第13話

 わたしの心には世界と世界の狭間に触れたい、感じ取りたいという強い欲求がある。

 いま、その望みを叶えてくれる存在が目の前にいるというのに、心が躍ることはなかった。圧倒的な存在として君臨しようとしている加藤さんがただ恐ろしく、この場から逃げないといけないのが分かっているのに、足腰が立たない。

 すっかりと力が抜け、感触があるかも覚束ないほどだった。足がなくなってしまったのではと疑うほどだったが、確認することはできなかった。

 わたしの目はずっと加藤さんに釘付けで、視線を移すことができないからだ。畏怖が募り、恐れが溢れ、頭がおかしくなりそうなのに、それでも目を離せない。これが魔性というものなんだろうか。

「俄作りの魔除けや猫除けなんて大した脅威じゃないの。無傷ってわけにはいかないから、なんとか穏便に済ませたかったんだけど」

 わたしの目論見を全て乗り越えたからだろう。声にも表情にも余裕が浮かび、その顔に怒りはない。むしろうっとりとした表情で、舐めるような視線を容赦なく向けてくる。

「でも、痛みってそう悪くないのね。苦しみに耐えて、それでも変わらない想いを実感できる。ちょっとクセになりそう」

 加藤さんの尻尾が一つ、わたしに近づいて来る。次の瞬間、右腕に乾いた音と痛みが走り、思わず声をあげた。

「ねえ、草那さんはこの痛みをどう思う?」

「嫌に決まってるじゃない!」

 思わず抗議すると赤くなった箇所を尻尾が撫で、徐々に痛みが引いていく。

「そういえば草那さんは痛いのが苦手だったわね、ごめんなさい」

 加藤さんの視線が緩み、わたしはようやく目を逸らすことができた。足腰の感覚が僅かだけ戻ったけど、立ちあがろうとしてもやはり力は入らないし、感覚が戻ったことでとても恥ずかしいことをしでかしたと分かった。

「どんな痛みも許し合える関係も良いなと思ったけど、人の体は壊れやすいし、やめておくわ。草那さんにはわたしのことを末長く愛して欲しいもの」

 わたしは両腕を動かし、必死で後ずさる。でも移動できるのはほんの僅かで、そんなわたしを馬鹿にするように、尻尾がわたしの頬を撫でる。

「泣かないで、恐れないで。わたしはあなたを傷つけないし、永遠の愛をあげるから」

 尻尾の先端が股ぐらに近づいてくる。ぐっしょりと濡れて汚らしいそこをまさぐろうとするつもりなのだ。それが厭らしい行いであることは知っていたし、加藤さんは一線を超えることに躊躇がないのだと分かり、絶望的な思いに駆られる。

 わたしはぎゅっと目を瞑り、歯を食いしばり、これから襲ってくる悍ましいことに耐えようとした。

 だが、不快な感触はいつまで経ってもやってこない。おそるおそる目を開けると、猫の尻尾に紋様の入った包帯が絡みつき、押さえつけていた。

「間一髪……それとも手遅れだった?」

 サオリ先輩の声がすぐ側から聞こえ、安堵で気を失いそうになる。このまま目を瞑り、全てを任せてしまいたかったが、それはきっと無責任だ。たとえ何もできなくてでも、わたしはこれから起きることを全て、きちんと見届けるべきなのだ。

「ギリギリセーフ、ですかね」

 怪我を負わされたけど、厭なことはされずに済んだ。そのはずなのだが、サオリ先輩は気の毒そうな顔を向けている。

「ほんとに手遅れじゃなかった?」

「ええ、腕を軽く打たれたのと、足腰に力が入らなくて、それと……」

 わたしが口ごもるとサオリ先輩は臭いを嗅ぐときのように鼻を鳴らし、大きく息をついた。

「なんだ、失禁か」

 サオリ先輩はうら若き乙女が漏らしたことをなんだの一言で片付けるとわたしの前に立ち、追加の包帯を尻尾に絡め、ぐるぐると巻いていく。そのまま尻尾を辿り、本体にまで巻き付こうという勢いだったが、その前に尻尾は猫に化け、加藤さんの後ろに隠れ……。

 いや、隠れたわけじゃない。素早く尻尾に戻り、再びこちらに迫ってくる。

 サオリ先輩は束縛に使っていた包帯を素早く両手に巻き、尻尾を掴もうとする。だが、尻尾はサオリ先輩の手をすり抜け、鋭くしなって頭部を打ち付ける。辛うじて右腕でガードしたけど、甲高い鞭の音が響き渡る。

