7月その③

「今日も雨ですねー」


「そうだな」


窓に視線を向けた後輩に倣うように視線を窓の外に向けると、そこには見慣れた雨の風景を見ることができる。


もう梅雨は明けてしばらく経つのだが、それで雨続きの日がおしまいとなるわけではなく相も変わらず不安定な天気が続いている。


まあ夏ってこんなもんよな。


エアコン効いてるお陰で、暑さはそこまで辛くはないのが救いだけど。


「センパイ、傘持ってきましたか?」


「ああ。後輩は?」


「もちろん、ちゃんと持ってきてますよ」


前は後輩が傘を忘れて一緒に帰ったこともあったが、今日はちゃんと持ってきているらしい。


「そんなに毎回忘れてくると思われちゃ困りますよ」


「まあわざとでもなければそう何度も忘れることもないか」


「そういう言い方するとまた私が忘れたときにわざとやったみたいな流れになるからやめてくれます?」


「なら忘れなきゃいいだろ」


「いいですかセンパイ。失敗しなきゃいいだけだろなんて言われても人は失敗する生き物なんですよ」


「言い訳おつ」


「そんなこと言ってるとセンパイが傘忘れても入れてあげませんからねっ」


「はいはい」


なんて雑談してる間も雨はざあざあと降り続いて、止む気配はない。


まあ天気予報でもずっと雨って言ってたから当たり前だけど。


「センパイ、体調は平気ですか?」


「あー、うん。朝からちょい頭痛あったけど授業受けてる間に治まったわ」


「授業で頭痛が治まるんですか。私なんて逆に頭痛くなってきますけど」


時間経過で治まっただけで、別に授業にヒーリング効果があるわけじゃないけどな。


「んじゃ勉強しますかね」


俺が言うと、後輩が頭痛に堪えるように低く呻く。


「うー……」


「どうした、後輩」


「勉強めんどくさいです」


「がんばれ」


俺の心のこもった応援にも後輩は不満げだ。


「もっと気の利いた応援はないんですか」


「チョコやるからがんばれ」


紗々を箱から一つ取り出して袋のままスッと差し出すと、それを見た後輩がこちらに視線を上げる。


「もう一個ください」


「ちゃんと勉強したらな」


俺の交渉の成果、後輩が渋々ながらも勉強を始めた。




「センパイ、ここ教えてください」


「んー?」


教科書の後輩がペンで指した場所を見ると、そこは数学の応用問題が載っている。


「また微妙に面倒なとこだな」


「簡単なところなら自分でわかりますもん」


「それもそうか」


忘れがちだが後輩も成績自体はうちの学校基準で平均より上なんだから、簡単な問題には躓かないか。


本当に忘れがちだけど。


「んー」


「わかりますか?」


「これくらいは余裕」


流石に一年前の問題はできるというかできないとまずい。


特に数学は基礎から理論を積み上げていく科目だから、前の段階で躓くと次に進めないしな。


問題を見て、後輩のノートを見て、そこに続きを書き込もうとして止めた。


「逆さまだとめんどいな。後輩ちょっとこっちこい」


俺が手招きをして、後輩が机を半周して俺の隣に来る。


そのまま教科書とノートもこっちに向けて、解き方を解説した。


「ここの公式を使ってここをこうしてこうな」


「なるほどー」


「んじゃ次の問題やってみ」


「はい」


頷いてシャープペンを握った後輩か、教科書とにらめっこをしながら問題を解いていく。


その手は淀みなく動き続けていて、一度教えただけでもう問題はなさそうだ。


「どうですか、センパイ」


「合ってるな」


解いた問題を確認しても間違ってはなさそう。


「ありがとうございます、センパイ」


頭を下げた後輩から、微かに爽やかな香りがする。


「なんか後輩、良い匂いがするな」


これは、制汗スプレーのレモンの香りだろうか。


「ちょっと、嗅がないでくださいよ」


すんすん。


「嗅ぐなーっ!」


「ぐえっ」


引き剥がすように顔を押し返されて、変な声が出てしまう。


「センパイはヘンタイですねっ」


「良いだろ別に、良い匂いなんだから」


「良くないですよっ」


顔を赤くした後輩がテーブルの向こう側に帰っていった。




「雨止まないですねえ」


「そうだなあ」


窓の外の雨の気配はまだ衰えず、ざあざあと勢いよく鳴っている。


「テンション上がりません」


「何かするわけでもないし気にするな」


このあとは帰るだけだしな。


「センパイはまだ帰りませんか?」


