第3話

 母に肩を揺さぶられ、わたしは慌てて体を起こすとスマホの時計を確認する。

 あと十分で家を出ないと遅刻確定であり、わたしは鞄の中身を確認してから制服に着替え、髪を整える。朝ご飯を食べていく暇はないなと思っていたら、母がサンドイッチ一切れと牛乳を持ってきてくれた。

 大急ぎで喉に流し込み、家を出ると階段を駆け下り、最寄り駅まで早足で向かう。頭がまだ少しぼんやりしていて、目がしぱしぱする。明らかに睡眠が足りていない。六時間は寝たはずだが、直前までくよくよ悩んでいたのが良くなかったのだろうか。

 なんとか電車に間に合い、△△△△駅からは歩いて学校に向かうことができたし、急いで取った朝食も手助けしてくれたのか、校門を通るときには呼吸もすっかり落ち着いていた。

 教室に入り、わたしの席を見ると久保さんが座っていて、加藤さんと親しく話している。

 引き返したい衝動に駆られたけど、学校をサボったらきっと両親に連絡がいく。理由を訊かれて上手く話す自信がわたしにはなかった。

 それに、些細な友人付き合いがきっかけで学校をサボるなんてあまりにもバカバカしい。

 だからなんでもない風を装い、自分の席に向かう。また嫌な顔をされると思ったけど、久保さんはさっと立ち上がり、一つ後ろの自分の席に座ってから笑顔でおはようと言ってくれた。

 すぐに朝礼が始まったので慌てて鞄を置き、担任の話に耳を傾ける。

 今日の予定と簡単な連絡だけの朝礼が終わると、加藤さんが話しかけてきた。

「結構ギリギリだったけど寝坊でもしたの?」

「うん、なんか上手く眠れなくて」

 久保さんのことで悩んでいたなんて、言えるはずがなかった。

「そっか。お母さんは起こしてくれないの?」

「小学のときは起こしてくれたんだけど、中学になったら自分で起きる習慣を身につけなさいって言われちゃった。ギリギリの時間になったら起こしてくれるんだけど」

 母は優しい人だけど、時間を管理することについては若干の厳しさを見せることがある。でも今日はそれで一つ話の取っ掛かりを見つけることができた。

「朝にちゃんと起きるのは苦手だな。朝練に毎日出られる人とか凄いと思う」

 わたしはちらっと久保さんを見る。運動好きな彼女なら朝練に馴染みがあると思っての発言だったが、自分のことを褒められたと感じたのか満足そうな笑みを浮かべていた。

「わたしも朝起きるのは苦手かな」

 加藤さんはそう言ったけど、特に眠たげな様子はなくしゃきっとしているし、服も髪型も全く乱れていない。

「だから早く寝るの。昨日なんて九時過ぎには寝ちゃってたし」

 九時過ぎというとわたしが配信を終えてすぐの頃だ。十分な睡眠に勝る美容はないとは良く聞く話だけど、加藤さんはその優れた実例なのかもしれない。

「わたしも十時過ぎには寝るかな。勉強しなきゃって思うけど、いつも睡魔に負けちゃう」

 久保さんも加藤さんに続いて早寝を主張する。いかにも勉強が苦手といった話しぶりだけど、本当にできないならこの学校には入れない。

 運動できちんと結果を残している人って、いざ勉強に集中したら一気に身につくって聞いたことがあるけど、久保さんはその典型なんだろう。

「朝練で思い出したけど、加藤さんって今日の放課後は空いてる?」

 加藤さんは久保さんに誘われて、ちらりとわたしを見る。昨日の態度はきつかったけど今日はそんなでもないし、期待に目を輝かせている久保さんを見ていると、わたしのせいで遠慮させるのは良くないと思った。

「見てきたら良いと思うけどな。わたしも部活は入らないつもりだったけど、ちょっと興味でてきたところだし、今日は色々と回って見る予定」

「だったら草那さんもバレー部見学していく?」

 助け舟を出すと、久保さんがわたしに訊いてくる。気を遣わせているのかとも思ったけど、そっと顔を覗き見た感じ、無理をしている様子はない。どちらかといえば予想外の出来事に期待を膨らませているといった感じだ。

 昨日は気難しいところのある人だなと思っていたけど、向こうのほうでもわたしとの距離を測り兼ねていたのだとしたら、あなたの邪魔をしないともっと積極的にアピールしていくべきなのかもしれない。

「ごめん、わたしが見たいのは文化系なの」

 だから久保さんが加藤さんにアプローチしやすい状況を考えてそう返答する。あのパソコン部は論外として、例えば文芸部や新聞部はわたしの活動にも役立ちそうだから、席を置いておくのもやぶさかでない。

「そっか、だったら別行動になるね」

 久保さんは悩む仕草を見せたのち、わたしと加藤さんを交互に見回す。

「わたしは□□□□駅が最寄りだからさ、△△△△駅まで一緒に帰らない?」

 昨日のことを思い出し、わたしはどう返して良いのかを迷ってしまった。

「そうね、良い案だと思う。草那さんも良いかしら?」

 加藤さんは昨日一緒に帰ったことなどなかったように話を進めている。どういうことかと思って目を向けると、人差し指で唇を軽くノックする。昨日のことは言わないほうが良いという合図だと思い、話を合わせることにした。