 わたしを打ったときとは比べ物にならないほどの、身が竦むような打撃音だが、サオリ先輩は後ずさることなく受け止めていた。そして再び尻尾を掴もうとするが、その前に尾が素早く引っ込み、加藤さんの周囲に展開する。

 その顔には隠しきれない苛立ちが浮かび、七本の尻尾は怒りを表すように蠢いている。

「邪魔をしないで。これからわたしと草那さんは永遠に結ばれるの」

「無理。わたしがこれから逮捕するから」

 サオリ先輩の宣言に加藤さんの苛立ちがすっと消え、代わりに嘲りの色が浮かぶ。

「逮捕状が出るにしても数日はかかる。いまわたしに危害を加えたら、お前は猫のお尋ね者になるけど、その覚悟があるって言うの?」

 加藤さんの言うことはもっともだし、逮捕の許可を得るのに時間がかかることはサオリ先輩がその口で説明してくれたはずだ。

 それなのにサオリ先輩は平然とした顔で、加藤さんに堂々と立ちはだかっていた。わたしは腰を抜かして、逃げることすらできずにいるというのに。

「なるほど、手出しできないと思ってるからイキってること?」

 それどころか思いきり相手を挑発し、残念なものを見る目を向ける。

 加藤さんの返答は、無言で繰り出された尻尾による攻撃だった。七つの尾はタタタタタタンと、サオリ先輩の周囲を素早く叩き、砂埃がもうもうと立ち込める。わたしが見る限り、サオリ先輩は微動だにできずにいた。

「わたしはこの場を血腥くしたくないだけ。そんなもの、愛には似合わないもの」

 七つの尾は加藤さんの意志で極めて早く、そして自由自在に操られる。少なくともわたしにはどうやっても、あの猛攻をかいくぐることはできないだろう。

「尻尾を巻いて逃げ出せば、この場の無礼は見逃してあげる」

「わたしには尻尾がないから。そっちこそ、七本も尻尾があるんだからくるくる巻いて、さっさと逃げ出すべきでは?」

 加藤さんの提案を、サオリ先輩は徹底的に馬鹿にする。加藤さんの尾はわななき、顔には猫の特徴が浮かび上がる。加藤さんは再び、目に見えるほどの怒りを露わにしていた。

 七つの尾が再び、サオリ先輩に向けて一斉に飛びかかる。鞭のような尾で散々に打たれ、ボロボロにされるかと思ったが、その前にサオリ先輩の姿が視界から消えた。

 何もないところを鞭が打った時には、サオリ先輩は加藤さんのすぐ側にまで迫っており、次には加藤さんが土管から転がり落ちていた。

 サオリ先輩の構えから拳をふるったことだけは分かったが、それ以外のことは何も分からない。その動きはわたしの目の限界を遥かに超えていた。

 加藤さんは転がりながらも咄嗟に跳躍し、サオリ先輩の追撃から逃れようとする。だが、空中で不自然に硬直したのち、地面に叩きつけられた。その足にはサオリ先輩の包帯が絡みついており、力任せに引きずり落とされたのが見てとれた。

 更に数本の包帯が放たれ、加藤さんの体と尻尾が一気に巻き取られる。そしてミイラのようになった加藤さんに、サオリ先輩は早足で近付いていく。

 その手にはわたしにくれたのと同じお札や魔除け、猫除けが握られていた。

 わたしには加藤さんが追い詰められたように見えるのだが、その顔には余裕が浮かび、猫の怒りも鳴りを潜めていた。

「さあ、これでおしまい」

「いいえ、何も終わっていないわ」

 加藤さんの宣言とともに、全身を拘束している包帯が急速に崩れていく。サオリ先輩の術などものともしていない様子だった。

「手にした魔除けや猫除けにも大した効き目はない。その速さには少しだけ驚いたけど、やはりわたしを制する力など持っていないようね」

 口上を述べている間にも尻尾が一本、拘束から抜け出してサオリ先輩の背中を鋭く打つ。

「そして人の体など脆いもの。これから時間をかけて味わわせてくれる」

 サオリ先輩は鞭打たれたにもかかわらず、全く動じていない。だが、服は大きく避けていたし、そこから覗く包帯には微かに血が滲んでいた。あの包帯は攻防一体で、身を守るため体に巻いているのだろうが、加藤さんの攻撃を完全に防ぐことはできないようだ。

