第12話
昼休憩が終わっても加藤さんと久保さんは戻ってこなかった。いま戻って来られても何を話したら良いか分からないのでほっとした反面、音沙汰がないのは不安で、スマホをノートに挟んで授業中にこっそり確認していたけど、二人からのメッセージはなく。
五時間目が終わると少しして、担任がわたしを訪ねてきた。
「加藤さんと久保さんがどこに行ったか知らないかしら?」
「いえ、連絡とか全然なくて。先生も何も聞いてないんですか?」
「ええ。二人とも無断で早退するような子じゃないから心配になって」
加藤さんがいないのは正体がバレて行方を眩ましたと考えられるけど、久保さんはどうして姿を見せないのだろうか。
「草那さんのほうで何か分かったら、知らせてもらえると助かるわ」
六時間目の授業は上の空でほとんど頭に入って来ず、帰りのホームルームが終わってもしばらくは席を立つことができなかった。ここで待っていれば二人が戻ってくるかもしれないと、少しだけ期待していたからだ。
でも、いくら待っても二人は現れず、わたしは躊躇いがちに教室を出る。これ以上待っていたら帰宅が夕暮れ時になってしまう。三人で映画を観に行った日、周囲の音を消すような気配はちょうどその時分に姿を現した。あれが猫だとしたら、下校をこれ以上遅らせるわけにはいかない。
職員室に顔を出し、担任に何もなかったことを報告したら感謝の言葉と、それから気をつけて帰るようにと言われた。生徒の手前、担任は平然を装っていたが、心労による疲れは隠しきれていなかった。
運動部の喧騒を聞きながら校門をくぐるといつもの道を歩き、駅に向かう。スマホに通知があったのは駅に着く少し前だった。
《今から二人きりで会えないかしら》
加藤さんのメッセージはあまりにも露骨で、希望の糸がぷつんと切れた気がした。
《明日、学校でじゃ駄目なの?》
《それだと手遅れになるのよね》
《手遅れって、どういうこと?》
《分かってるくせに》
それに答えることなく、サオリ先輩に連絡をつけようとした。加藤さんからの接触を知らせようとしたからだが。
「ダメよ、そんなことしちゃ」
その前に聞き慣れた声がわたしを咎める。肩への重みはそのあとに訪れ、声をしたほうに目を向けると猫の姿が見えた。
「そんなことしたら残念なことが起きちゃうよ」
猫はその脚をわたしの頬に押しつける。柔らかい感触に混じり、鋭く固い爪がぐいぐいと押しつけられ、思わず手で払ったが、寸前で肩の重みがふっと消えた。
毛並みの良い上品そうな猫がわたしの目の前に着地し、こちらを向く。普通の猫なら決して浮かべないような厭らしいニヤニヤ顔だった。
「だからね、わたしのお願いを聞いて頂戴」
猫はわたしの反応をじっと待っている。このままついていけば間違いなく罠が待っており、でも行かなければ残念なことが起きる。明言はしていないが、おそらくは久保さんを酷い目に遭わせるつもりなのだ。
加藤さんは人気のないところまでわたしを誘導し、攫ってしまうつもりだろう。サオリ先輩が救いの手を差し伸べてくれたのに、このままでは全てが無駄になる。
それでもわたしは久保さんを見捨てることはできなかった。
「分かった、二人きりで会ってあげる」
「良い子ね。では、ついてきて頂戴」
猫はわたしに背を向け、悠々と歩き始める。サオリ先輩にもらったお札を投げつけてやろうかとも思ったが、ぐっと我慢した。あの猫が加藤さんではなく単なる使い魔だったとしたら、貴重なアイテムを無駄遣いすることになるからだ。
わたしと猫は駅を通り過ぎ、それから十分近く歩いたが、あっちへ行ったりこっちに逸れたりと安定しない足取りで、しかも途中からは塀の上に飛び乗り、人にはできないショートカットを次々と決めるから早足で追いかけなければいけなかった。
「ねえ、思い出してくれた?」
僅かに息を切らしていると、ずっと黙りを決めていた猫が急に話しかけてくる。
「思い出すって、何か覚えてないといけないことがあるの?」
腹立ち紛れに訊ねたがにゃんと猫らしく鳴いただけで、再び塀の上を進んでいく。猫の誘導に従い、狭い路地を交えながら歩いていくうち、ふっと景色が古くなった。人の姿が見えなくなり、周囲からは音が消え失せ、猫の歩くひたひたという足音だけが耳につく。
かつてわたしの前に姿を現そうとしたのはやはり猫だったのだ。帰り道でわたしをさらい、この場所にわたしを連れ去ろうとしたけど、寸前で思い留まった。
その後ろを更にサオリ先輩がつけていたからだろう。でも、今はその頼りになる先輩はいない。猫もその確信があるからこそ、わたしをここに連れてきたに違いない。
辺りから徐々に色が失せ、息苦しさを感じ始めたとき、猫が突如として塀から下り、未舗装の道を駆けていく。わたしは足がもつれそうになるのを堪え、曲がり角の奥に消えていった猫を慌てて追いかける。
