第10話

 ゴールデンウィークも終わり、わたしは僅かな不安を抱えたまま家を出て学校に向かう。加藤さんには上手く話せたと思うけど、あの日と同じように気安く手を繋ぎ、体を寄せてきたら今度こそ許すつもりはなかった。

 加藤さんはいつもの待ち合わせ場所で、いつもと違う表情を浮かべていた。俯きがちで、顔には強い不安が浮かんでおり、わたしが隣に来てもずっとぼんやりしていた。いつもなら堂々と顔をあげ、楽しそうな表情を浮かべ、わたしの姿を見つけると手を振ってくれたのに。

 わたしが加藤さんに憂いを与えてしまったのだろうか。

 そんなことを思いながら肩をそっと指で叩く。加藤さんは体を震わせ、わたしだと分かって小さな息をつく。挨拶をしても乾いた笑みを浮かべるだけで、どうにも精細を欠いていた。

 思わず謝ってしまいそうになるけど、わたしから譲歩して元の木阿弥になるのが嫌で、黙って歩くしかない。加藤さんはわたしの隣に立ったが、手を繋ぐことはなかった。

「ゴールデンウィーク明けってだるいよね。もっと休みが長ければ良いのに」

 社交辞令のようなことを口にすると、加藤さんは微かな笑みを浮かべる。

「でも、友達と会えるから悪いことばかりでもないと思う」

 そうだねと肯き、それからはギクシャクする前の、朝の会話だった。もう大丈夫なのだと思いながら通学路を二人で歩き、一緒に校門をくぐる。

 校舎に続くまでの道でふと視線を感じ、辺りを見回す。わたしを付け回している何者かが再び存在を主張したのかと思ったが、あのときみたいな異質さは感じなかった。

「どうしたの、きょろきょろして」

「いや、誰かが見てたような気が……」

 誰もいないなと思い、前を向こうとしたところで木陰から離れていく人影が見えた。誰かまでは分からなかったけど、何者かが潜んでいたことは間違いなさそうだ。あるいはたまたまそう見えただけだろうか。

 どちらにしろ教室に入った途端、それは些細なことになった。

 久保さんはわたしと加藤さんが入ってくるのを見ると深く俯き、おはようと声をかけても何も返してくれなかった。そして加藤さんはといえば、久保さんに挨拶することなく席に着く。二人の間に何かがあったと一目で分かるような他人行儀さだった。

《加藤さんと何かあったの?》

 朝礼前に送ったメッセージに返事があったのは二時間目が終わっての休憩時間だった。

《先輩たちが、加藤さんにも朝練に出るようにって言ったの。それを断っちゃって》

 三人で遊びに行った次の日にバレー部の練習があることは知っていた。久保さんが律儀に連絡してくれたからだ。

 そこで朝練の話になり、揉め事になったというのは納得のいく話だった。

《強制じゃないけど、朝練に出ないならレギュラーにはなれない。それが昔からの決まりなんだって》

 逆に言えば加藤さんがレギュラーになれる実力を持っているということだ。それを活かせないのは勿体ないし、加藤さんのためにもならない。

《分かった、わたしからも話してみる》

 久保さんから両手を合わせる絵文字が、少し遅れてメッセージが送られてきた。

《でも、良いの? 一緒に登校するのを邪魔するみたいになって》

 別にどっちでも良いと返しかけ、慌てて消す。朝、二人で登校するのは加藤さんからの提案であると久保さんに気づかれそうだったから。

《朝がダメなら放課後にする。ちょっとだけ気になってた部活もあったし》

《それって文芸部のこと?》

《うん。部長も部員も良い人そうだったし》

 文芸部ならパソコンを使いこなせる人もいそうだし、配信用の台本作成も協力してくれるかもしれない。アバターを使った配信をしていると打ち明ける必要はあるけど、茶化したり悪戯を仕掛けたりするようなことはないと信じたい。