 それなのにサオリ先輩はあっさりと言ってのけた。

「そう……じゃあ、やっぱおしまい」

 サオリ先輩は手にした魔除けや猫除けを投げつける。加藤さんはそれらを尻尾でまとめて弾き飛ばすと、そのままサオリ先輩を打とうとした。

 だがその前に、包帯で再び巻き取られる。サオリ先輩はどこからともなく次々と包帯を出現させ、崩れる端から拘束を立て直し、加藤さんに動く暇を与えないようにしていた。

 そしてサオリ先輩の手には新たな魔除けや猫除けが握られており、手から離れたと思えばまたすぐに現れ、途切れることなく加藤さんに投げつけていく。

 もちろん加藤さんだってされるがままではない。拘束から一時的に逃れた尾がサオリ先輩を打ち、服や包帯が破れ、髪がごっそりと切り裂かれていく。いまやサオリ先輩は服を着ているのではなく、肌に布をくっつけているような状態だった。

 それほどまでの姿になってもサオリ先輩は微塵も揺らぐことなく、魔除けや猫除けを投げ続ける。最初は余裕でいなしていた加藤さんが徐々に焦り出し、苦痛に声を荒げ、攻撃も徐々に精彩を欠いていく。

 サオリ先輩も血飛沫を散らし、地面が徐々にどす黒く染まっていく。目を背けたくなるような根比べだったが、それからまもなく勝負の行く末がはっきりとしてきた。尾の動きが目に見えて悪くなり、一本また一本と力尽き始めたのだ。地面に落ちた尾は水を求めるミミズのようにもがき苦しみ、加藤さんの憎悪に満ちた声も徐々に弱まっていく。

「くそっ、なんで、こんな……」

 悔しさに満ちた呟きとともに最後の尾が力尽き、加藤さんは自分の身から出る煙を吸い込んだせいか激しく咳き込んだ。

 顔は所々火傷で腫れ上がり、その美貌に強く陰をさしていた。包帯の内側からもうもうと立ち込める煙からして、全身に酷い火傷を負っているのだろう。

 サオリ先輩もボロボロになっており、下着姿と思うくらいに服が破れていたが、すぐに包帯で全身を巻き、傷と肌を上手く隠す。白い布地に血が滲む姿は痛々しいが、サオリ先輩はそんなことをものともしていない様子だった。

「さて、最後の一仕事をするから目と耳を塞いだほうが良いかも。少し残酷なことするから」

 そう言うとサオリ先輩は虫の息となった加藤さんをうつ伏せにし、腰の上辺りから生えている尻尾の根元を強く掴む。何をされるか察したらしく、加藤さんは恐怖に顔を強張らせた。

「やめて、お願い! それだけは許して!」

 加藤さんはなんとか逃れようと身をくねらせるが、包帯に巻き取られた体でサオリ先輩の拘束から逃れることはできなかった。

「あなたがかつて傷つけたものは、同じようなことを口にしたはず。それを許してあげたの? ただの一度でも?」

 加藤さんは涙を溢しながら何度も頷く。わたしには真に迫る態度に思えたが、サオリ先輩は無表情のまま深く嘆息し、まるで雑草を抜くように無造作な動きで加藤さんの尻尾を思い切り引っこ抜いた。

 目と耳を塞いだほうが良いという助言は聞いておくべきだった。わたしの目はおぞましい表情を、わたしの耳は全身を貫くような悲鳴を聞いてしまったから。

 加藤さんは散々に苦しみのたうちまわったのち、猫に姿を変えてみゃあみゃあと哀れな鳴き声をあげ、やがてくたりと力尽きた。

 その直後、荒々しげな声が空地に響き渡る。最初は加藤さんの断末魔かと思ったが、すぐにそうではないことが分かった。

 サオリ先輩の周囲にいつの間にか五匹の猫が出現しており、加藤さんの方を向いて繰り返し鳴いていた。そのうちの一匹はわたしをここまで案内してきた猫で、だから加藤さんに関係があるとは思うのだが、どういった存在なのかまでは分からなかった。

 五匹の猫は思う存分に鳴いたのち、加藤さんだった猫を取り囲むと、まるで餅つきのように尻尾で打ちすえ始めた。びたんびたんびたんと、響く音には容赦がなく、加藤さんを心底から恨んでいることが伝わってくる。

 だが、五匹の攻撃はすぐに止まった。サオリ先輩が包帯をふるい、猫たちを牽制したからだ。五匹は揃ってサオリ先輩を睨みつけたが、その手に握られた魔除けや猫除けを見て、乱暴そうな反社を目にした時のように俯いてしまった。

