第30話 水沢へ

 蝉が一層賑やかになれば、それなり日差しは強くなる。しかし標高の高いこの地では、むさ苦しい暑さと言うものが無かった。朝晩は寒い位だし、日中も爽やかな風が吹き過ごしやすいのだ。


 すずが旅の疲れも癒えた頃合いを見て、美濃への往復を千弦に申し出ていた。


「そうか、美濃へな」

「出来る事なら父親も説得し連れて来ようかと」

「うむ、それが良い」


 すずを見ていれば、故郷へ戻るのが楽しみで仕方のない様子である。村から一度も出た事の無かった子供が親元を離れ、見知らぬ土地で大人に紛れて過ごしてきたのだ。忍びであれば何も珍しい事では無いが、平穏の中で育った子供からすれば中々にして酷であったに違いない。


「おとう元気だかな、皆も変わりねえと良いだな」

「そうだな」


 二人分の握り飯と漬物を用意したすずは、早くも馬の前で小平太を急かしていた。


「此処は涼しいが美濃は暑い筈だ、水が無くては困る事になるぞ」

「んだった……今頃はおっかねえ程暑いんだ」


 小平太が用意した竹筒を手にすると隣に並び井戸の水をそこへと汲んだ。


「楽しみだな」

「んだ」


 大集落から東山道へと出ればその道を西へと進んだ。


 この東山道はかなり昔に造られた幹線道で、今でこそ普通の道と変わらぬ様相だが、以前は道幅が十間(十八メートル)以上あった言われており、近江から下野さらに北は陸奥や出羽までそれぞれの国に置かれた国府を結んでいたと言う。


 また東山道には支道があり、飛騨国や武蔵国、常陸国などへも繋がっている事から、現在も旅行く者にとっては重宝した。


 馬のおかげで何の苦労も無い。すずは変わりゆく景色を楽しみゆとりである。間もなく難所の峠をあっさり越えれば美濃へと入った。


 一年前はかなり血生臭く小競り合いの数々がそこら中に見えたのだが、現在は一変して静かではあった。ただ、忍びの気配は異常に濃く、緊迫した空気が流れていた。


 標高が下がれば気温も増し馬にも休息が必要となる。美しい川辺で水を飲ませれば、木陰で休ませ小平太達も昼餉とした。


「馬だと楽ちんだな、あっという間にこんなとこまで来ただよ」

「馬は苦労するがな」

「馬の精霊さ喜んでるだで、馬も楽しいんでねえかな」

「そうか」


 以前に世話になった竹林の寺を過ぎ、さらに進めば山寺も越え水沢村への分岐まで来た。三本杉と地蔵様を目印にそこを進めば間もなく水沢村となる。


「ほう、見張り櫓を建てたか」

「ほんとだ」


 賊に襲われた経験を生かして守りを固めたようである。間もなく見張り櫓の上から若い男が止まる様に指示をだした。


「だぁぁぁ! すずでねえか! おぉぉい! 皆ぁ大変だ! すずが馬に乗って帰って来ただよ!」

「何ぃぃ!」

「間違いねえ! 孫さん呼んで来い!」


 大騒ぎである、大勢が集まればやがてすずの父親も駆けつけたところである。


「おとう! おら治っただ!」

「良かっただな。小平太様、なんて礼さ言えば良いだか、ほんとにあんがとした。おらほんと言うと、すずはもう帰ってこねえって思ってたんだ」

「だぁぁぁ! とんでもねえ!」


 どうやらすずは帰らぬ人として諦めていたようだ。


「残毒は全て消えたから何も心配はいらない。ただ、今後の事で少し話したい事がある」

「なんだで?」

「信濃の神社に縁があって、俺と共におすずもそこで働く事となった。故に父親を迎えに参ったのだ」

「だ? 信濃の神社? 迎えに来た?」


 父親は当然の反応を見せていた。


「んだ、おとうも一緒に来てほしいだよ」

「だ、だ、だ、おらも行くだか?」

「んだ、夏も涼しいんだ、良い所だで」

「とんでもねえ……おら今更水沢出て余所でやっていく自信なんてねえだよ」

「社の保全に人を要するし、農作業がしたいのであれば田畑の仕事も豊富だ」

「皆いい人たちばっかだで、此処と変わらねえだよ」

「だども……」


 父親が躊躇するのは当然の事である、生まれ育った環境を離れ見た事も行った事も無い見知らぬ土地で暮らせと突然言われたのだ。


「だども、何で神社なんだ?」

「縁と言うものだ、意図せず運命が巡る事はある」

「んだ」

「だどもそこの神社で働くの、何もすずでなくても良いんでねえのか?」

「おらでねえと駄目なんだ。あ、お琴様の饅頭さ関係ねえだからな、運命だっただよ」

「……お琴様の饅頭って何の事だ?」

「だ……違う……なんでもねえ」


 中々埒が明かないが仕方がない。時折それ行く話を小平太が戻してやれば、やがて父親が折れたようだ。


「んだか……仕方ねえ……行くだよ」

「だぁ!」

「良かったな」


 満面の笑みである、すずは幼馴染たちに声を掛ければ別れを告げていた。中にはあの時すずと共に屋敷の中で大笑いをしていた二人の娘も居た。


 その晩小平太は長老の家に泊めてもらい、早朝に支度をしていれば、最低限の生活道具を手にした父親が馬の背に荷物を積んでいた。


「使えそうなものがあったら皆で使ってくれな」

「あんがとよ」

「はぁぁぁ……」

「孫さん頑張れよ」

「んだな」


 間もなくしてすずを連れて墓所へと向かったのは言うまでも無く、先立った家族の墓である。二人で花を添えれば少し時を掛けそこを離れた。


「おとう、すまねえだな……」

「良いんだ、すずが元気ならそれが一番だで」

「信濃は良い所だで驚くだよ、冬は未だわかんねえけど」


 二人を馬に乗せれば小平太は手綱を引いて走った。忍びの気配を感じれば疲れ切った振りをして見せた、どのみち馬に乗った二人を見れば忍びの関心は薄い、難無く美濃を抜ければ国境となる峠へと向かったのである。

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