 信じたいけど、わたしのネット生活を荒らして回るAlexの存在がどうしても脳裏をちらつく。実名では弁えられる人が匿名になると豹変する可能性を、今のわたしはどうしても捨てきれない。

 だから台本の件は演劇趣味で誤魔化すことにしようと決めた。

《三人で一緒に帰れるんだったら楽しみだけど、無理してない?》

 部活に入れば配信趣味を突き詰める時間は減るかもしれない。でも、わたしのせいで加藤さんと久保さんの仲が悪くなるとしたら、学校で過ごす時間が気まずいものになる。それに文芸部はわたしにとって悪い場所ではないと思う。

《わたしははっきりとものを言うほうだし、やりたくないことはやらないよ》

《なら、良いんだけど》

 まるで加藤さんみたいな物言いだけど、久保さんが納得してくれたので良しとすることにした。

 わたしは久保さんにどんとこいのスタンプを送り、そして三時間目が終わると加藤さんにメッセージを送る。

《朝練、参加したほうが良いよ。一緒に帰るのは放課後でもできるし》

《草那さんは部活に入ってないんでしょ? 終わるまで待たせるのは悪いって》

《それなら大丈夫。わたし、文芸部に入ることにしたから》

《でも、草那さんにはやりたいことがあるのよね? 部活に入って、そのための時間が減るのは良くないと思う》

《元々興味のある部活だったし、それに友達のためだから》

 最後のメッセージに、加藤さんからの返信はなかった。そのまま四時間目が始まり、上の空気味の授業が緩やかに過ぎていった。

 昼休みにじっくりと事情を訊きたかったのに、加藤さんは授業が終わると同時に教室から出て行く。追いかけようかと迷っていたら、久保さんに声をかけられた。

「今日はバレー部の先輩に呼ばれてて」

 浮かない顔をしているのは、加藤さんの態度に関係しているんだろうか。

「加藤さんも連れて来るように言われてたんだけど、避けられちゃった」

 教室から慌てて出て行った理由が今更ながらに分かった。久保さんやバレー部の先輩から逃げ出したのだ。

「その、なんて言ったら良いのか……」

「心配してくれるだけで嬉しいよ。大丈夫、休憩が終わるまでには戻って来る。先輩たちも鬼や悪魔じゃないし、きちんと話せばきっと分かってくれる」

 分かってくれないからこそ話が拗れているのではと思ったが、それだと久保さんの先輩たちを悪く言うことになる。だから、黙って後ろ姿を見送るしかなかった。

 一人になったところで弁当を取り出し、一口目に箸をつけようとしたところで、クラスの女子が話しかけてきた。

「草那さんに用事があるって人が来てるよ」

 思い当たる節もなく教室の入口に目を向けると、見たことのない人がいた。でも、素性の見当はなんとなくつく。遠目からでも長身であることがよく分かるし、久保さんと同じような日の焼け方をしていたから。

 あの人はきっと女子バレー部の人で、だとしたら加藤さんや久保さんを迎えにきたのだろうか。でも、わたしに用事があると言っていた。

 ここに来た理由が分からなかったけど、ずっと待たせておくわけにはいかない。わたしは弁当をしまい、訪問者に近付いたのだが、彼女は何も言わずに背を向け、廊下を歩いていく。

 待ってと声をかける猶予もなく、わたしは慌ててその人の後を追いかけていた。

「すみません、わたしに用事って?」

 息を切らしながらようやくそれだけ口にできたが、振り向く素振りすら見せない。その人は階段を下り、校舎を出て中庭のほうに進んでいく。相変わらず足取りは急いていて、見失わないようについていくのがやっとだった。

