昼過ぎの今が最大のピークだ。


上はボタンを開けたシャツ一枚、下は靴も靴下も脱いでスラックスを折って捲っていてもまだ暑い。


後輩もスカートなこと以外は似たような格好。


上から三つボタンを開けてる後輩が机に向くと胸元が危なかったりするけど、まあ勉強に集中してれば問題ないかな。


「なんでこんなに暑いんですか……」


「今年一番の暑さらしいからな」


「それを聞いてまた暑くなりました……」


毎年のように10年に一度の異常気象と言われている昨今だが、今年の夏も例に漏れず殺人的な暑さをしている。


これが部室の中だからまだマシなんであって、外に居たら本当に人が死ぬからな。


「うちわ使うか?」


「責任とって、センパイが扇いでください」


「しゃーねーなー」


持ってきていたうちわでパタパタと扇ぐと、後輩の前髪が風に揺られる。


その風の気持ちよさに目を細める後輩はなんだか猫みたいだ。


それから少しして、後輩が視線を上げてこちらを見る。


「センパイ、そろそろ勉強しますか?」


「んー、まだいいかな」


今日は特に暑いから、あんまり勉強するにも気が進まない。


ここでいう気が進まないというのは、集中できないとか勉強がダルいというよりは、そこまで勉強ばっかり頑張らなくてもいいかなって気分のこと。


どっちにしろやらなきゃいけないんだけど、今はまだもうちょっとゆっくりしていたい。


「それじゃあセンパイが勉強始めたら私が扇いであげますね」


これは恩返し、いや等価交換かな。




「センパイ」


「んー?」


「8x4使ってもいいですか?」


「んー」


ノートから視線を上げて後輩を見ると、制汗スプレーの缶を握ってしゃこしゃこと振っている。


「こっちに向けなきゃ使ってもいいぞ」


「ありがとうございます」


了承すると、ふぅと息を吐いた後輩がシャツの隙間からシュッとスプレーをしていく。


その隙間というのが襟の胸元や袖の腕の隙間、裾の下からとかなので男の前でやるのはどうかと思わなくもないけど。


まあ異性として見られてないなら意識する方が不自然か。


「センパイも脚どうですか?」


「んー、それじゃあ頼む」


「はいっ」


ということで向こう側から机の下の脚にスプレーがかけられると、レモンの爽やかな香りが鼻に届いた。


少しだけ浮かせていた足を下ろすと、ペタとビニールシートに足裏がくっつく感触がある。


これも汗が原因だけど、後でシートも洗わないとなーなんて思って視線を向けると気付いたことがあった。


「後輩、爪塗ってんじゃん」


「これですか? これはこの前塗ったやつですね」


後輩の足の爪にはスカイブルーのペディキュアが塗られている。


「あんまりこういうの見ないから新鮮だな」


手の爪ならともかく他人の足の爪見る機会なんてそんなにないし。


「休みだと自由に塗れるのがいいですよねー」


校則には派手すぎないものならオーケーって書いてあるけど、それでもセーフラインを探らなくていいのは気楽だろう。


「どうですか、似合ってますか?」


「そうだな、良いんじゃないか」


青系だから涼しげで悪くない。


「でも自分で塗るの大変なんですよねー」


自分で足の爪切るのも体勢的にぐぎぎってなるし、綺麗に塗ることも考えると実際大変そうだ。


「そうだ、今度センパイが塗ってくださいよ」


後輩の名案を思いついたという顔を見て少し考える。


「んー、機会があったらな」


「え、いいんですか?」


「わりと楽しそう」


「えー、センパイが乗り気だと逆に恥ずかしいんですけど」


「なんでだよ」


「センパイのヘンタイ」


「冷めた視線で見るのはやめろっ」


そもそも後輩がやる気にならなきゃそんな機会はないんだから俺は悪くない。




それからまた一時間以上勉強を続け、冬ならもう日が傾き始める頃合いになっても部屋の熱気はとどまることを知らない。


よく考えたら後輩とこれだけ長時間一緒にいるのも初めてかな。


まあなにもないんだけど。


ペットボトルの水を飲みながら、定期的に水分を補給しないと脱水症状になりそうだなあなんて思う。


これだけ飲んでても全部汗として体外に排出されるしな。


この時期の水分は摂って摂りすぎるということはない、なんて思いながらもう一口飲むためにペットボトルを掲げつつ顎を上げると、ふと後輩の姿が目に留まった。


後輩も十分水分を補給しているので、ある意味健康的に汗が流れている。


何度か使っていた制汗スプレーの香りはまだうっすらと残っているが、それだけで完全に汗がかかなくなる程の効果はないようだ。


そのせいか汗を吸ったシャツの胸元に、下着が透けているように見えなくもなくもないがきっと気のせい。


色? 色は薄いピンクかな、何がとは言わないけど。


今は後輩も勉強に集中しているようで、部屋にはペンを走らせる音が断続的に続く。


その合間にふと視線をあげると、後輩の鼻先から汗が溢れそうになっているのに気付いた。


下を向いてノートに書き込んでいると、自然と汗がそこに集まるんだろう。


普通なら自分で気付きそうなもんだけど、それだけ集中してんのかな。


ともあれそれが溢れ落ちたら面倒だろうと自然に腕を伸ばす。


「ひゃあっ!?」


指先で汗を掬うようにくっつけると、後輩が驚いたように仰け反り姿勢を崩す。


「ななな、なんなんですか急に!?」


訂正、驚いたようにではなく実際に驚かせていたみたいだ。


「汗が落ちそうだったから拭いただけだが」


「美少女は汗かかないんですよっ!?」


「なに言ってんだこいつは」


ノートに落ちると濡れた部分が乾くまで上手く書けなくて実際めんどくさいし自然に指が出ていたのだが、ここまでビックリされると逆にこっちがビックリである。


「ならそう言ってくださいよっ」


「もう溢れそうだったんだよ」


指摘した表紙に後輩が顔を上げるとその予備動作でポトリと落ちそうだったのでやむ無し。


「まあでも悪かったな」


「いえ、ちょっとビックリしましたけどセンパイは悪くはないので」


ちょっとかな……、ちょっとかも……。


「そういう素直じゃないところはどうかと思いますけど」


「人の心を読むなよ」


「心なんて読まなくてもバレバレなんですよ」


なんて抗議をしていた後輩が、ふっと表情を崩す。


「でもまあ、ありがとうございます、センパイ」


「どういたしまして」


まあ礼を言われるほどのことはしてないけど。


それにしても、今日は暑いな。

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