第7話

 学校生活は二人の友達によってこの上ないものとなっていたが、全てにおいて順風満帆というわけではなかった。ネットでの人間関係は坂道を転がるように酷くなる一方で、パソコンを点けることさえ億劫に感じることがあるくらいだった。

 わたしの配信に現れた初めての荒らしは翌週も悪びれることなくAlexのハンドルを使い、誹謗中傷や罵詈雑言を躊躇いなく書き込んでわたしやリスナーを嫌な気分にさせた。しかもアカウントを複数用意したらしく、一度蹴り出して安心したところでまた姿を現し、目を背けたくなるようなことを再び投げつけ始めるものだから、数少ないリスナーまでもが一人また一人と離れていく。

 しかも配信だけでなく、宣伝や告知に使っているSNSにまで乗り込んできて、特定のリスナーに色気を使っただの、承認欲求が滲み出ていて気持ち悪いだの好き放題に書き込まれた。即座にブロックしたかったが、度を越した発言にすぐ対応するためにはどのような書き込みをしているのかを逐一把握しておく必要があった。

 迷惑な発言はログとスクショを取って保存しておき、いざという時には提出できるように準備を整えておいたが、今のところ警察や弁護士に相談するつもりはない。どこに相談するにしろ、未成年であるわたしは両親に頼らなければならないし、そのためには詳しい事情を話す必要がある。

 ネットのトラブルに巻き込まれたことを知られたら配信をやめるようにと言われるかもしれないし、パソコンやスマホの使用を制限されるかもしれない。たった一人の失礼な人間のせいで楽しみを奪われるのは腹立たしいにも程がある。

 目立つところのない配信だから、ネットの評判を見て冷やかしの言葉を投げつけてくる人はいてもすぐに飽きてどこかに行ってしまうし、泥沼というわけではないのだが、元凶であるAlexの悪意が収まることはなかった。

《こういうのってちょっと頼んだら平気でやらせてくれるんじゃない?》

《男なら誰にでもせがんでそう》

《なんの取り柄もない女のくせに》

 フォロワーやリスナーは気にしなくて良いと言ってくれるけど、保存したログを眺めているだけで気持ちが落ち込んでくる。どうしてこのAlexという人は、わたしを執拗に攻撃してくるんだろうか。清廉潔白を主張するわけではないし、雰囲気に飲まれて調子に乗ることもあるけれど、特定の誰かや何かを口汚く罵ったことはない。政治の話は慎重に避けているし、時事ネタも笑って済ませることのできるものだけを取り上げている。

 一つだけ思い当たる節があるとしたら、Alexはそうした態度を不真面目だと考えたのかもしれない。わたしのチャンネルに初めて来たときもちゃんとやっている人のことを馬鹿にしていると言っていた。でも、真面目な話をしないでふざけてばかりの人なんてネットにはいくらでもいるはずだ。その中でどうしてわたしに目をつけたのだろうか。

 たまたま目立っているのを見つけたから? でも、それだけで一月近くも粘着し続けるものだろうか。わたしが気付いていないだけでAlexを刺激するクリティカルなことをやらかしたのではないか。

 藁にも縋る思いでSNSでの発言やアーカイブを数ヶ月ほど遡ったが、特定の個人を刺激するようなものはやはり見当たらない。

 ではやはり、大した理由もなく、ちょっとむかついた程度で人格を否定し、踏みにじるような悪意を向けてきたのだろうか。だとしたら、あまりにも素朴で恐ろしい。そんなものの存在を認めたら、ちょっと肩がぶつかった程度のことにまで一生怯えて暮らさなければいけない。

 理由の有無に拘らず、このまま放置していたら事態は悪化するだけだ。現に今もちょっとした問題が徐々に大きくなりつつあった。リスナーの中に自警団のような発言が目立つようになってきたのだ。

 問題を解決できないわたしが一番悪いのは間違いないのだけど、最近ではAlex以外のアカウントにも神経質な注意を行い、ただでさえ悪い空気をより一層淀ませている。リスナーによる自治は配信チャンネル運営において最も避けるべきことの一つなのだが、そのことを注意して折角の善意を台無しにしたと怒られるのが怖かったし、自警団のような振る舞いを始めたのがErwinであるという事実も、わたしの口を重苦しく塞いでいた。

 最古参のリスナーを不快に思わせたくない。だがAlexと同様、いつまでも放っておくわけにはいかない。

 この状況を打開するにはAlexをなんとかするしかないと考え、ネットトラブルの解決法を調べてみたが、選択肢は大きく三つしか見当たらなかった。

 一つ、弁護士や警察に相談する。

 二つ、ほとぼりが冷めるまで見に徹する。

 三つ、SNSやチャンネルのアカウントを削除する。

 両親に相談できないから一は無理、三をやろうかどうか迷っている段階で、だから二の選択肢を消極的に選んでいることになる。

 見に徹して上手くいく場合もあるけど、Alexが今のところわたしへの粘着に飽きることはなさそうで、その前にErwinがわたしの手に負えない自警団となる可能性が高い。