 と思いきや、足を止めてこちらを向く。どんな表情をしているのかと近寄れば、生気が抜けたとしか言いようのない感情のなさで、何を考えているのかがまるで分からなかった。

 相手の様子をうかがっていると背後から足音が聞こえ、慌てて振り返る。こちらも日焼けした背の高い女の人で、全く同じ表情をしていた。

 ここでようやく人気のない場所に誘導されたのだと気付いたが、二人は退路を塞ぐように立っており、逃げ出すことはできそうにない。

 二人は無言で迫り、わたしは校舎の壁に追いやられる。ここに至ってなお声を発さず、表情もないままで、その不気味さに呑まれたせいか声が出てこない。

 咄嗟に叫ぶことは難しいと言うけど、まさか実感させられるとは思わなかったし、自分の迂闊さを呪わずにはいられなかった。加藤さんのように少しでも変だと思ったら深入りをせず、安全圏に逃れるべきだった。

 なんとか逃れる手段を考えていると、教室を訪ねてきたほうの人が唐突に口を開く。

「あのさ、どういうつもりなの?」

 ぼそぼそとした、それでいて棘のあることがはっきりと伝わる声だった。

 何を言いたいか理解できず、恐怖も相まって口を噤んだままでいると、肩を軽く手で押された。

「どういうつもりかって、訊いてるんだけど?」

 無表情のままで凄まれ、思わず「ひっ」と声が漏れる。それでようやく声の出し方を思い出すことができた。

「すみません、何を言いたいかが分かりません」

「分からないわけないだろ、久保と加藤のことだよ。二人に迷惑をかけてるだろ?」

「迷惑……なんてかけてません。部活のことなら朝練に出るように勧めたくらいですし」

「嘘つけ、久保が言ってたんだよ。加藤の友達がわがままを言って、朝練に出られないようにしてるって」

 その話を信じているのだとしたら二人が憤るのも理解できる。でも、そんな事実はない。ちゃんと説明したはずなのに、どうして久保さんはそんな嘘をつくんだろう。

 友達だと言ってくれたのは嘘だったのか。わたしのことをずっと疎ましく思っていて、部の先輩に嘘を吹き込んだのだろうか。

「加藤さんもそうだと言ったんですか?」

「いや、否定したよ。でも、久保が嘘をつくはずがない。中学の頃からの付き合いだけど、嘘をつけるような性格じゃないから」

 だとしたら、わたしがわがままを言っているなんて嘘をつくこともないはずだ。

「でも、わたしだって嘘はついてません。メッセージの履歴を見れば分かります」

 わたしはスマホを取り出し、勢いよく差し出す。二人は困惑の色とともに受け取ろうとしたが、すぐに引っ込めてからわたしの肩を先程より強く押した。

「そんなの見なくてもいいよ。嘘をついてるのがそっちだってことは分かってるから」

 困惑は消え失せ、わたしの顔にじっと視線を注ぐ。弁解の機会すら許さず、罪と叱責だけを押しつけ、わたしが悪いのだと決めつけてくる。

 ネットでわたしを悩ませるAlexの仕草によく似ていた。二人はわたしをじっと見ているが、わたしの顔ではなく、その先にある罪や悪意だけを見ている。

 だからわたしも二人を見ず、ネットでやるように言葉だけを投げつけてやることにした。

「わたしが全部悪いとして、どうするんですか? 加藤さんが朝練に出るよう説得すると約束すれば満足してくれるんですか?」

 勢い任せでまくし立てると、二人は再び困惑の表情を浮かべる。いちいち惑うなら、最初から因縁なんてつけなければいいのに。

「謝れというならいくらでも謝ります。お望みなら地面に頭を擦りつけて、何度でも許しを請いますよ」

 土下座で許してくれるなら安いものだ。ここにはわたしたちの他に誰もいないから、恥をかくこともない。

「そういう問題じゃないんだよ!」

 後から来たほうがいきなり声を荒げ、わたしの体を強く押して校舎に叩きつける。憎悪が顔に滲んでおり、とても人間のものとは思えなかった。

「久保が困ってるんだよ」

「だからお前は悪いやつなんだ」

 話が全然通じない。そもそも会話をしようという意志を全く感じられない。奥に引っ込んだはずの恐怖が痛みとともに蘇り、思わず悲鳴をあげそうになるが、その前に口を塞がれてしまった。

