第8話

 友達と一緒に学校の外で遊ぶなんて小六のとき以来だ。

 髪型と服装を整えているうちにふとそんなことを考えてしまい、思わず卑屈な笑みがこぼれる。そんなこと、少しでも社交的な人なら信じられないだろう。

 久し振りすぎて髪の乱れや服の皺一つが気になって仕方がないし、母が買ってくれた服に違和感を覚えてしまう。数十分かけてなんとか自分を納得させ、部屋の外に出ると両親が揃って不安そうな視線を向けている。

 何も言わなかったけど、中学のとき一度も友達と外で遊んだことがないのを気にしていたのだろう。だからゴールデンウィークに友達と外で遊ぶという話をしたとき、特に母は酷く慌てていたし、いつもの量販店とは違う店に連れて行かれ、時間をかけて服を選ぶ羽目になった。

 もっと派手めの服を勧めてくる母をなんとか宥め、少しだけ大人びた色とデザインの服を選んだ。それでも、今のわたしには似合っていない気がする。

 あと何年かすれば似合うのかもしれない。だとしたら、体重を増やさないように気をつける必要がある。

 腹の肉を軽くつまみ、部活には入らないにしても、運動や筋トレはやっておこうと決意する。久保さんなら効果的なトレーニング法を知っているだろうし、聞いてみるのも良いかもしれない。

 両親に行ってきますの挨拶をしてから駅前まで出ると、定期に充当して改札をくぐる。電車を待っている間、スマホを鏡代わりにして乱れがないか何度も確認し、映画館のある駅で下りてからも同じことをする。

 学校でいつも会っているのに今日だけ神経質なのはおかしいと分かっているが、どうしても気にしてしまう。昔の記憶を辿ってみたが、当時は意識していなかったから何の役にも立たなかった。

 そんなことを考えながら歩いていると映画館が見えてくる。もう一度だけ自分の姿を確認しようと足を止めたところで、久保さんと加藤さんが楽しそうに話しているのが遠目に見えた。

 待ち合わせまであと十分ほど時間があるし、その時間もパンフや飲み物の購入に少し並んでも良いように余裕を持たせているから、ギリギリの到着で問題はないはずだ。

 少しだけ引き返し、軽く時間を潰そう。久保さんには、加藤さんと二人で話せる時間を用意してあげたい。

 そう考え、背を向けようとしたところで加藤さんがこちらに向かって大きく手を振る。わたしが来たことに気付かれてしまったらしい。

 いつもと違う格好だし、雑踏にまぎれているのによくわたしのことが分かったなと思いながら待ち合わせの場所に向かい、二人の前に立つ。

 久保さんは学校にいる時のスポーティな雰囲気とは真逆の、ドレスみたいに華やかな服を着ていた。目立たない程度に化粧もしており、気合いを入れて今日に臨んだのだと伝わってくる。

 対する加藤さんは派手めな柄のシャツにカーゴパンツというラフな格好で、いま立っている街の雰囲気にしっくり来るものだった。

「へえ、草那さんってオフじゃそんな格好するんだ」

 加藤さんがわたしの全身を眺め回すものだから、途端に恥ずかしくなってくる。

「いつもと感じが違う?」

「いえ、私服でもイメージが変わらないなって。その点、久保さんにはびっくりしちゃった」

 加藤さんが大袈裟に言うものだから、久保さんは照れ臭そうに頬を掻く。その仕草も普段は見せないもので、学校ではスポーティな自分を演じているのかなと思った。

「加藤さんの服も結構意外だったけど」

「うちの高校って制服が典型的だから、私生活では崩したいなって思ったの」

 なるほど、きちんと考えて選んでいるわけだ。

「そのサングラスも高校になって買ったの?」

 わたしは加藤さんのおでこにかかっている、薄い色の入ったサングラスのことを訊ねる。

「ううん、サングラスは昔からかけてるの。太陽の光はわたしには少し刺激が強くて」

 加藤さんは親指と人差し指で目元を少し広げ、わたしに顔を近付けてくる。

「ほら、目の色素が大分薄いでしょ?」

 言われてみれば確かに、加藤さんの瞳は茶と黄の中間みたいな色をしている。目の色が違うクラスメイトは小学の時も中学の時もいたし、別段気にしてなかったのだが、こうやってじっくり見せられると少し意識してしまう。

