第4話

 おすすめのホラーがびっしりと書かれたメモをお土産に部室を出ると廊下は既に薄暗い。スマホを見ると下校時間まであと三十分ほどだった。少し早いけど他にやることもなく、メモの作品を調べて時間を潰すつもりで、待ち合わせ場所の校門前に向かう。時間が時間だけに下校するものはなく、辺りは実に静かで、屋外なのに重苦しい暗さに包まれていた。

 雲は薄く、夕焼けは鮮やかに世界を照らしている。もうじき夜だが、まだ昼の領分だ。それなのにこの不気味さはなんだろう。ずっとホラーの話を聞いていたから、心のどこかで怖気づいているのだろうか。

 疑心を紛らわせるために意識してスマホを操作していると、微かな甘い香りが鼻を打つ。そっと顔をあげれば、わたしと同じ制服を着た少女がごく間近に立っていた。

 いつのまに側まで来たんだろう。そんなことを考えながら、わたしは彼女の容姿を上目遣いにそっと観察する。じっと見たらどこかに誘われそうな、恐ろしいことを言われそうな思いに駆られたからだ。

 目だけで上を見ようとしたため、首から上の確認ができなくてやきもきしていたら、彼女はすんすんと奇妙な鼻息を立て始める。

 それが匂いを嗅ぐ行為であると気付き、いよいよ怖くなってきた。

 この人はわたしが美味しいかどうかを確かめようとしているのではないか。馬鹿馬鹿しいホラー的妄想だけど、実現しそうな冥い威圧感を覚えずにはいられなかったのだ。

「厭な臭いがする」

 ぽつりと口にされ、手の甲に鼻を寄せる。我ながら間抜けな行動だが、咎めるような物言いに気圧されてしまい、確かめずにはいられなかった。

「違う、そうじゃない。不穏なものにまとわりつかれたってこと。良くない場所に足を踏み入れたでしょ?」

 良くない場所という一語に興味を惹かれ、つい視線を上げてしまう。

 わたしの眼の前にいたのは美というものをコンパクトにまとめ上げたとしか表現しようのない少女だった。

 加藤さんも美人だけど、背の高さによって若干和らいでいる。石硯さんはふわふわとした髪型や体型だから、綺麗というよりは可愛いという印象が強い。

 でも彼女にそのような隙はなかった。全てがぴったりと合っていて、調和している。こんなに完璧な容姿がこの世にはあるんだなと感心するほかなかった。

「幸いにして憑かれてはいないけど、交通事故がありましたとか、通り魔事件がありましたとか、そういう看板があったら避けたほうが良い」

 一方的に言い立てられ、わたしは戸惑うしかなかった。今更ながらに、この人は何者なんだろうという疑問が浮かんできた。

「心配してくれてありがとうございます。その、不躾な聞き方かもしれませんが、あなたは持っている人という認識で良いんですか?」

 彼女は小さく肯き、それから再び鼻を寄せてくる。美人と認識してしまったせいか、薄気味悪さは感じなかったけど、無性にむず痒かった。

「それと、微かに猫の臭い。野良猫とか触った?」

「いえ、そんなことはしてませんが」

「だとしたら用心したほうが良い。猫の障りは厄介だから」

 そう言って、彼女は鞄から封筒のようなものを取り出す。紅と紫の絵の具で描かれた意匠が入っており、何らかの宗教的なメッセージが感じられた。

「外出するときはこれを常に持っていなさい。それと良くない場所には近寄らないこと。わたしの言ってる意味、分かると思うけど」

 そう言い含められ、配信のために出かけた心霊スポットのことであると察しがついた。

「あそこには良くないものがいたってことですか?」

「あそこがどこかは知らないけど、いたことは確か」

「わたしのカメラには何も映らなかったし、何も感じませんでしたが」

 少女の目がぎゅっと細められ、わたしは思わず半歩後ずさる。

「分かってて行ったの? 馬鹿なことを。興味本位で良くない場所に足を踏み入れるのは痛い目に遭うと相場が決まってる」

「それは、分かってますけど……」

 はっきりしないわたしに少女は封筒のようなものを押しつけてくる。じっと観察してようやく、それがお札であると気付いた。

