第6話 篠子の物語のトリあえずの結末

 「なんで、免許取るのまでやめるかなぁ?」

 わたしが言う。

 乱視が誤診だったからといって、免許を取るのまでやめなくていいと思うのだけど?

 「それはさ」

 話そうとするのに、唇の前にわたしの人差し指があるので、珠枝たまえはうるさそうに目を細めた。

 でも、わたしが指を動かさないでいると、そのまま続ける。

 「篠子しのこの運転する車に乗せてもらったほうがらくだから」

 言って、くすくすくすっ、とくすぐるように笑う。

 その弱い息がわたしの指に当たり、通り過ぎる。

 「なあにそれ」

 大げさに言ってやるつもりが、珠枝に合わせたような、弱い、かわいらしい声になった。

 「わたしだって、免許は持ってるけど、運転したことなんかないんだから」

 大学に入ったとき「免許は何かと必要だけど卒業してからだと取ってる時間がなくなるから」と、親に脅されて取ったのだが。

 いまのところ、車が必要とか、自分の車があったほうが便利とか感じることはほとんどない。

 珠枝が反応する。

 「じゃあ、どこまでもつき合うよ」

 その意味がわからない。

 わたしが運転の練習をするならずっと横に乗ってつき合ってくれる、ということなのか。

 追及するのはやめた。

 そのかわりに

「でも、だったら、その健診のときの診断ミスに感謝かな」

と言う。

 「それまででも、珠枝、かわいいかな、って思ってたけど、珠枝がふり返ったのがちょっと逆光のところで、銀色のフレームにちらっと光が当たって、それで、おなかすいた、って感じの顔がすごくキュートに見えた」

 早く食べものにめぐり会いたい、という気もちと、それを表に出すのははしたないのでとりあえずスマイル、という気もちがせめぎ合っているようで。

 いままで、「この子、小太りってこと以外に目立つところないな」と思っていた珠枝のすべてが光を放ち始めた。

 小太り、肌の色も白くない、つやもない、声はなまがわきのような声、唇は色が悪くてざらざら。

 そんな、「この子が目立たない理由」だと思っていた特徴が、ぜんぶひっくり返って、「これだからこの子はキュート!」という特徴に変わってしまったのだ。

 「何それ?」

 珠枝が言う。

 「それに、食堂のあの位置だったら、逆光にはならないでしょ?」

 「はい?」

 何、その理屈っぽいツッコミ?

 「だって、うちの食堂、ホールのほうが明るくて調理場のほうが暗いんだから、カフェテリアでわたしの後ろに並んでた篠子からは完全に順光でしょ」

 ツッコミの理由をさらに理屈っぽく説明する珠枝!

 「うーん」

 細かい。

 この細かさが、あの茶色フレームの眼鏡の犯罪者男の小細工を見破るのに役立った。

 そういうことか……。

 ……な、と思ったところで、気づいた!

 「っていうことは、珠枝だって、あのとき、わたしに見られてるのに気がついてた、ってこと?」

 「うん」

 生乾きでない、湿った声で、珠枝は答える。

 かわいらしい!

 「だって、篠子っていえば、うちの課でいちばんの切れ者OL。まさにオフィスのレイディーだよね」

 熱に浮かされたように珠枝は続ける。

 「レイディーって貴婦人だから、オフィスの貴婦人。その貴婦人の篠子様に見られてる、しかもお叱りで見てるのではないらしい、わっ、わっ、ってなったんだから」

 「きっ……貴婦人?」

 間の抜けた反応。

 「そうだよ」

 ふしぎそうに、珠枝が言う。

 「レイディーなんだから、貴婦人でよくないんだったら、オフィスの女主人」

 それはいやだ。

 「貴婦人」ならまだたたえられている感じだが、「女主人」というと悪役っぽい。

 そのわたしに、珠枝は畳みかけるように言う。

 「だって女主人でしょ? 課長が気がつかない、もちろん課員もだれも気づかない問題点を次々に指摘して、何度も課を救ってるんだから」

 いや、そんな大それたことはしていないけど。

 企画書の前のほうと後ろのほうでズレたことを書いていたり、監督官庁の認可を取ってないのに話が前のめりで進んでいたり、同じく社内のすり合わせがまだなのに話が細かいところまで具体化していたり、うちの課の担当以外のことをやろうとしていたり、というのに気がついたら

「それ、いいんですか」

というようなことを言うだけだ。

 おかげで、課長と、課の男性社員の大半と女子社員の一部からは非常にうるさがられているのだけど。

 「だから、篠子の斜め前の席になったとき、篠子のこと、一日に何度もチラ見したんだよ。篠子は気づいてくれなくて」

 いや。

 見られているのには気づいていた。

 「だから、そのレイディーの篠子から、「こんど、お昼、いっしょに食べない?」って誘われたときは、やったっ、って思ったよ」

 言って、珠枝は目を細めて笑う。

 「いや、チラ見されてたのは気づいてたよ」

 わたしは言い返す。

 というか、説明する。

 「でも、そのときは、ああ、いつも話をややこしくする女だと思われてるな、と思ってた。だって、珠枝からは、細かいところにうるさすぎる性格に見えるだろうな、と思っていたから」

 「最初はそう思ったよ」

 遠慮なくずけずけと言う珠枝。

 こんなところは会社では見せないのだが。

 絶対に。

 制服のないうちの会社で、まわりの社員が着て来るのと同じような色の服に身を包んで、自分からまわりに埋没しようとしている、埋没していると見せようとしている、そんな子。

 それが会社での珠枝だ。

 その珠枝が言う。

 「でも、そうやって見てたから、しゃべるところじっと見てたから、篠子の唇が天然チェリーピンクで、しかも、熱をこめてしゃべってたら、こう、頬がすき通ってきてさ、すごい表情がよくなっていく、って気づいたんだもん。だからさ」

 珠枝は、言って、わたしの右肩に乗せた左手をはずした。

 どうするつもりだろう、と思っていると、珠枝は、その左手で、珠枝の唇の前に持って行っていたわたしの右手をどかす。

 ちょっと乱暴に。

 わたしは左手でその右手をかばおうと左の肩を浮かせた。

 そこに珠枝は自分の右手を無理やり滑り込ませる。

 そして、うるんだ両目をわたしの目に向けて、言った。

 その色も悪くてざらざらの唇で。

 「その唇、わたしにちょうだい」

 わたしは黙ってまぶたを閉じ、両手と肩から力を抜いた。

 そのときに思ったのは。

 この子はこんなに涙で目がうるみやすい体質だから、その涙で像がかすんで、乱視と誤診され、そしてあの日の眼鏡姿が実現したんだな、ということだった。

 だったら、珠枝の体質に感謝だ。

 そう思って、わたしは、珠枝が唇をわたしの唇に重ねてくれるのを待った。


 (終)

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