第55話
しかし、九空は降りてこなかった。
だが、後ろのドアは開いたまま。
どうやら車に乗れということなのか?
そっと後部座席に近づくと、九空が見える。 足を組んで座っている姿が、生意気さを極めていた。
「おい、君が呼んでおいて遅れて来るなんて。 俺が遅れると責め立てるくせに。」
とても我慢ができず一言文句を言ってやったが、彼女はただ無視するだけ。 すると、車のドアが閉まって車が出発する。
「どこ行くんだよ!」
「ご飯食べに。」
この質問に至ってようやく、九空の口が開いた。 ところで、ご飯? 俺たった先、食べたところだけど。 あまり嬉しくない知らせだった。
「え? 早く言ってくれよな。 俺、もうご飯食べ…。」
そう言おうとしたが、考えを変えた。 地雷を踏むような発言は、そもそもする必要がないと思ったために。 ご飯を食べたと言ったからといって、九空が「あ、そうでしょうか?」と言って引き下がってくれるような人ではない。
「おじちゃん、何て?」
最初から視線もくれなかったのに、初めて目を合わせながら問い返した。 畜生、今日もきれいだ。 何をこんなにおしゃれして現れたのかと思うほどに。
「いや、何でもない。」
すぐにごまかすと、彼女は先の発言にあまり関心がなさそうで、再び窓の外に視線を向けた。 どうしたんだ? 機嫌が悪いのか? 再び沈黙を続き、仕方なく俺も微動だにしなかった。 車は間もなく有名なホテルへと入って行った。
そして車のドアが開くと、九空は優雅に車を降りた。 状況が把握できずじっとしていると、催促する声が聞こえてきた。
「出てこないで何してるの?」
その言葉に我に返り車を降りると、ホテルの職員らが出てきて、彼女を案内してくれる。 非常に丁重な態度だった。 職員ではないのだろうか。 結構年がいっているように見える人。 幹部? 社長か? 九空の地位からして、その丁重さも当然だろうか。
俺らが最終的に案内された所は、ホテルのレストランだった。
まるで秘密空間のように立ち入り禁止となっている部屋。 テーブルの大きさは10人は余裕で座ることができそうに見えた。 ここはレストランのVIPルームなのか? まあそういうことだろう。 当然、部屋の中には俺と九空の2人だけ。 この広い空間に比べては少し寂しかった。 ここはまあ、ご飯を食べるというより、会議をした方がふさわしいところという印象がした。
「座って。」
「ねえ、二人だけなのに、広すぎないか?」
「ん? 私、いつも会議の時に来る場所だけど? 何か不満?」
「つまり、2人でご飯を食べるために、ここを使ったことはないと理解してもいいかな?」
「うん。」
彼女は当然だというように答えた。 いくらここが慣れていても、ここは違うのでは? お互い、座っている距離だけでも数メートルはありそう。 俺は立ち上がって彼女に近づいて行った。 彼女は不思議そうな表情を浮かべた。
そして、大胆に九空の手首をつかんだ。 そして、そのまま引っ張ってそのVIPルームから出た。 外のホールにも空いている席はたくさんあった。 2人用テーブルがあるじゃないか。
「おじちゃん、これ放して。 何してるの?」
言葉とは裏腹に、意外にも九空は抵抗なくずるずると引きずられてきた。 VIPルームの周りに待機していた警護員らが、何事かと注視し始めたので、正直少し怖かったが。 俺は二人用のテーブルの前に来て、彼女の手首を放してあげた。 そしてテーブルに座った。 テーブルの中央にはろうそくが灯されていて、何だかムードがあった。
「ここで食べよう。」
九空は俺を一瞬見たが、特に何も言わないまま、向い側に座った。 かと思いきや、文句を言う。
「椅子は引いてくれるべきじゃない? マナーがなさすぎ! 手首も痛いわ。」
不満を言っていう割には、意外とおとなしい。 何だ? 今、俺に話している相手は誰だ? 手首を痛くしたわけだから、向こうも殺してやると暴れ出してもおかしくないのでは?
