5月その④

いつものように授業を終えて、部室の中で勉強をしている。


たまに左手を菓子に伸ばしながら止まることなく英語の参考書をこなしていると、向かいの席でもそっと動く気配がした。


今日の後輩はスマホを弄ることもなく、ここに来てからずっとテーブルに顔を伏せてている。


両腕を枕にしているので顔は見えないが、たまに動いている気配がするあたり寝ているわけじゃないらしいけど。


「んー……」


低く声を漏らした後輩が、ほんの少しだけ顔をあげる。


その動きはちょっとだけ猫を連想させた。


「どうかしたのか?」


「なんでもないです」


と言われても、なんでもなくないことくらいはわかる。


まあ細かいことがわかるほど付き合い長くもないけど。


「チョコ食うか?」


「今はいいです」


なん……だと……。


「これは重症だな」


「お菓子で判断するんですか……」


呆れた様子で言う後輩を見るに、冗談にツッコミを入れられる程度には元気はあるらしい。


本格的に深刻な話でもないんだろうか。


「何か話したいことがあるなら聞くぞ。話したくないなら聞かないけど」


「ん……、大丈夫です」


「そうか」


なら気にしない。


こういう時に気にしないと決めたことを完全にスルーできるのは俺の数少ない長所の一つだ。


流石に騒音とかは無理だけどね、主に心理的な部分に有効なだけで。


親や恋人でもあるまいし、親身になって一から十まで相手をするほどの関係でもないわけで、話したくなったら自分で話すだろう。


それより勉強をする方が優先事項としては上にある訳で。


机の上のコアラのマーチを一つ摘まんで口に入れると、そのまま視線を参考書に落とす。


一緒に後輩もまた顔を伏せるのが見えた。


腕に顔を埋めると横髪がちょっとくしゃっとなるのは嫌いじゃないけどね。


先日終わった中間試験も順調に終わり、また普段通りの勉強の日々。


後輩は相変わらず週に一度程度の頻度で顔を見せるが、試験期間が終わってからはまた勉強をする様子は見えなかった。


俺はこれからが本番だけど。


成績的にまだ塾や家庭教師を頼まなくても問題なさそうなのでしばらくはこの部室で一人勉強に集中できそうだ。


塾もだけど家庭教師も苦手なんだよね。


いや、綺麗なお姉さんがマンツーマンで教えてくれるなら受けることもやぶさかではないけど。


問1、えっちな展開はありますか?


答1、いいえ、ありません。


って現実は見えてると言うかそもそも家庭教師が異性になる確率も高くなさそうだしね。


絶対同性の方が問題起きないじゃんって言う。


俺が家庭教師を派遣する経営者なら絶対そうする。実際はどうか知らないけど。


ということで、俺は成績が落ちるまでは基本毎日ここにお世話になる予定。


流石に夏期講習は受けないとだろうけどなー。


まあ夏休み中ずっと一人で勉強してたら流石に飽きそうだし気分転換になるか。


なんて思考をちょっとだけ脱線させながらも勉強を続ける。


英語は映画見る時やゲームする時に役に立つことが多いから、勉強の中では一番身近に役に立ってる感じがするのでモチベーションも保ちやすい。


映画って日本語音声、日本語字幕、英語音声、英語字幕でどれもニュアンスの違いがあるからどの組み合わせで見ても楽しいんだよね。


個人的には英語音声日本語字幕がお気に入り。


まあ逆の方が単語のスペルが確認できる分勉強にはなるんだけど。




それからしばらくの間勉強していると、後輩がもそっと動いて顔をあげる。


その表情はまあとてもダルそうだった。


「チョコ、ください」


「ん」


リクエスト通りにコアラのマーチの頭を差し出すと、後輩がそこに手を入れて中を漁る。


コアラのマーチって残り少ないと取りづらいよね。


シャツの袖が箱に当たってるし。


なんて感想は置いておいて、後輩がやっと一つ取り出すとそれを口に運ぶ。


伏せたままだと食べづらそうだけど、後輩はそのままもしゃもしゃと咀嚼してこくんと飲み込んだ。


「ちょっと失敗したんです」


そう呟いたのを聞いてから一呼吸おいて、後輩のテンションが落ちている原因のことかと気付いた。


「大したことじゃないんですけど」


具体的なことを語るつもりはなさそうだけど、本人が言いたくないなら聞かなくてもいい。


「だからちょっとだけダルいんです」


「そうか。てっきり試験の結果がヤバくて留年確定でもしたのかと」


「そんなんじゃないですよ」


力なく答える後輩は、まだ冗談に笑えるほどじゃないらしい。


俺の冗談がつまらなくくて笑えないなんてことはあるわけないしな。


なんて冗談はともかく。


再び顔を自分の腕にのせた後輩は、ゆっくりと片腕だけ前に伸ばす。


「ねえ、センパイ」


「どうした、後輩」


「お願い、聞いてくれますか」


「いいぞ」


俺の簡素な答えに一拍をおいて、後輩が少しだけ視線を上げる。


「左手、出してくれますか」


「ん」


手のひらを上にして、左手を差し出す。


すると後輩が、伸ばしていた右手の指先をほんのわずかにそこに乗せた。


互いの丁度指三本、中指と人差し指と薬指が重なって触れる。


第一間接よりも先で、春の終わりを感じる部屋の気温よりも温かいその指先は自分のものと違って柔らかい。


「少しだけ、このままでもいいですか」


「少しだけな」


答えると、後輩がまた腕に顔を埋める。


少しだけが本当に少しだけで終わる気配はないけれど、大丈夫。


俺も再び視線を参考書に戻す。


左手が使えない分ちょっとだけ、やりづらいけどできないこともない。


帰るまで、あと二時間くらいはあるかな。




勉強をしながら、指の感触に少しだけ思う。


恋人みたいに抱き締めるでもなく、頬を撫でるでもなく、だけど他人のように無干渉を保つ訳でもなく。


この指先三本分の重さが今の後輩との丁度良い距離なんだろう。


まあ、後輩がこれでいいなら。


そういうのも、悪くないか。

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