「事情を話せば許可をもらえるはずだけど、校内でサングラスをかけてたら悪目立ちするかなと思って」

 眼鏡なら全く問題ないのに、色が入っているだけで目をつけられるのは変な話だなと思ったが、加藤さんが学校でサングラスをかけていたらわたしはきっと物怖じしていた。

「近寄り難い、とは思ったかも」

「でしょ。ただちに影響が出るわけじゃないけど、ケアしないといずれ日常にも影響が出るかもしれないと言われててね」

 加藤さんは重いことを軽く言ってのけるとサングラスをかける。印象が変わったけど、近寄り難いとは感じない。でもそれは、既に加藤さんと仲良くなっているからだ。

「まだちょっと早いけど、中に入ろっか。色々見て回ってたら、すぐに時間になると思うし」

 続けて促され、わたしは前を行く加藤さんと久保さんの後ろをついていく。横三列は広がり過ぎだと思うし、二人が並んで歩くのは明るい街並みに良く映えており、その様子を後ろから眺めていたかったからだ。

 映画館のあるフロアに着くと、久保さんは三人分のチケットを印刷してわたしと加藤さんに手渡す。わたしが真ん中で、加藤さんと久保さんが左右という配置のようで、そっと目配せをすると久保さんは僅かに首を横に振る。どうやら分かっていてこの席順にしたらしい。

 もったいない気もしたけど、映画を集中して見たいのに好きな人が隣というのは下手すると内容が全く頭に入ってこないのかもしれない。だとすると映画はデートに向いてないんだろうか。でも一人で観に行くものではないし、となると友達連れか家族連れが妥当なのだろう。

 それでもウルトラマンは観たくないなあという結論に至ったところでトイレに向かい、用を足してから三人分のジュースを買う。販促列が思いのほか長く、役割を分担することになったからだ。

 お互いの戦利品を持ち合い、最終的な金額を計算してから精算する。入場案内が丁度良いタイミングで流れてきたので、忘れ物がないかを最後に確認してから目的の作品が上映される劇場に入る。大スクリーンで表示される広告や予告編についてひそひそ話しているうちに照明が落ち、上映が始まった。

 最初の変化があったのは話も中盤に差し掛かった頃だ。久保さんがわたしの服を摘まんできた。目だけで様子をうかがうとスクリーンに釘付けになっており、映画に入り込んでの無意識な行動であると分かったので、何も言うことなくそのままにしておいた。

 ほぼ影響がないとはいえ、服を摘まれているのはどうしても気になるし、左腕を動かさないようにしていると少しずつ肩にだるさを感じてきた。

 バランスを取るため、肘掛けに右手を乗せて少しだけ体重をかける。若干楽になったかなと思ったところで、ひんやりとした感触がそっと重ねられた。

 すぐにどけてくれるかと思ったが、いつまで経ってもそのままだ。もぞもぞと手を動かし、無言の抗議をしてみたのだが、加藤さんは手をどけるどころか積極的に指を絡めてきた。

 加藤さんの指が与えてくる感触に、背筋が思わずぞわっとする。どういうことかと目を向ければ、加藤さんも目だけでわたしを見ていた。絡められた指がわたしの指をくすぐるように動き、口元が僅かに歪む。

 わたしがどう考え、感じているかを分かってやっている。肘掛けから手を離そうとしても、強く押さえ込まれているかのように動かすことができない。力は全然こもっていないのに。

 加藤さんの指がわたしの指をさすり、間をうごめき、絡め取っていく。些細な動きなのに腰の下辺りから背筋に沿って何度も震えがはしる。声をあげようにも映画の真っ最中ではうるさくできず、我慢するよりほかなかった。

 息苦しくて、吐息が漏れそうになる。こんな気持ちにさせる加藤さんの指が嫌で嫌で仕方がないのに、もっと触れて欲しいとも思ってしまい、頭は混乱するばかりだった。

 そんなわたしを我に返したのは、久保さんの指が服を強く引っ張る感触だった。わたしは咄嗟に立ち上がると早足で席を立ち、映画を観ている人たちの前を通り抜けると、劇場を後にしてトイレに駆け込んだ。

 個室に鍵をかけ、必死で息を整える。大した距離を走ったわけじゃないのに息苦しく、胃がムカムカして吐き気が込み上げてきた。

 慌てて便器の蓋を開け、蹲ってげえげえと吐く。便器の中には未消化の朝食と映画を観ている間に飲んだジュースが混じっており、その甘酸っぱい臭いにつられて更に少しだけ吐いた。