いつの間にか勉強を始めてから二時間ほど経っていて、しばらく前から飽きた気配を出していた後輩が紗々を食べながら聞いてくる。


「んー、そうだな」


「勉強頑張りますねぇ」


「受験生だからな」


「それじゃあ今日は先に失礼しますね」


「おう」


ということで、勉強道具を片付けた後輩を部室から見送る。


時刻は七時過ぎ。


まだ日没前の時間ではあるが、雨雲の影響で外は薄暗い。


風邪引きそうになるほどの気温じゃないのは夏に感謝だな。


それから参考書とノート、筆記用具を片付けて鞄に入れる。


少しスマホを確認してから、部室を出て鍵をかけた。




蛍光灯の点いてない暗いままの廊下を歩く。


当然のように他に人影はなく、若干のホラー要素も感じさせる校舎は、ほんの三ヶ月前にはずっと一人で勉強していた身には慣れたものだ。


今でも後輩が来ない日はひとりだし。


今日は大抵の部活も雨で早く上がっているようで人の気配もなく、そのまま誰ともすれ違うこともなく階段を降りると昇降口が見えた。


そこに、人影が一つ。


「なにしてるんですか、センパイ?」


「先に帰ったんじゃなかったのか、後輩」


五分程前に先に帰った後輩は、ほとんど人の残っていないこの校舎でまだやることがあった、なんて訳じゃないだろう。


実際に、俺を待っていたことは気配で伝わってきた。


「私怒ってますからね」


「なんでだよ」


「わからないんですか?」


「まあ、心当たりはある」


まだ勉強をすると嘘をついて後輩を先に見送ったのは、明確に理由があっての行動だし。


「人には傘に入れさせておいて、自分は濡れて帰るなんてズルいじゃないですか」


「それは後輩が」


「黙ってください」


「はい」


言い訳を禁止されてしまうと、嘘をついてまで一人で帰ろうとしたことが完全に非難される行動という事実しか残らない。


そうした理由はいくつかあれど、一番の動機は傘に入れてくれと頼むのがめんどくさかったっていうそれだけの理由だし。


人に頼みごとをされるよりも、人に頼みごとをする方がめんどくさいと思うのは俺の性根の問題で、あまり人に理解はされないと思ってるけど。


どっちにしろ濡れて帰る方が気楽だと思って選んだ結果、後輩を怒らせてしまった訳で。


「だってそんなの寂しいじゃないですか」


「だからって泣くなよ」


「泣いてないですっ!」


俺の言葉に勢いよくツッコミを入れる後輩は、確かに泣いてはいないが言葉の通り寂しそうではあった。


そんなことを気にしてわざわざこんな場所で待ってるなんて、律儀と言うかお節介というか。


迷惑だとは思わないけど。


「とにかく反省してください」


「はい」


「じゃあもうしないでくださいね」


「……」


「返事は?」


「わかったよ」


勢いに押されて了承すると、後輩が満足したように頷いた。


「それじゃあ、帰りましょうか」


言った後輩と一旦分かれて、靴を履き替えてまた合流する。


目の前には相変わらず、大粒の雨が降り続いていて傘がなかったら一分もせずにずぶ濡れになりそうだ。


「ちゃんとくっついてくださいね」


隣に並んだ後輩と、前と同じように一つの傘の下に入る。


「傘持つか?」


「私のなので平気です」


まあそう言うなら、持ち主の意向に従っておこう。


そして歩き出す前に、後輩の腕が俺の腰に回される。


いつぞやとは逆の構図だ。


「お前がやるんかい」


「この前のお返しですよ。ひゃっ!?」


お返しのお返しに後輩の腰を抱くと、変な声が聞こえた。


「急になにするんですかっ」


「こうやってお互いに腰に手を回してるとダンスしてるみたいだな」


ダンスはダンスでもラインダンスだけど。


某アニメのエンディングを思い出して指を鳴らしてリズムをとりたくなるね。


「まったく、私以外にやったら絶対セクハラですよこれ」


「後輩以外にはやらないから安心しろ」


「私にもやらないでほしいんですけど」


なんて言われるけど本気で抗議されているわけでもないので気にしない。


実際後輩は、けろっと表情を変えて視線を前に向ける。


「それじゃあ帰りますか、センパイ」


「よろしくな、後輩」


「はい」


後輩の傘は俺のものよりも小さくて、濡れないようにその分強めに身体を寄せて帰り道を歩き始めた。

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