 こんなことをされているとSNSに被害を広く訴えることも考えたが、やめておいた。ある程度の影響力がなければ情報は拡散されないし、運良くインフルエンサーに拾われたとしても外野の野次馬たちが好き勝手に発言することで、事態がより悪いほうに転がるかもしれない。

 他にもわたしのできそうなことを考えてみたが、最終的には一つの答えに辿り着いた。

 大人に頼るしかない。

 でも、自分のできることの積み重ねでやってきたのに、都合の悪いことだけ大人に頼って、助けを求めて良いんだろうか。

 そこでわたしの思考は停止する。気分転換のためにアバターの改良や配信環境の改善に熱中してはみるけれど、これらはネットで活躍するためのものだ。結局のところ、わたしはインターネットから逃れることはできない。

 パソコンを閉じ、文芸部の人に勧めてもらった小説を開こうとしたところで部屋のドアがノックされる。夕飯にはまだ早いけど、なんだろうと思いながらドアを開けると、そこには母ともう一人の女性が立っていた。

 その女性がマンションの大家であることを思い出し、慌てて挨拶する。

「部屋の中を見せていただいても良いかしら?」

 そう言いながら、大家さんの視線は少しだけ開けられたドアの内側に注がれる。まるで何かを探しているかのようだ。断るわけにもいかず道を開けると大家さんはクロゼットや押し入れを開けて回り、バルコニーに出るための窓を抜けていく。母にどういうことかと目で合図を送ったが、小さく首を横に振るだけだった。

 大家さんがわざわざやって来て、家探しするというのは相当のことだ。例えばテレビの音や話し声がうるさいというだけなら注意の張り紙が掲示板に貼られるか、注意文の書かれたチラシがポストに投函されるかのどちらかだと思う。

 後を追うのもはばかられ、ベッドの縁に座ると少し前に始めたばかりのソシャゲにログインする。フレンド申請が一件来ていたので何気なくクリックしてみたのだが、すぐに閉じた。

 申請者の名前がAlexだったからだ。どうしてわたしのアカウントが分かったのかと恐ろしくなったが、すぐ原因に思い至った。

 ゲームを始めた直後にフレンド募集の投稿をしたことがある。IDも主人公の名前も分かっているから、検索をかけたら簡単に特定することができるはずだ。

 理由が分かれば怖さも薄らぎ、わたしは再度ゲーム画面を表示させるとなるべく薄目で見ながら否認にチェックを入れる。

【馬鹿女はインターネットをやめろ】

 中傷が書かれたコメントはスクショを取るべきかどうか少しだけ迷ったが、一秒でも早く視界から取り除きたいという気持ちが勝った。

 大きく息をつき、ベッドに寝転がろうとしたところで、母が部屋に入ってきたので慌てて体を起こす。

「ごめんね、モトコの部屋を荒らすようなことして。嫌じゃなかった?」

「嫌というより驚いたかな。あの人って大家さんだよね、何があったの?」

 事情が分かれば納得できることなのだが、母は曖昧な表情を浮かべるだけだ。状況を理解できていないのは、母も同じことらしい。

「うちでペットを飼ってるという苦情があったみたいで。大家さんは少し確かめるだけで良いと言ったけど、こちらとしては疚しいことなんて何もないから、存分に調べてもらうことにしたの」

 随分と強引なことをするなあと思ったが、母から言い出したことなら納得できた。

「でも、なんでそんな苦情が入ったんだろ?」

「野良猫か何かが入り込んで、バルコニーでくつろいでるのを目撃したとか、そういうことじゃないかしら」

 そんなことで勘違いするかなあと思ったし、わたしの中にはもっと嫌な可能性が浮かんでいた。

 誰かがうちを疎んでありも苦情を大家さんに吹き込んだのかもしれない。

 わたしも両親も誰かに恨まれるような暮らしはしていないと思うけど、今のわたしはちょっと癇に触った程度で粘着してくる人がいることを知っている。

 世間を知らない子供のわたしでも理解していることを、母が分かっていないはずはない。大家さんに融通を利かせたのもそのことが分かっているからなのかもしれない。

「もし野良猫が入り込んでいるのを見かけたら、わたしか父さんに教えて頂戴。できれば写真を撮ってもらえると、助かるかな」

「分かった、注意しとくね」

 母が部屋を出るとわたしは戸締まり確認のついでに、窓を開けてバルコニーを確認する。スマホのライトで照らしてみたが、虫一匹すらいなかった。



 五月に入ってもネットのトラブルは収まらなかったが、ペットの件では進展があった。大家さんの件から少しして隣の住人が子供と一緒に謝りに来たのだ。

 申し訳なさそうにしている両親と違い、子供は不機嫌そうな顔をしていて、どうして謝らなければいけないのかと言いたげな不満を隠すこともなかった。

「この子が、隣の人たちはペットを飼ってる、ずるいって言い出したんです。隣同士だからこそペットを飼っているかどうかはなんとなく伝わるものですし、そんなことはないと返したんですが、どうしても納得してくれなくて」

