【KAC20248】ある一般男子大学生の再生

千艸(ちぐさ)

何の準備もしてなかった僕が悪いんだけどさ

「……リノ! リノ!!」


 僕の名前を呼ぶ声が聞こえて、僕は薄っすらと目を開けた。

 知ってるけど、この角度からは見たことがない天井。

 僕を覗き込む、世界一格好良い男。


(クリス)


 名前を呼んでやろうとしたけど、唇が僅かに動くだけで、声は出なかった。

 視線とまばたきで、何とか返事をしようとする。それですら酷くだるい。

 ああ、戻ってきたんだな、と思う。

 良かった。なら、もう、




 僕とクリスは長い間、意識が入れ替わっていた。

 僕は十七から二十六までの九年間、クリスとして生きていた。

 その間、多分クリスはこの指一つ動かせないちっぽけな体の中で植物状態になって眠り続けていた。

 僕が、自殺未遂なんてのを起こしたから。

 クリスは僕を助けようとして一緒に落っこちて、何故か僕の意識だけがクリスの体の中で無事だった。


 そこからは、僕の体の中にいるクリスを助けようと死にものぐるいだった。

 医者になるための研鑽を積んで、治療のために研究医の博士号を取って、クリスのそばにいられるように研修医になって。

 全部、全部この日のために。


 クリスは僕の意識があるのを確認すると、ナースコールを押した。へえ、やるじゃん、冷静だね。

 スタッフが入ってきて、クリスに状況を問い質す。そうだよね、さっきまでそいつは研修医の僕だったから、事情を知ってるに違いないと思われて当然だ。

 でも、今はそいつ、別人なんだ。

 勘弁、してやって。


 クリスは、リノの意識が戻ったんです、事情は関係者以外には話せません、の一点張りだった。僕は疲れて今にもまた寝てしまいそうだったけど、意識があるよのアピールはしておいた。僕がこの病室に通い詰めていたことは皆知ってるから、クリスの様子も動転してるのだと思われたに違いない。研究室の准教授が来て、クリスの背中をさすって連れ出してくれた。


 さて。

 今すぐ死んだら、さすがにクリスが可哀想か。

 まずは会話できるくらいには、回復しないと、かな……。




 数日経つと、めがねが届いた。視線追跡で入力できるスマートグラスだ。声は出せなくもないけどすぐに疲れるから、これはありがたかった。

 それを使って准教授と会話するようになった。


『クリスはどうなりましたか』


 僕が視線を動かして文字を入力すると、ピコン、と音がしてサイドテーブルのノートPCに発言が表示されるらしい。准教授はチラッと画面を確認して返事をしてくれた。


「休学扱いになったよ。さすがにあのまま研修医を続けさせるわけにはいかないからね」

『僕だった記憶はない?』

「いや、ぼんやりとした記憶として使える領域にはあるらしい。でも細かい単語や人名、エピソードは駄目そうだね。彼女が変わってなくて良かったと言っていた」


 僕はフッと笑った。そこは、僕に感謝しておいてほしいよね。僕ら結構色々あったんだぞ。別れ話だって何度かした。でも、お前が帰ってくるなら、お前の彼女を大切にしておかないと、駄目だろ。

 ……お前の彼女を勝手に好きになって、ごめんな。

 もう体も返したし、邪魔者はちゃんと排除されるから。


『じゃ、しばらくあいつも患者ですか?』

「そうだね、今大慌てで取りたいデータを選定しているところだ。リノ君、彼が起きてきた時に対照実験する計画全然立ててなかったでしょ」

『それは、すみません。僕がやればいいと思っていたので』

「こんな状態の患者に研究なんか真似事でもさせられないよ。そもそも君、今、医師免許持ってないからね」

『ああ、そうかぁ……。取り直しです? 面倒くさいなぁ』

「それどころか高校も卒業してないよ」

『最悪だ……大検取ったら博士号まで負かりませんか』

「無茶言うよねぇ……」


 この会話だって、恐らくデータとして使われるのだろう。だから僕はせいぜい素の僕を出すのが適切なのだ。


「ところで、どうして急に戻ったんだろうね? 心当たりはある?」

『あれ? あいつから聞いてませんか。僕、夜中に病室に侵入して、あいつとキスしたんです。そしたら、気を失って』

「……どっしぇー、大胆……」

『おとぎ話みたいでしょ』

「確かにね……。いや、クリス君の口からそれ聞いてたら思わずぶん殴ってたと思うから、リノ君で良かった。見た目が可愛ければまだ許せる」

『ひどい』

「や、ごめんごめん。でも寝たきりで抵抗落ちてる患者にキスは良くない。リスクしかない」

『それは、はい。冷静さを欠いていました』

「体力は、どうなの。戻ってきてる?」

『リハビリは頑張ってますよ。そろそろ食事が始まるそうです』

「それは良かった。クリス君にも伝えておくよ。

 ……おっと、そろそろ時間かな。それじゃ、また明日」

『お疲れ様です』


 疲れるのは、こっちもなんだけど。

 弱音は吐いていられない。

 最後の仕上げが待っている。

 それは、僕の人生全てを捧げる贖罪。

 好きな人と大切な人の幸せを見届けて、海の泡と還るための。

 最期にあいつらに、「愛してる」と伝えるための、全力。

 めがねじゃなくて、声で伝えたいから。

 しっかり二人を抱きしめてから消えたいから。

 元気に、笑顔の、練習だ。



 頬をぐうっと動かしてみる。

 めがねが重くて、まだうまく笑えなかった。

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【KAC20248】ある一般男子大学生の再生 千艸(ちぐさ) @e_chigusa

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