第45話 異変
この世の一大事が来るとは考え難い程に世の中は平穏であった。梅雨にはしっかりと雨が降り、そして初夏となればこの天気である。すずは、大集落の人々と共に田んぼの畔で草むしりをしていたところである。
「稲さ元気だで」
「そうだな、ありがてえ事だ」
「おぉぉぉい! いっつぁん! ちょっと来てくれ!」
「一助さん、銀さんが呼んでるだよ」
「なんだぁぁ?」
「用水から! 湯が出たぁぁ!」
「あ?」
銀太の元へ駆けよれば、小川から水を引く為の用水路を手直ししていた銀太の足もとには湯が沸いていたのである。
「掘り直して居たらよ、突然湯が出たんだ」
「凄いだな……湯が沸いただか……なんでだ?」
「さてな、それよりも湯が入ってはならねえ、掘り直すぞ」
「おうよ」
田んぼへと湯が行かないように、取水を止めて水路を掘り直せば、田には冷たい水が注がれていった。その間にすずは武家の居住まで行けば藤十郎を連れて戻ったのである。
「大取の湯が突然涸れたと聞けば、こっちでは用水に湯が沸いたか……」
「藤十郎様、どうしましょうか」
「そうだな……折角だ湯場を建て皆で浸かるか」
「おぉぉぉ!」
そうと決まれば事は早い。藤十郎を中心に湯場建築に対する話し合いが行われれば、温泉の無い地域であっただけに皆の目は輝いていた。
「という事で、この件を殿に申し出て来よう」
「お願いいたします」
「あぁ、任せておけ」
この辺りの風呂事情と言えば、夏なら井戸から汲んだ掛水であり、冬場となれば掛け湯か蒸し風呂となる。故に四六時中湯で満たされている事など夢のような話なのだ。
間もなく噂を聞き付けた徳蔵が姿を見せれば湯へと指を入れて湯温を確かめていた。
「ほう、少し熱めだな」
「んだ、下野の湯が懐かしいだよ」
「そうだな」
間もなく仙吉も姿を見せれば徳蔵と並び、親子で話を始めたようだ、すずはその光景を見ていれば自然と疑問が沸いたのだろう。
「そう言えば、しの……守り人の他の皆さ、親兄弟居ねえだな……死んじまっただでか?」
「あぁ、太助に雪、それに仙太と茂吉はこの度の戦で親兄弟を亡くしたが、他の者は皆、孤児だ」
「んだか……孤児だっただか……」
「あぁ、多くが単身の孤児だったが、小平太には兄達が居たのだぞ、修行の前に人さらいから弟たちを庇い死んだ竹、それに初めての山籠もり修行で毒蛇に噛まれ死んだ弥介、そして忍びとなったが、任務で死んでしまった彦治とな」
「んだか……」
仙吉は目を細めて当時を思い出していた。
任務は三人で敵地に侵入し、忍びを全滅させると言う難易度の高いものであった。本来であれば徳蔵の長男である風太がその命を受ける筈であったのだが、突然の病に倒れてしまい、次に優秀であった彦治にその命が下りたのである。
小平太達兄弟が郷に来て七年、彦治が十九歳の時であった。
「風太、行ってくるよ」
「あぁ、任せたぞ」
「あぁ、仁平もいる任せておけ」
「そうだな、お前達なら必ずやれる、しっかりとな」
「承知! 風太はしっかりと病を治しておけよ」
「承知」
定吉と言う名の忍びは徳蔵の教え子ではないが、優秀であった。故に仁平が先頭となり定吉と彦治がその後を追う形で敵地へと入ったのだが、三人は帰還予定を三日も超過したのである。皆が心配する中で、ようやく戻ったのは仁平と定吉だけであった。
忍びの仕事において失敗を知り支援を送る事が無いのは、敵がそれを待ち受けているからである、ならば命があった場合時間を掛けて自力で郷へと帰る以外に方法は無かった。
「何があった?」
「こちらの動きが読まれ、待ち伏せに合いました」
「そうか……で、彦治は?」
互いに動きを読みあう中で、こうした失敗は実に多い。その時々の僅かな読み違いが痛手を負う事となるのだ。
「巧妙に隠された狭間の弓手に討たれ、その場にて絶命してございます」
「そうか……」
すべての報告を聞き小平太が唖然としていたが、仙吉は掛ける言葉を見つけられずにいたのである、兄たちを全員失ってしまったその表情は例え様の無いものであったのだ。
「俺も小平太様もその年の試練で認められ忍びになったんだ……忘れられない年となったよ」
「んだか……で、ところで風太さんはどうしただ?」
徳蔵が反応すれば、屈み目線をすずに合わせた。
「風太は優れし忍びであったのだがな、不治の病となってしまったのだよ」
「ふじの病……御山の病気だか?」
「治らない病って事だよ」
「だ……」
「何とか治してやろうと考えてな、故に儂は郷長に無理を言って忍びを引退し薬師となったのだがな……」
「……んだか……それで徳蔵さん薬師だっただか……」
「風太は助からなかったが、他の努力は実ってな、あれ以来多くの薬を生み出したのだぞ、痛薬もそうだし……化膿止めも見事な効き目だ」
徳蔵は笑って見せたが、目の底は悲しい色であった事をすずは見逃さなかった。
「流石だで」
「がはは、当然だな」
一方、小平太と千弦は天竜の川へと出向き船師たちと打ち合わせをしていた。この者達は天竜の中流から下流を行き交い行商を行っているから、川を下るのであればこの者達を頼るのが一番である。
「では、当日よろしくお頼み致す」
「お任せを」
遠江の国では地震が頻発しているという、ならば当日大きな地震が来ても船を出してくれるのかと聞いてみれば一つ返事であった。
「我らは何が起きても川を行き交うのが仕事でさ、お任せください」
「有難い」
船師と話がつけば、二人は馬で以てゆっくりと道を進んでいた。
「準備は万端だな」
「いかにも、しかし今は欠けし最後の一人が未だに揃いませぬが」
「何とかなるのだろうよ」
手練れの一人が未だに揃わないのだが、千弦は心配いらないと笑顔を見せていた、それ程に古文書に信頼を置いている事となる。
しかし、その古文書だが、驚く事に戦いの場所まで記されていると言う、故に千弦は幕府を通してその周辺図を手に入れていたようだ。
天竜を下り行けば左岸に実践的で大規模な今川の兵所があると言う。それと判る見張り櫓があるから見逃す事も無いらしい。海岸線はそこから遥か先となるが、邪神との決戦の地はどうやらその辺りの様だ。無論、死人とは武器を手にした今川の兵となる。
一昼夜を戦い抜き、死人を邪神が宿主一人まで追い込めば、最後は精霊の剣で以て仕留めて邪神を消滅させるのである。
「一昼夜を戦う事になると、神々は知っておいでなのですね」
「うむ、全てお見通しの様だ」
「ならば勝敗の行方もご存じなのでは?」
「何故かは、解らぬがそこだけは記してなかった……勝つと記せば気が緩み、負と記せば絶望となるからな……」
「なるほど」
「神々が、この世を守ろうと記してくれた事だ、我々は全力を尽くし、神々に応えようぞ」
「承知」
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