「うん。じゃあさ、連絡取れるようにしとこ」

 スマホを取り出し、QRコードを表示させる。加藤さんと久保さんはそれを手早く読み取り、あっという間に登録を済ませてしまった。

 授業の開始を知らせるチャイムが鳴り、わたしはスマホをしまうと小さく息をつく。昨日はどうなることかと思ったが、上手く関係を築くことができそうだ。

 そのことを示すように、久保さんからわたしあてにメッセージが送られてきた。

《上手くフォローしてくれてありがと、助かった。草那さんって良い人だね》

 それから少し間を置いてもう一通。

《昨日は邪険にしてごめんね》

《気にしないで。加藤さんと仲良くなりたいけど、同じくらいに久保さんとも仲良くしたいから》

 今日登校してくるまでずっと悩んでいたことは、当然ながら伝えなかった。

 そして、加藤さんからもメッセージが届く。

《朝の件、分かってくれてありがと》

《それより、今日は久保さんに付き合ってあげて。熱心に誘ってくれたんだし》

《分かった、草那さんがそう言うなら》

 わたしが言ったから。それはわたしが何も言わなければ、久保さんと話や行動を合わせる気はないということなのだろうか。

《夜とかさ、連絡しても良い?》

 加藤さんの言動に若干の危うさを感じたが、特に断る理由もなかったし、OKのスタンプを送っておいた。

 高校生になって初めての授業と午後からのホームルームが終わり、放課後になるとわたしは校庭に向かう二人を見送ってから、文芸部の部室に向かう。昼休みに新聞部と文芸部の活動内容を図書室で調べたのだけど、文芸部のほうがわたしの求めるものと合致していた。

 文芸部の部室だから本棚がずらりと並ぶ、暗くて狭苦しい空間を想像していたが、本棚こそあったものの室内は十分に明るいし、部屋の中央に置かれた大きなテーブルには人形や小物、お菓子入れやティッシュの箱など文芸と関係のないものも色々と置かれていた。

 椅子に腰掛けて本を読んでいた人たちの目が一斉にこちらを向く。その圧に怯みそうになっていると、一番奥に掛けていた女子が本を閉じて立ち上がり、こちらにやってきた。

「みんな、もの欲しげな顔を向けないの。後輩ちゃんが怯えてるよ」

 猫背気味の姿勢に分厚い丸眼鏡といういかにも文学少女という風体だが、その声は溌剌としており、初対面のわたしにも物怖じする様子はない。

「趣味で読んでる人はそれなりにいるけど、部活に所属するほど小説が好きって子はなかなかいないから。同士が来たぞ、沼に落とせと手ぐすね引いちゃうの。オタクの悪い癖よね」

「えっと、わたしは別にオタクってわけじゃ……」

「分かってる。あなたは狭く深くってタイプには見えないもの」

 そこまで口にしたところで、彼女は口元に手を当てる。

「わたしは鏡キョウカ、二年よ。文芸部の部長を務めているの、よろしくね」

 どうやらさっきのは、自己紹介を忘れていたというポーズだったらしい。

「草那モトコです。今日は少しだけ見学に来たと言いますか……」

 彼女のペースに合わせたら流れで入部させられそうだなと思い、少し距離を置く。

「まあ、海の物とも山の物ともつかぬものに深入りできないのは当然のことよね」

 キョウカと名乗った先輩はそのことを察したらしく、同様に距離を取ってくれた。

「入部しなくたって良いのよ。そりゃ入ってくれるのが一番嬉しいけど、文芸部はこの高校の本好き全てに開かれるべきだとわたしは考えている。調べ物があるとか、読書感想文の書き方とか、そういうことを気軽に聞きに来て良いの。部員たちはみんな、喜んで答えてくれるわ」

「読書の邪魔にならないでしょうか?」

 そんなわたしの問いを、キョウカ先輩は軽く笑い飛ばした。

「通勤電車の中でも自室でも、それこそ風呂の中でも本を読むような子たちよ。部活動は読書の役に立つ、読書以外の経験に費やされるべきじゃない?」

 キョウカ先輩の意見に頷くものもいれば、見ないふりをしているものもいる。皆が同じ意見というわけでもなさそうだ。

「それでしたら、ホラーのお勧めを聞かせていただけると」

 軽く口にすると場の空気ががらりと変わり、これが良いのでは? 血飛沫はお好き? 和風ホラーと洋風ホラーではどちらが好み? といった質問が次々と飛んでくる。本を読むこともそうだが、誰かに勧めることに飢えていることが痛いほど伝わってきた。

 キョウカ先輩は質問責めに遭うわたしを見て愉快そうに笑う。月並みな表現だけど、ゾンビの群れに襲われる被験者を楽しむ、悪い科学者のようだった。

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