角を曲がると猫は次の角に素早く姿を消し、次の角を曲がると猫は更に次の角を曲がる。誘われていると分かっていたが、ここで歩みを止めるわけにはいかなかった。
追いかけっこは十分ほど続き、わたしはようやくゴールに辿り着く。古びた土管の置かれた空き地で猫……いや、加藤さんはわたしを待ち受けていた。
土管の上に座る彼女は、わたしが姿を見せると粘ついた笑みを浮かべる。指を交差させるように手を合わせ、行儀悪く足を組む仕草はデザインが古くお固い制服を身に着けていてなお、品のなさを感じさせるものだった。
これが加藤さんの本性、ということなのだろうか。
「よく来てくれたわね、嬉しい」
そんなことをさらりと口にする加藤さんに、わたしは呆れるほかなかった。
「加藤さんのためじゃない。久保さんのためだよ」
「ふうん、あいつに助ける価値があるとは思わないけど」
久保さんのことを語る加藤さんの口ぶりは実に冷たく、侮蔑に満ちていた。
「助けるよ、だって友達だもん」
そう言って意気込むわたしを加藤さんはケラケラと笑い飛ばす。何がそんなにおかしいのか、わたしにはちっとも分からなかった。
「そういうところが本当に可愛くて素敵。純粋無垢で、魂がつるりとしている。他には代え難い極上の、わたしだけのもの」
加藤さんはねっとりとした舌なめずりをすると、熱っぽい視線を注いでくる。瞳孔が人とは思えないほどに細まっており、その本性が否応なく垣間見えた。
「ねえ、わたしを愛して。わたしだけを見て。他のものには目もくれないで欲しいの。あなたの全てをわたしに頂戴」
「ごめん、加藤さんのことは好きだけど、あくまでも仲の良い友達としてなの。でもさ、もし恋人同士になったとしても、わたしの全部はあげられないよ」
「どうして? 愛し合うというのは互いの全てを捧げ合うことでしょう?」
加藤さんは無邪気な問いを投げかけてくる。
「わたしの全てを草那さんにあげる。だから草那さんを全部頂戴」
「できないよ、そんなの」
「それなら、できるようにしてあげる」
加藤さんの方から何かが飛んできて、わたしの体に柔らかいものが絡みついていく。全身の自由がきかなくなってようやく、それが加藤さんの体から伸びてきた尻尾なのだと分かった。
「やだ、やめて」
「やめないし、わたしはまだ何もやってない。これから始まるのよ」
きつく縛られている感じは全くないのに、いくらもがいても抜け出せない。映画館で加藤さんに手を握られたときもこれと同じだった。
だから、これからされるのはあの時と同じことなのだ。
加藤さんの二本目の尻尾がするすると近づき、首筋をそっとなぞる。それだけで体がぞくりと震え、わたしは思わず荒い息をついた。
「どう、良いでしょう? 草那さんの体がどう感じるのか、こっそりと調べてたの」
惚けた笑みから発せられる言葉を気持ち悪いと心の底から思った。なのに加藤さんの尻尾がわたしを撫でるたび、背筋が震える。息が早く、熱くなる。心を体が裏切っていて、その情けなさに涙が零れそうだった。
「すぐに嫌じゃなくなる。わたしを求めたくてたまらなくなる。とてもとても素敵でしょ?」
「やめて、こんなのおかしい……間違ってる!」
尻尾の感触に負けないよう声を荒げると、加藤さんは僅かに目を細める。
「前にも言ったことがあると思うけど、わたしはやりたいと思ったことしかやらないの。むしろ今まで我慢して、友達ごっこに付き合ったのを褒めて欲しいんだけど」
傲慢で人でなしな態度に、怒りで頭が湧きそうだった。加藤さんはそんなわたしを無視して尻尾で撫で続けるけど、さっきまでよりは感じなくなっていたし、加藤さんの顔には少しずつ苦痛が浮かび始めていた。
「草那さん、わたしを拒まないで。受け入れて、気持ち良くなれば良いの」
「嫌だ、絶対に受け入れるもんか!」
気迫を込めて叫ぶと焦げ臭さが鼻をつき、わたしを絡め取っていた尻尾が引っ込んでいく。さっきまで余裕に溢れていた加藤さんの顔が強張り、二本の尻尾が痛みに悶えるようにして空中でのたくっていた。
「草那さん、鞄の中に入ってる忌々しいものを捨ててくれないかしら」
加藤さんはサオリ先輩が持たせてくれた魔除けや猫除けを恐れているらしい。先程まで全く効果がなかったのにいきなり効き出したのは、わたしが加藤さんを害のある相手だと認めたからだろうか。
「バカな女の戯言に耳を貸す必要なんてないの。草那さんなら分かるでしょ?」
わたしはその問いかけに答えず、黙って睨み返す。加藤さんは僅かに苛立ちを見せたけど、次には見下すような笑みを浮かべた。
「ああ、そっか。人間って先輩の言うことには従わないといけないんだよね。どんな嘘でもバカらしいことでも」
加藤さんを受け入れないのはわたしに非があるのだと、あくまでも主張しようとしていて目が眩みそうだった。