 嘔吐物をぼんやりと眺めながら、何がそんなに不快だったかと考えてみたけど、思い当たる節は一つしかなかった。加藤さんにしつこく指をなぞられ、絡め取られたのが嫌だったのだ。

 ティッシュで鼻と口元を拭い、個室から出ようとしたが、鍵を開けようとしただけで手が震え出す。ここにずっといたら迷惑がかかると自分に言い聞かせて震える手で鍵を開け、洗面台で手を洗うと口をゆすぎ、ふらふらと外に出る。

 劇場に戻らないといけないが、加藤さんの隣に座ることを考えると吐き気がぶり返しそうになる。それで壁にもたれかかってぐずぐずしていたら、わたしの行動を不審に思ったのか、スタッフの服を着た女性が近付いてきた。

「あの、体調が優れないようでしたら手を貸しましょうか?」

 温かな笑顔とともに近付いてくるスタッフから、わたしは慌てて距離を取る。彼女に触れられるのが怖いと思ってしまったからだ。

「大丈夫です。その……一人で歩けますし、大丈夫ですから……」

 そんな態度のわたしにスタッフは怪訝そうな視線を向け、表情がみるみるきつくなる。

「ちょっと、スタッフルームまで来ていただいてもよろしいですか?」

 この場から今すぐにでも逃げ出したかった。わたしの不審な態度を、この人は咎めようとしているに違いないから。あんな目に遭って、それなのに叱られるなんて絶対に嫌だった。

「心配しなくても、わたし以外にもスタッフはいます。二人きりではありませんし、お客様の話したことは絶対に他言しないと約束します。酷いこと、されたんでしょう?」

 酷い、こと。そう言われてようやく、加藤さんがわたしにしたのは酷いことなのだと分かった。そしてスタッフはそのことを理解している。だからこれは然程、珍しいことではないのだ。

 そうなのかもしれない。劇場は暗く、声を出したら映画を観ているお客様の迷惑になる。その特別な環境を利用して、ああいうことをする人はいるのだろう。わたしが触られたのは手だったけど、太ももやお腹に手を伸ばすのだってそんなに難しくないし、もっとあからさまなことをする人もいるのかも。

 想像しただけで怖気がはしる。スタッフのお姉さんはそんなわたしの反応を見て、大きく頷いた。わたしの抱いた気持ちは正しい、間違っていないのだと言い聞かせるように。

 それで怖れが遠のき、壁に手をつかなくても立つことができるようになった。

「大丈夫です。あと少し休めば、良くなると思います」

 ろれつも上手く回る。試しに少し歩いてみたが、よろけるようなことはなかった。

「分かりました。もし、また辛くなるようなことがあれば遠慮なく女性のスタッフに声をかけてください」

 スタッフに気遣われてゲートをくぐり、建物を出ると手近なベンチに腰を下ろす。二人には少し気分が悪くなったから、建物の外で休んでいるとメッセージを送り、気を紛らわせるためにニュースサイトをいつもは見ないトピックまでチェックしていく。雑多有象の情報を頭の中に詰め込んでいくうちに、気分が少しずつ晴れてきた。

 時計を確認し、あと三十分くらいで終わるかなと思っていたら、久保さんと加藤さんからそれぞれメッセージが送られてきた。

《ずっと戻ってこないから途中で出てきちゃった。大丈夫?》

《ほんの冗談だったの。嫌な思いさせたならごめんね》

 自分の身を案じてくれたありがたさ、映画を中座させた申し訳なさ、あんなことをして冗談で済まそうとする無神経さへの怒りが一気に湧き上がり、頭が破裂しそうだった。よく、心が二つあるなんてネットの冗談があるけど、こういうことがあると心は一つしかないんだなってよく分かる。

《大分良くなった。普段は映像酔いとかしないはずなんだけど》

 久保さんにそう返すと、人の良さそうな少年が笑顔を浮かべるスタンプが返ってきた。

《今度やったら絶交だからね》

 もっときつい言葉を投げつけようとも考えたけど、久保さんの素朴な反応で棘が抜けたのか穏当な表現でまとまった。加藤さんは反省する猫のスタンプを返してきて、それで僅かに残っていた嫌悪感も徐々に晴れていった。

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