第4話 続・篠子の物語と珠枝の唇

 わたしはそのニュースで救われた思いがした。

 胸が軽くなった。

 珠枝たまえは、これまでことばに出して言ったことはない。

 でも、珠枝は、胸のなかにずっと疑いを抱き続けていたのではないか。

 大げさに言えば、その思いにわたしはずっと苦しんできた。

 いまその思いを珠枝にぶつけることにだってリスクはある。でも、いまやっておかなければいつやるのだ、という思いで、わたしは言うことに決めた。

 「ねえ、珠枝」

と、わたしは座敷テーブルの向こうの珠枝に声をかける。

 「うん?」

 珠枝は眠そうに答えた。

 目がうるうるしているのは、いつものとおり、眠気のせいだろう。

 珠枝が眠いのならば、ここで止めてもいい、ごまかしてもいい、という気もちが生まれる。

 それを押し切って言う。

 「わたしが、あの家を断るのに気が進まなかったのって、わたしがあの男に気があるからだ、って、もしかして、珠枝、ずっと思ってた?」

 言ってる途中で、「わたしの言いかた、いつもの珠枝みたいにまだるっこしい」と自分で思ったけど。

 それに対する、

「へえっ?」

 珠枝のひと言。

 そして、珠枝はその目を大きく見開いた。

 「そんなこと」

 ことばを切って

「一度も思ったこと、ないけど?」

 その言いかたで、珠枝は気もちをいつわってもつくろってもいない、と、わたしは確信できた。

 「あ、よかった」

 思わず出てしまったことばだ。

 一か月以上、ずっと抱いていた疑いが晴れたにしては、軽すぎる反応だ。

 でも、いまさら直すことはできない。

 「それにさぁ」

と珠枝が続けて言った。

 この珠枝のなまがわきっぽい声質が好き。

 「あの男を見て、あ、いい男かも、って思ってしまったのが悪いっていうなら、わたしも同罪」

 「同罪」なのか。

 そうだよね。

 わたしが感じていたのも、罪の意識。

 その生乾きっぽい声質で、のんびりした珠枝らしくない早口で説明する。

 「ただ、わたし、高校時代の同級生に、自分のしゃべりたいことだけしゃべりまくるっていう男がいて、そいつ嫌いだったんだよね。いまでも思い出したらぞっとする、っていうぐらいに。それで、なんか自分のペースでしゃべりまくるだけの男には免役できてて、今度も思わず免疫反応が起こっちゃった」

 そこまで言うと、珠枝は、ちょっと背をそらすようにした。

 いつもどおりのとろんとした言いかたに戻る。

 「そ・れ・だ・け・の・こ・と」

 いや。

 いつもの十倍もとろんとしてる。

 そのとろんとした声を出した唇。

 もともと血色がよくない。冬になればざらっと荒れる。

 その唇に、珠枝がいろんな色の口紅を試してきたのにわたしは気づいていた。

 でも、明るいピンク系も、ダークな寒色系も、自然なブラウン系も、珠枝の印象をいいほうに変えることはなかった。

 その血色の悪い唇と、そのすぐ内側の湿った感じが、最高!

 そのわたしの顔を、テーブルの向こうで、だいぶ姿勢を崩しながら、珠枝が見ている。

 「な・に・み・て・る? し・の・こ」

 珠枝のとろん声継続中。

 だから、正直に言う。

 「たまえのくちびる」

 いつものわたしよりとろんとしていても、いまの珠枝よりはとろんとしてない。

 はるかに、とろんとしてない。

 「もう!」

 珠枝の声からとろんとした感じが抜け、珠枝はわたしから目を逸らした。

 「わたしが、唇にコンプレックス持ってるの知ってるでしょ?」

 わたしは小さく驚く。

 「知ってるでしょ?」なんだ。

 わたし、珠枝に、「珠枝の唇、いつもさえないね。でも、それが好き」なんて言ったことは、ただの一度だってないのに。

 そのコンプレックスを突かれて、珠枝は、怒ったのだろうか。

 それまで眠そうにしていたのに、いきなり目をぱっちりと開き、立ち上がった。

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