 大家さんに相談したところ、杞憂だとは思いますが一応確認してみますとの返事があり、数日前の出来事に繋がったというわけだ。

「だって見たんだもん、わたし嘘なんてついてない!」

 大声をあげる子供を親が窘め、すると後ろに控えていたわたしを睨みつけてくる。

「お姉ちゃんの後を猫が付いていくの、見たんだもん」

「わたしの後を付いてきてたの?」

 慌てて訊くと子供は大きく頷く。

「その猫、ぴょんぴょんと上に昇っていったよ。それで、お姉ちゃんの家に入ったの」

「その猫がどうしてわたしの後を付いて来たかは知らないけど、うちのペットじゃないよ」

 わたしは膝を曲げ、子供と目線を合わせる。

「信じてくれると、嬉しいんだけどな」

 わたしの言葉に子供はぷいと視線を逸らす。まだ怒ってはいるようだが、先程までの頑なさは薄れたようだ。

「それにさ、こっそり飼ってるなら放し飼いなんてしないと思うんだよね。すぐにばれちゃうし、そもそも猫を外で飼うのは危ないことだから」

 野良犬やカラスに襲われるかもしれないし、危険な感染症のリスクもある。猫はもちろんだし、犬でさえ散歩のとき以外は家の中で飼うのが、今では基本とされている。

 そんなペットの知識を話して聞かせるうちに子供の攻撃的な態度がなりを潜め、今度は逆にしゅんとしてしまった。

「じゃあ、わたしの勘違いだったのね。ごめんなさい」

「気にしなくて良いよ。それより、信じてくれてありがとね」

 柔らかく慰めると子供は鼻をすすり、そして素直にぺこりと頭を下げる。

 それでことは収まったと感じたのだろう。両親とともに安心した様子で帰って行った。

「モトコは子供の世話が上手なんだな」

 あとで父に褒められたけど、別に子供の世話が得意なわけじゃない。子供だからという理由で説明をしてくれないと頑なになる場合があるのを知っていただけだ。

 子供は未熟な大人なんかじゃない。ちゃんと話してくれれば理解するし、反省もする。そのことを大人が信じてくれないのは辛いことだ。大人になるとみんなそのことを忘れてしまうし、きっとわたしもいつかそうなる。

 加藤さんには大人って言われたけど、だからわたしはまだまだ子供なんだろう。

 それにしても、わたしの後をずっと付いてくる猫というのも妙な話だ。動物に好かれる体質の人はいるらしいけど、少なくともわたしはそうじゃない。

 わたしがふと思い出したのは、お札を強引に押しつけてきたあの人の言葉だった。

『猫の障りは厄介だから』

 確かそんなことを言っていた気がする。わたしはずっと猫に憑かれており、その影響下にあるのだろうか。

 わたしの生活につきまとい、密かに監視しているのだろうか。それではまるでわたしに粘着しているAlexのようだ。

 そこまで考えたところで突拍子もない可能性が頭に浮かんできた。

「……まさか、ね」

 猫の障りを指摘されたのと、Alexが荒らし行為を始めたのはほぼ同時期だ。これは果たして偶然だろうか。

「いや、でもなあ。妖怪だったらもっとそれらしい脅かし方をしてきそうだし」

 あるいは妖怪も時代に合わせることを覚え、現代科学を駆使するようになったのだろうか。そういえば日本で最も有名な怪異の一つとなった貞子も、呪いをビデオテープという現代の道具に転写し、被害を拡大させていた。

 わたしは机の引き出しを開け、あの人からもらったお札を見る。本当に猫が憑いていて、わたしの家のすぐ近くまでやって来たのだとしたら、このお札が護ってくれたのかもしれない。

 もし猫の妖怪がわたしに付き纏っているのだとしたら、一度相談しても良いのかもしれない。あれだけの美人なら学校でちょっと聞いて回るだけですぐに見つかるはずだ。

 加藤さんはインチキだと言ってたけど、やはりわたしにはあの人が悪人だとは思えなかった。

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