話せば話すほどに稚拙や幼稚さがどんどんと浮き彫りになっていく。加藤さんのことを、大人びた落ち着きのある人だと少しでも考えたわたしが馬鹿みたいだった。
「先輩なんて言うけど、たかだか一年か二年を余分に生きてるだけでしょ。偉くもなんともないと思うけど」
「先輩の言うことを聞いてるんじゃない、加藤さんが信頼できないの」
「では、どうすればわたしを信頼してくれるの?」
「久保さんに酷いことしないと約束してくれるなら、少しは信頼しても良いよ」
「あはっ、そんなことで良いわけ?」
加藤さんはわたしを軽くあざ笑う。好きだと、受け入れて欲しいと願う相手に浮かべる表情ではなかった。
「わたしにとっては大事なことなの」
「分かった、約束してあげる。その代わり、鞄の中に入ってる忌々しいものを捨てて頂戴」
わたしは少し考えてから、魔除けと猫除けを地面に放り投げる。
「こっちは約束を守ったよ、久保さんを解放して」
「解放? 何の話をしてるの?」
言うことを聞いたのに、加藤さんはわざとらしく鼻を鳴らす。
「わたしは久保さんをさらったりしてないわ」
「嘘、だって……」
加藤さんに従わないと、久保さんが酷い目に遭うと仄めかしてきたし、久保さんは昼休みが終わっても教室に戻ってこなかった。だから加藤さんにさらわれたと考えたし、他に可能性を思い浮かばなかった。
「名前を利用させてもらったのは確かだけど、彼女には何もしてないの」
「じゃあ、久保さんはいまどこにいるの?」
「彼女の居場所には興味ないけど、そうね……どこか誰も来ない場所に身を隠してるんじゃない?」
「身を隠すって、どうしてそんなことするの?」
「嘘をついたのがバレたと思ったから」
「久保さんがどんな嘘をつくって……」
適当なことを言って誤魔化そうとしないで、久保さんを解放して。
加藤さんを責める言葉がわたしの口から出てくることはなかった。
何を言いたいのか、理解できてしまったから。
「わたしのせいで加藤さんが朝練に参加できないと、久保さんは先輩たちに嘘をついてたの?」
震える声で訊ねると加藤さんは手を叩く。ようやく正解が分かった子供を褒める大人のような態度だった。
「そうよ、草那さんは我侭な子だと吹き込んでたし、先輩たちはあっさり信じたの」
わたしは久保さんのことを友達だと思っていたし、久保さんも同じ気持ちなのだと信じていた。でも、本当はそうじゃなく、わたしは邪魔者で、どうにか排除したいと密かに考えていたということなのか。
「わたしはあの二人を操ったわけじゃない。やりたいことをしたくなるように仕向けただけ」
違う、加藤さんが操ったんだ。久保さんは友達で、わたしと違って良い子で、先輩を騙したりはしない。
そう返してやりたかったのに、わたしはまたしても何も言うことができなかった。
「草那さんを傷つけることになったのは本当に悪いと思ってるし、あの二人には責任を取らせるつもりだったけど、あの女に先を越されちゃった」
加藤さんは空中に浮いていた尻尾をふるい、地面に落ちた魔除けに叩きつける。ぼろぼろに引き裂かれた魔除けを見て、わたしでは万が一にも加藤さんには敵わないのだと思い知らされた。
「しつこく邪魔されたけど、それも今日でおしまい。猫の国で融通のきかない役人を相手にしている間に、わたしの愛は草那さんを包み込むの」
加藤さんの尻尾は身悶えるようにぐねぐねと蠢き、頬の紅潮とともに激しい欲情を突きつけてくる。
「一分一秒たりとも、わたしを求めないでは耐えられない体にしてあげる」
加藤さんの尻尾はわたしを再び縛り上げ……けどすぐに離れていく。白い煙が僅かにあがり、焦げ臭さが再び周囲に広がっていく。
加藤さんのことを信頼せず、魔除けや猫除けを全て捨てなかったのは正解だった。わたしは素早く踵を返し、ここから逃げだすつもりだった。
だが、わたしの足は素早く絡み取られ、思い切り転んでしまった。痛みに苦しみながらも魔除けや猫除けの入っている鞄だけは死守しようとしっかり抱え込んだが、尻尾はわたしの非力な腕力などあっさりとはねのけ、強引に引き剥がされる。
肉の焼ける臭いと煙の奥で、加藤さんが苦悶と怒りの表情を浮かべているのが僅かに見えた。両目は夜の猫みたくらんらんと光り、鋭い刃と牙を剥き出しにし、唇はまるで都市伝説に出てくる口裂け女のようにぱっくりと広がり、彼女が人外であることをありありと示していた。
煙がすっかり晴れた頃には加藤さんの顔に戻っており、その表情に怒りや苦痛はなく、むしろ艶然と笑み、尻尾は羽根を広げるように大きく開いている。
合計七本の尻尾を持つ、猫の怪物。
それこそが加藤メグミの正体だった。
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