黒縁眼鏡の向こう側

くれは

 * 

 厚い前髪に野暮ったい黒縁眼鏡。ぱっと見て冴えないなと思ったのだけれど、その印象は簡単に覆った。

 黒縁眼鏡の奥から覗く瞳は思いがけず鋭くて、まるで野生動物に見つめられたようで、目が逸らせなくなった。

 その時点でもう、わたしは彼の獲物だったのだと思う。

 彼は形の良い唇を微笑みの形にして言った。

「お姉さん、俺、今日行くアテがないんです」

 雑踏の中、わたしは足を止めてはいけなかった。目を合わせてはいけなかった。もしかしたら、この時間にこの場所を通ってはいけなかったのかもしれない。

 でも、わたしは彼に捕まってしまった。

 逃げたくて、わたしは必死に理由を考える。でも、頭が回らない。黒縁眼鏡の彼はそんなわたしの内心を全て見通しているみたいに、にいっと笑った。

「大丈夫、心配しないで。俺は未成年じゃないから犯罪にはならないよ」

「そんな心配、していたわけじゃ」

「じゃあ、何? 心配事を教えて?」

 気づけば、するりと目の前にいた。黒縁眼鏡の奥で、目が細くなる。

「わたし、は……」

「安心してよ。本気で嫌がるならやめるから、さ」

 わたしは顔を覗き込まれる。あざといくらいの上目遣いで見つめられる。

「ね、どうする? お姉さん?」




 彼とはきっとこの一晩限りだ。お互いに名前も教え合わなかった。

 わたしがもっと強い気持ちで彼の言葉を無視して歩き出していれば、きっとこんなことにはならなかった。

 そんな後悔とともに、刹那的な快楽に身を委ねる。彼は捕まえた獲物を手の内で弄ぶように、わたしを愛撫した。

 そのときでもきっと間に合ったのだ。わたしが本気で嫌と言うなら。でも結局わたしは最後まで嫌と言えなかった。

 すっかり火照ったわたしの体。なのに彼の表情はあまり変わってない。黒縁眼鏡の向こうから、愉しそうにわたしを眺めているだけ。

 邪魔な眼鏡を外そうと伸ばした手は、やんわりと押さえ込まれた。

「外すと見えないから」

 そう言って、彼は最後まで眼鏡を外さなかった。それがなんだか、悔しかった。




 事後の気怠い雰囲気の中でも、彼は眼鏡を外さなかった。半裸で、眼鏡で、ペットボトルの水を煽る。

 わたしはやっぱり素顔が見たくて、眼鏡に手を伸ばす。その手を握って止められる。そのまま眼鏡の奥で微笑んだ。

「俺の正体は、狐なんです」

 突然の言葉に、わたしはただ瞬きを返す。

「この眼鏡をかけてる間だけ、人間になれる。だから、人前では眼鏡を外せないんだ」

 そうか、からかわれてるんだ。そう思ってわたしは少し笑った。

「あ、お姉さん、信じてないでしょ」

「わかった、信じる。あなたは狐。だからもう会えないってことでしょ」

 わたしの言葉に、彼は笑った。その瞳が眼鏡の奥で、少しだけ寂しそうにどこか遠くを見る。

「そうだね。もう会えないし、会わない方が良い。自分が狐だなんて言ってる男と付き合うと、ロクなことにならないから」

「声をかけてきたのはあなたじゃない」

 わたしのそれは強がりだった。眼鏡の向こうの素顔を見てみたかった。こんな嘘じゃなくて、本当のことを──ただ一晩の相手が欲しかっただけなんだって、そう言って欲しかった。

「お姉さんだって嫌って言わなかったでしょう。だから、共犯だ」

 黒縁眼鏡の奥で、彼は笑った。ちっとも悪いことをしてるなんて思ってもいないような顔で。

 彼がわたしの額に口付けて、わたしは気怠い体に引っ張られて眠ってしまう。

 そして次に目が覚めたときに、彼はもういなかった。




 それっきり、彼とは会ってない。

 あるいは彼は、本当に狐だったのかもしれない、なんて思うこともある。

 それでやっぱり、あの黒縁眼鏡を無理矢理にでも外してしまえば良かった、と思ったりもする。




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