 息が苦しい。頭に血が昇る。部活の方針についての軽い諍いであるとたかを括っていたが、この人たちはわたしを殺してしまうのではないか。

 噛みつこうとしたが、歯を剥き出せない。それならばと舌を出し、口を塞ぐ手を思い切り舐める。予期せぬ感触だったのか、力が緩んだので素早く振りほどき、囲いを抜けようとする。

 けど、すぐに追いつかれて服を掴まれる。助けて、と声をあげたけど自分でも信じられないほどにか細く掠れていて、誰かに届くとはとても思えなかった。

 なんとか逃れようとしてじたばたもがいていると、服を掴んでいた力がいきなり消える。たたらを踏みながら体勢を立て直そうとして、一瞬だけ先輩たちのほうに視線が向いた。

 二人しかいないはずの場所に、いつの間にか三人目が立っていた。その人はかつてわたしに色々と警告し、謎のお札をくれた少女で、先輩たちをきつく睨みつけている。

「臭い」

 彼女はそう言うと先輩の一人に手を当て、胸の下をぐっと押し込む。一瞬、信じられないくらいに体がへこみ、その先輩は地面に蹲って盛大に吐いた。

 白く粘ついた液体に球のようなものが混ざっており、それは毛を集めてくしゃくしゃに丸めたようなものに見える。

 もう一人の先輩は慌てて逃げようとしたが、謎の少女は腕から太い糸のようなものを放ち、足を絡め取って転ばせると、素早く駆け寄って鳩尾に掌をぐいと押し込む。嘔吐物が盛大に吐き出され、その中には球のようなものが混ざっていた。

 これは大変なことになったなと思いながら、わたしは暴力の主である少女の方を向く。

 彼女は嘔吐物まみれの丸い玉を躊躇うことなく指で摘む。その手には包帯が巻かれており、ところどころに赤と紫の紋様が描き込まれている。きっとわたしにくれたお札と同じまじないが込められているのだろう。

「その球ってどういうものなんですか?」

 戸惑いよりも奇妙な現象への興味が勝り、咄嗟に訊ねると少女はジッパー付きの袋に球を収納し、何もないところにしまう。

 鞄なんて持ってないし、女子の制服にポケットはついていない。何もないところにしまったとしか言えない仕草だった。

「見れば分かると思うけど、毛玉」

 黙々と作業しているので答えてくれないのかと思っていたら、少女はぼそりと呟いた。

「毛玉って、なんでそんなものが胃の中から出てくるんですか?」

 猫でもあるまいに……そう続けようとして、わたしはあることに気付く。

「これ、猫の仕業なんですか?」

「そう」

 突拍子のない発言を少女はあっさり肯定してから、手に巻いた包帯を外す。それは元の状態の記憶を持っているかのようにくるりと巻き取られ、虚空にしまわれた。

 そうしてわたしに遠慮無く近づき、以前と同じように臭いを嗅ぐ。

「いよいよ猫臭い。もしかして一線を越えたとか……いや、違う。臭いのは外側だけか」

 かと思えば訳の分からないことをまくし立てるから、慌てて静止をかけるほかなかった。

「ちょっと待ってください。言葉の洪水をワッと一気に浴びせかけられても困ります」

「猫の仕業だと分かってるなら説明は要らないと思ってた。一から話したほうがいい?」

「是非ともに」

 前のめりの姿勢で肯定すると、少女はふむんと頷いてみせた。

「場所を変える。ここは見張られている可能性が高い」

「えっと、ここにいる先輩がたはどうしましょうか?」

「放っておけばそのうち正気に戻る。毛玉に憑かれていたときのことは忘れてしまうから、仕返しに蹴飛ばすなら今のうち」

「そんなことしません」

 少女は何も言わずにさっさと歩き始める。見知らぬ人についていって痛い目に遭ったばかりだけど、わたしのことを助けてくれたし、それにわたしの知りたいことを何でも知っているのではと思わせる雰囲気があった。

 だから迷いと警戒を抱きつつも、後についていくことにした。

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