「受け取ると、良くないものって逃げていくんですよね」

「そうなるように作った。不満なの? 一度痛い目に遭わないと分からない?」

「……かも、しれません」

 わたしの心には世界と世界の狭間に触れたい、感じ取りたいという強い欲求がある。

 オカルトチャンネルを開設したのはホラーやオカルトが好きというのもあるし、ネットの人間関係を求める思いもあるけど、一番の根っこにあるのはそれだ。

 その気持ちは時として、自分でも抑えられないくらいに強くなる。子供っぽいと言われそうだから誰にも打ち明けたことはないけど、その手の本に書かれた儀式を試したこともある。生き物を殺すようなやつは流石に実践しなかったけど。

「そう、なら勝手にしなさい。厄介なものに憑かれて悲惨な目に遭っても知らないから」

 そう言いながら、少女は御札を無理やり押しつける。そこまでされたら流石に受け取らないわけにはいかなかった。

「親切を無碍にしてすみません。わたし、悪い子なんで」

 少女はふんと鼻を鳴らし、下校していく。目で追っていたはずなのだがあっという間に姿が見えなくなった。いよいよ浮世離れしていたし、彼女自体が人ならざる怪異と言われても納得できるものを持ち合わせているように思えた。

 お札を鞄の中にしまい、あの不思議な少女のことを考えているうちに下校時刻のアナウンスがかかり、部活を終えた生徒たちが疎らに通り過ぎていく。一人だった時に感じていた不安はいつのまにかなくなっており、あれは文芸部の部室で話に花を咲かせた影響だと言い聞かせることにした。

 五分ほどして加藤さんと久保さんが肩を並べて姿を現した。加藤さんはいつもの飄々とした様子で、対する久保さんは分かりやすく上機嫌だった。勧誘が上手くいったのだろうか。

 そのことを示す話が帰りしな、久保さんの口から語られた。

「いや、加藤さんったらほんとに凄い動きだったよ。体育の授業以外でバレーをやったことがないだなんて信じられない。体にバネが入ってるみたいだった」

 どうやら加藤さんの運動神経は、生粋の運動部員すら唸らせるものだったらしい。

「草那さんも来れば良かったのに」

「うん、時間があれば見に行こうかなとも思ってたけど、熱心に勧誘されちゃって」

 わたしはメモを取り出し、文芸部員たちの熱心さを説明する。加藤さんはわたしが話す様を楽しそうに聞き、久保さんは感心した様子だった。

「その熱心さ、わたしも見習いたいところね」

 ぽっと炎が宿ったように瞳が輝く。どうやらライバルに出会うと燃える体質らしい。そういうところも含め、運動好きのからっとしたところがうかがわれる。わたしとは正反対だ。昨日の態度は本当に高校初日の緊張が、少しだけ顔を出してしまったに違いない。

「で、加藤さんはバレー部に入るの?」

「うーん、どうしようかな」

 わたしの問いに加藤さんはお茶を濁したが、満更でもない様子だった。

「そういえばさ、うちって部活の掛け持ちはオッケーだったりするのかな?」

 と思いきやいきなり話が変わり、妙なことを訊いてきた。

「どうだろ、先生に確認しないと分からないかな。どうしてそんなこと訊くの?」

「わたし、本を読むのが好きだから。草那さんの話を聞いて少し興味が出ちゃった」

 久保さんの目が僅かに細められる。どうしてそんなことを言うんだと思いながら、わたしは必死でフォローの言葉を捻り出す。

「部活に入らなくても、本のことで興味があったらいつでも訪ねて良いんだって」

 キョウカ先輩の言っていたことを話すと、加藤さんは小さく頷いた。

「なるほど、それなら利用させてもらおうかしら」

 文芸部に入る予定はなさそうだと思わせる発言に、久保さんの表情がすっと戻る。昨日は二人で帰ったことを伏せるように言ったのだから、他の部に入ることを仄めかすのがまずいのも分かっていると思っていたのに。加藤さんが人間関係の機微を察していると思ったのはわたしの勘違いで、年相応に無邪気なところもあるのだろうか。