 そんな五匹にサオリ先輩は優しく微笑みかける。

「恨みを残せば現世も来世もただ貧しくなるばかり。あの悪鬼よりようやく開放されたのだから遺恨を捨て、来世を善きものにするため、仏と成ることをお勧めする」

 五匹のうち四匹は項垂れたままだった。残りの一匹が顔を上げ、なおも憎悪をぶつけようとしたが、振り上げられた尾は加藤さんの鼻先を打つだけで、傷つけることはなかった。

 その様子を見て、サオリ先輩は満足そうに頷く。

「来世はきっと稼ぎの良い人間に寄生して、一生ぬくぬく暮らせるはず」

 身も蓋もない一言をかけると五匹は揃ってにゃあと鳴き、すうっと消えていった。サオリ先輩は猫たちを見守ったのち真顔に戻ると黒い袋をどこからともなく取り出し、先程ちぎり取った尻尾と、それからぐったりした加藤さんをその中に放り込む。

「これで全部終わったけど、どう? 立てる?」

 サオリ先輩は袋を背負ったままこちらを向き、わたしは思わず手で目を覆う。ほとんど包帯だけで肌を隠しているから全身のラインがくっきりと浮かび、血に濡れていることも相まってとても艶かしく見えたからだ。

「そんな姿で往来を歩くのはまずくないですか?」

 聞きたいことも知りたいことも山ほどあったが、いま一番気にするべきことはサオリ先輩の破廉恥な姿だと思った。

 サオリ先輩は黒い袋を乱暴に置くと、学校指定のジャージを、それからどこにでもありそうな白のショーツとタオルを続けて出現させる。

「いくら汚しても良いから」

 サオリ先輩はわたしに下着とタオルを手渡してから、あっという間にジャージを着込むとわたしに背を向ける。

 自分には無頓着だけど、他人には配慮できる人らしい。こういう所も大人びてるなと思いながら、なるべく肌に触れないようにして濡れたショーツを脱ぎ、股の汚れをしっかり拭いてから新しいショーツを身につける。それだけで人としての尊厳が少しだけ取り戻せた気がした。

 何度か深呼吸してから足に力を入れると、まだ少し脱力感はあるものの、なんとか立ち上がることができた。一歩進んでみても僅かに震えるだけで、急な運動を促されない限りは問題なさそうだ。

「一人で歩けそうです」

「助かる。実は結構、余裕がない」

 怪我をしているなりに余裕はあるのかなと思ったが、そうでもないらしい。いや、普通はあれだけ鞭で打たれて血を流せば、立っていることすらできないし、わたしならばまず間違いなく死んでいただろう。

「聞きたいことは山ほどあると思うけど、話すこともできない。こいつを猫の警察に突き出して、事情を説明する必要があるから」

「それは、お疲れ様です……いや、その、わたしに手伝えることってあったりします?」

 窮地を救ってもらっただけでなく、その後の世話まで焼いてもらって、ありがとうございますで終わらせることなんてできるはずもないのだが、サオリ先輩は首を横に振った。

「大丈夫、あなたは家に帰って、ゆっくり休めば良い。今日のことはあまり気にせず、美味しいものを食べてゆっくり寝ること」

「でも、大怪我を負ってまで助けてくれて、それにわたし、お礼もろくにできなくて」

「見返りのために助けたわけじゃない……と言っても気が済まないなら、一つだけお願いしてもいい?」

「はい、わたしにできることでしたらなんでも言ってください!」

 意気込んで言うと、サオリ先輩はスマホを操作し、画面をそっと差し出す。どんなものを見せられるのかと思ったが、映っているのは胸焼けしそうな特盛のパフェだった。

「このメニューなんだけど二人連れから注文可能で、一人で食べられると言っても出してもらえなかった。付き合って」

 わたしは目をぱちくりさせたのち、慌てて何度も頷く。そういえば文芸部の部室でもお菓子を遠慮なく食べていたし、どうやら超がつくほどの甘党らしい。

「詳しい事情もそのとき話す。今週の土日は空いてる?」

「はい、特に予定はありません」

「土曜日の十五時に、店の前で。これ以外も全体的に重めなメニューばかりだから、お昼は軽めにしといたほうがいい」

 サオリ先輩はスマホをしまい、袋を背負うと空いた手を差し出してくる。

「ここは迷子になりやすいところだから」

 子供の手を引く親のような態度で、そんなことしなくても大丈夫だと言いたかったが、素直に従うことにした。、

 わたしを安心させてくれるものが欲しかったし、もしかしたらずっと求めてきたものを得られると思ったから。

 でも、サオリ先輩の手を握り、その姿と匂いを間近で感じても期待したようなときめきは生まれなかった。

 危機を救ってくれたミステリアスな先輩は、恋に落ちるのにうってつけと思ったのだけれど。

 わたしは照れを隠すようにへらへらと笑い、サオリ先輩は表情を変えずに歩き始める。

 半ば引きずられるようにして、わたしは異界と怪物からの生還を果たしたのだった。

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