第9話

《二人は映画に戻って良いよ》

 続けて久保さんにそう伝えると、頭を下げて謝るキャラのスタンプが返ってきたので、ほっと息をつく。心の整理はつきつつあったけど、もう少しだけまとめる時間が欲しかった。

 あんなメッセージを飛ばしたけど、加藤さんのことを本当に許して良いんだろうか。でも、わたしが険悪な態度を取ったら久保さんは戸惑うだろうし、二人の間に何か特別なことがあったのではと勘ぐるかもしれない。

 今日は普通にやり過ごし、帰宅後に改めて加藤さんにことの次第を問い詰める。

 どうしてあんな悪戯をしたの?

 正直なところ、答えを聞きたくなかった。

 自意識過剰かもしれないと思ったけど、あんなことをされてしまったら流石に他の可能性は思いつかなかった。

《映画終わったよ》

《分かった、そっち向かうね》

 久保さんが連絡をくれたので考えるのは一旦やめて、映画館のあるフロアまで戻る。加藤さんの姿を見た時はどきりとしたけど、吐き気や動揺が浮かぶことはなかった。



「体調大丈夫? きついなら今日はもう終わりにするけど」

「休んでたら楽になったよ。実を言うとお腹が減っててさ、早くお昼を食べに行きたいなって」

 わたしはわざとらしくお腹をさする。取り繕うような発言だけど、空腹なのは嘘じゃない。おそらく食べたものを全て吐いたのが原因だろう。

 お昼は映画館と同じ建物に入っているファミレスで食べることにした。わたしと久保さんは料理とデザートを大胆に頼み、加藤さんはドリンクバーだけ注文する。

「まだお腹空いてなかった?」

「お腹が空いてきたら適当に買い食いするつもり。だから気にしないでしっかり食べて頂戴」

 気を遣わせないようにしているのかもしれないが、まるで親のような物言いだった。久保さんは僅かな恥じらいを見せながらも食欲には勝てないらしく、テーブルに運ばれてきた料理にそそくさと手をつけていく。

 そんな久保さんにばれないように、加藤さんがちらちらと視線を送ってくる。わざとわたしにだけ分かるようにしているのだ。

 加藤さんはさっきのことを全く反省していないのかもしれない。そんなことを考えながら飲み食いしたから、どんな味だったかさえぼんやりしてお腹だけ膨れてしまった。

 それからゲームセンターに行ってプリクラを撮り、本や服を見て回ったけど、加藤さんの視線が粘ついて楽しいと思うことができなかった。

 いい加減にして欲しいかったけど、加藤さんはわたしの自意識過剰を指摘するかもしれない。そんなことされたら今度こそわたしは本気で怒ってしまうだろう。

 昨日まではなんてことない普通の関係だったのに、どうしてこうなったんだろう。今日だって本当は、友達同士で楽しい時間を過ごすはずだったのに。

 加藤さんが全部台無しにした。

 苦行みたいな一日が終わり、帰りの電車に乗ると久保さんは楽しかったね、また三人で遊びに行こうねと、明るい調子で話してくれた。加藤さんは澄ました顔で久保さんの言葉に賛同し、わたしはなんとか笑顔を浮かべながら嬉しそうに頷く。

「じゃあ、また学校でね」

 久保さんが電車を下り、わたしと加藤さんに手を振ってくれる。本当に素直で良い子だなあと思いながらその姿を目で追っていると、加藤さんが手を握ってきた。いつもみたいに軽く繋ぐのではなく、指をきつく絡めてくる。

 それだけでなく、体をぴたりと寄せてきた。先程までの笑顔はどこにもなく、厭らしさが顔全体に滲んでいた。

 不快感が背筋を駆け抜け、咄嗟に手を払う。加藤さんはそんなわたしの仕草を可笑しそうに楽しんでいた。

「どういうつもりなの?」

 電車の中だから小声で、けど責めているのが分かるような口調で訊ねる。

 加藤さんはわたしの耳に顔を近付け、そっと囁いた。

「分かってるんでしょ?」

「……なんで、わたしなの?」

 少し間を置いて、質問に質問で返す。加藤さんはくすくすと、耳に障る笑い声を立てた。

「人を好きになるのに、理由がいるの?」

「それは……でも、困るよ。わたし……」

 加藤さんのことをそんな対象として見れない。

「女だから、女の気持ちを受け入れられない?」

「そうじゃない」

 加藤さんが女だからじゃない。恋愛対象として想像してもピンと来なかっただけだ。

「大丈夫よ」

 何が大丈夫なのか分からずに口を噤んでいると、加藤さんはそっと呟いた。

「分かるように、してあげるから」

 加藤さんの唇が一瞬だけ、わたしの耳に当たる。わたしが震え、戸惑うのを見て加藤さんはとても嬉しそうだった。

 油断していたら加藤さんは自分のペースで遠慮なくわたしに触れ、踏み込み、心を絡め取ろうとしてくるに違いない。だから再び繋いできた手を少し乱暴に振り払い、加藤さんを睨みつける。

「ちょっとした冗談じゃない、怒らないでよ」

 また冗談扱いで誤魔化そうとしている。振り返ってみれば、加藤さんは出会ったばかりの頃から冗談という言葉を軽い調子で使っていた。そういうところはユーモアの一部として捉えてたけど、軽はずみに一線を飛び越え、相手の反応を見て答えを変えていただけなのだ。受け入れられればそのまま通し、駄目なら冗談にする。