「加藤さんってどんな本を読むの?」

 久保さんが探るように訊ねると、加藤さんは指で頬をぺちぺちしながら「うーん」と唸り声をあげる。かなり真剣に考えている様子だった。

「色々かな。この前読んだのは狸の探偵がラーメン屋台消失の謎に挑むミステリでね。ジュブナイルの棚に入ってたやつから適当に選んだんだけど面白かった」

 聞いたことのない作品だったから、あらすじをさっとスマホで調べてみると今年の一月に発売されたものだった。狸探偵シリーズとして他にも何冊か出ており、ざっと見た感じ読者の評価も高そうだった。

「興味があるなら貸してあげる。二人とも読んでみて」

 わたしは反射的に頷き、対する久保さんは若干尻込みしている。活字を読むのはそんなに好きではなさそうだ。

「押し付けるものでもないけど、同じ作品の話ができるのは楽しいと思うの」

 それは確かに、加藤さんの言う通りだ。久保さんも同じ気持ちではあるようだが、やはり小説への苦手意識はあるらしく、少しだけ辛そうな笑みを浮かべる。

「だったらさ、久保さんも好きなものをわたしや加藤さんに勧めたら良いんじゃない?」

 わたしがそう提案すると、久保さんは分かりやすく飛びついてきた。

「それならスポーツの動画って興味ある? 面白い試合をまとめたやつがあるんだけど」

「それって全部バレーの試合なの?」

「ううん、サッカーとかバスケとか、アイススケートとか色々と。一番好きなのはバレーだけど、上手いプレイを観るのが好きなんだ。プロの選手って体の動きが綺麗だから、観ていて楽しくて」

 やや早口にまくしたてる様子を見て、久保さんにも文芸部の人たちが見せるような側面があるのかと少し驚いてしまった。久保さんも話しすぎたと感じたようで、恥ずかしそうに目を伏せる。

「草那さんのお勧めは何かある?」

 加藤さんに訊かれ、わたしは言葉に詰まってしまった。恋愛ドラマはありきたりだし、ホラー映画は小説やスポーツに比べて趣味が悪いと思ったからだ。

「やっぱホラーとか好きなの?」

「あ、うん……二人ともホラーって平気かな」

「わたしはへっちゃらだけど」

 加藤さんはそう言って久保さんの顔を見る。

「まあ、平気かな」

 明らかに目が泳いでいた。あっ、これはホラー苦手なんだなというのが一目で分かる。

「じゃあ、まずは脅かしの少ないやつを見繕っとく。動画の配信サービスはどこに入ってる?」

 加藤さんと久保さんは同じサービスに加入しており、わたしの家でも加入しているものだった。両親はオタクだから複数のサービスに契約しており、わたしにも制限なしで利用させてくれる。

 こうしてお互いの好きなものを話しているうちに△△△△駅に着く。久保さんとわたしは上り、加藤さんだけ下りなので数駅だけど久保さんと二人きりになる。今日の空気なら大丈夫だそうだけど……なんてことを考えながら改札をくぐり、白線の内側に立ってからふと後ろを向くと二人の姿がない。

 どこに行ったのかと辺りを見回したら少し離れた所で加藤さんが駅員に話しかけられていた。

 駅員さんはキーホルダーのようなものを渡しており、加藤さんは深々と頭を下げていた。構内のざわつきで全部は聞こえなかったけど、落とし物がどうのこうのという話であったらしい。

 詳しい事情を聞きたかったけど、ちょうど良いタイミングで電車が来てしまった。加藤さんに手を振られたので軽く振り返してから電車に乗り、吊革につかまる。隣に久保さんがいたのは分かっていたけど、ついさっきまでの機嫌の良さが失われており、きつく唇を結んでいて、わたしから話しかけられるような状態ではなかった。

 重苦しい沈黙はスマホでSNSを見てなんとかやり過ごし、最寄り駅に着いたらか細い声でバイバイと言って、そそくさと電車を下りる。

 すると久保さんも後を追ってくる。ここは彼女の下りる駅ではない。だからわたしを追ってきたのだと、すぐに分かった。

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