 わたしみたいな子がそんなことしたら、あっという間に嫌われるだろう。でも、加藤さんはこれまでやって来ることができた。とびきりの美人だから冗談の一語で何となく許されるし、ぐいと押されて流される子も多かっただろう。わたしだって今日までずっと流されてきた。

「なんでも冗談で許されると思わないで。どんな美人でも駄目なものは駄目なの」

 でも今日からは違う。どんなに美貌と雰囲気で流そうとしても聞いてやるものか。

「それとも冗談が分からない、面白くない子は友達と思えない?」

 周りが少しずつざわざわとしてくる。明らかに喧嘩腰な口調なのだから仕方ないが、ここでTPOを弁えて口を噤むわけにはいかなかった。

 わたしが強く出ると、加藤さんの顔から余裕が少しずつ消えていく。

「いいえ、いいえ。モトコは面白くない子じゃないし、これからも仲良くしたい」

 そして必死で訴えてくる。わたしみたいな子が加藤さんみたいな美人に仲良くして欲しいと懇願されるなんて、入学したばかりの頃は考えられなかった。

 といってもそんなことで優越感など覚えるはずもなく、惨めな気持ちが増すばかりで。

「じゃあ、なんでもかんでも冗談で誤魔化すのはやめて欲しいな」

「……分かった、冗談はやめる」

 加藤さんがあまりに神妙だから少し言い過ぎたかもしれないと思えてきたけど、彼女は他人の気持ちを測って自分に有利な方向へ押し切るのに慣れている人だ。ここで半端に譲歩するのは良くないと思い、重々しく頷くだけにした。

 二人してじっと黙っているうちに、わたしの降りる駅が近づいてくる。

「朝、一緒に登校してくれる?」

 加藤さんのか細い声に、わたしは少し迷ってから「うん」と答える。悪質な冗談をやめてくれるならいつも通りであることをやめる必要なんてないと思ったから。

 電車が停まるとわたしは早足で降車し、そのまま一目散に駅を出る。

「やっぱ、大人気なかったかな……」

 そう呟いてから歩き出そうとすると、加藤さんからメッセージが届く。

《今日は本当にごめん》

《これからも、友達でいてくれる?》

《もう、冗談なんて言わないから》

 わたしはオッケーのスタンプを送り、加藤さんからありがとうのスタンプが返ってくる。

 散々な一日だったけど、最後には上手くまとまってくれたと信じたい。

「それにしても、わたしって大概だな」

 同性であるにしても、加藤さんほどの美人に迫られて僅かなときめきさえないなんて。

 どれだけの面食いなんだってことなのか、それともわたしにとって、顔の美醜は恋心と関係ないのか。

 最悪の可能性が浮かぶ。わたしからは恋という感情が欠落しているのではないか。

「いやいや、そんなことないでしょ」

 わざとらしく口にしてみたけれど、疑惑を拭い去ることはできなかった。

 もやもやと悩みごとを弄びながら歩いていると、背後にふと気配を感じた。誰かが後ろを歩いているのかとも思ったが、靴音や衣擦れの音は全くしない。

 音を消して歩いているのだとしたら後ろめたいことを考えている人物の可能性が高い。咄嗟に振り向いてみたが、辺りには人一人いなかった。

 耳を澄ませて音を探ろうとするが、何も聞こえない。足音だけでなく、あらゆる音が消え失せたかのようだった。

 わたしが住んでいる辺りは住宅が多く、自然もそれなりに残っているから常に何らかの音がある。普段は意識せずにやり過ごしているけど、意識すれば何かしら聞き取れるはずなのに。

 それでいて何かがいるという思いが拭えない。ここにはわたし以外の何者かがいる。もしかするとそいつは周囲の音を奪うほどの存在なのかもしれない。

 そんなこと、人間にできるはずない。だとすれば、いるのだろうか。いま、ここに、どれだけ願っても出会えなかった人ならざるものが。

 わたしの後を付け、家のバルコニーにまで上がり込んだ猫がいるという隣の子の話を思い出していた。疑っていたわけではないが、いよいよ確かなことのように思えてきた。

「ねえ、そこにいるんでしょ?」

 だからわたしは何もない場所に向け、そっと呼びかける。人ならざるもの者と分かって声をかけるのは危うい行動だと分かっていたが、千載一遇の好機を逃したくなかった。

 わたしのことを付け回しているならアプローチに答えてくれると思ったが、いつまで経っても返答はなく、そこに何かいるという感覚が徐々に薄れていく。反比例するように周囲の音が取り戻され、わたしは思わず重い息をつく。

 付け回すだけで、その先に進む度胸はなかったのかもしれない。だとしたらわたしはアプローチの手段を間違えたことになるし、今後は気配すら表さないかもしれない。

 ホラーや怪異を趣味としているが、わたしには絶望的に霊感がない。これまで幽霊のゆの字すら感じたことがないし、曰く付きの場所をいくら訪ねても肩こり一つ起こらなかった。こちらから探ることはできず、向こうから出てきてもらうのを待つしかないわけだ。

 いよいよケチのついた一日だと思いながら家に帰り、疲労を覚えてベッドに倒れ込む。

 夕飯まで少し寝ようかなと思っていたら、久保さんからメッセージが届いた。

《今日はありがと、映画もショッピングも本当に楽しかった。草那さんは体調大丈夫?》

《うん、もうすっかり元気。心配かけてごめん、また学校で会おうね》

 久保さんからファイトのスタンプが飛んできて、少しだけ疲れが取れた気がした。

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