「悪い。 でも、2人で食事をするべきテーブルは、こういうものだろう。 さっきの所は違う気がする。 お互いの距離が遠すぎじゃないか?」
俺の話に彼女は何かを思い出したのか、急に笑い出した。 今日、初めてだ。
「おじちゃん、でも、これはデートしているみたいじゃない? おじちゃんと私がデート? プッハッハハ。」
「あ、そう? 嫌ならさっきの所へ戻ろうか?」
「いや、ここでいい。」
あれほど膨れてまともに話もしてくれなかったのに、また以前の姿に戻っていた。
「ところで、突然こんな高級ホテルのレストランだなんて、どういう風の吹き回しだろう? これは当然奢りだろう?」
「まあ、そうしておこうかな? 最後の晩餐になるかもしれないから、どうぞたくさん召し上がれ。」
何となく意味有りげな言葉を言い渡された。 最後の晩餐だと? 一体どうして? 悩んでいると、すぐに食事が運ばれてきた。 コース料理のようだった。 生まれて初めて見る超豪華コース料理に、胃が既に満たされていたのに、何故か手が伸びた。 何の料理なのか、きちんとした食事作法すら分からないまま、出されるがまま平らげた。 しばらくそれを見ていた彼女が、口を開いた。
「ところで、おじちゃん、私、とてもつまらない…。 あの日、ヘリを降りた日からずっと、今日まで... とても退屈なの。」
彼女はそう言いながらも食べ物には手もつけなかった。 俺は既に満腹状態であるにも関わらず、食べ始めるとそのあまりの美味しさにコントロールが効かず、食べ物を詰め込んでいるところなのに。
「今に始まったことじゃないだろ。 どうした? それより、食べないのか?」
「このつまらなさは、今までのものとは違う。 よくわからないけど、違う気がする。 おかしいわ。 とてもおかしい。 とにかくすごく苛々する。」
九空は意味の分からないことを並べると、少しずつ料理を食べ始めた。 しかし、あまり食べず、また話を続けた。
「それで、とにかく、おじちゃんと少し遊んだら退屈が凌げるかもしれないと思ったから、呼び出したの。 これを食べたら、ここのホテルでセックスしない?」
俺はその言葉に口に含んでいた食べ物をつい吹き出してしまった。 角度を調節したおかげで、幸いにも彼女に飛んでいなかったが、床は食べ物が飛び散っていた。 唖然とした。
「一体今何を言ってる? 冗談がきついじゃないか?」
「冗談じゃないわ。 本気なの。 だから、こういう高級ホテルに来たじゃない。 前のように、相手も安いラブホもそれほど拘らなかった時は、ぶっちゃけどういう状況で処女を奪われてもかまわないと思っていたけど、今は気が変わったの。 ここの最上階に、政治家や社長たちが使うようなスイートルームがあるの。」
どういうわけか、俺は何か重要な選択の岐路に立たされているようだった。 ちらっと彼女の目をみたが、何も読めなかった。 むしろ彼女の方が俺の反応を窺っている様子にみえる。 瞳がきらめいていた。 どんな反応を期待しているのだろうか。
全くわからない。 九空は本当に予測不可能だ。 勿論、確実に一つは言える。 彼女の言う通りにここでセックスをするのは、クレイジーで無謀な選択だということ。 彼女の攻略ランクを見ても、性格を見ても、結論はそうなのだ。
九空が俺のことを好きならまだしも。 いや、それはない、俺の首を賭けてもいい。 少し愛着のいくおもちゃということなら、わかるが。 セーブをした後、ロードを信じて、挑んでみるというのも話にならないだろう。 急に背後で、潜伏していた警護員が俺の頭でも撃ってしまえば、もう終わりだ。 即死すれば為す術もないのだ。
それよりも、俺は九空と成り行きで何の意味もないセックスはしたくなかった。 よくわからないが、心の中で、目の前の身勝手な女を大切にしたいと思ったから…? えっ? 畜生。 自分に文句を言いながら、太ももをつねった。 よくもイカれた考えがよぎるものだ。
そして、こうやって九空のペースに飲み込まれては、またどういう罠に陥るのか分からないので、そのまま席から起き上がってしまった。
「そんなにすぐやりたい? おじちゃん発情してるのね。 でも、ご飯は全部食べたらどう? 最後のごちそうなのに、そんなに急ぐことはな…。」
一瞬、失望したような目つきがよぎったようだが。 おいおい。 俺はその一瞬の目つきを見逃さず、九空の手首をつかんだ。 そして力いっぱい彼女を立たせた後、再び引っ張ってそこを出た。 しかし、今回は先とは違い、拒否反応を示した。 腕を激しく振り切って、俺の胸倉を掴むほど。
「何すんのよ。 おじちゃん、ついに狂ったの? 私、こんなに無礼なのは我慢できない…。」
そんな九空に俺は少し声を荒げて言った。 壁ドンでもするべきか。 もう、なるようになれ。
「つまらないって言ったろ?」
「え?」
「変な罠はやめて、俺についてきて。 つまらない時は遊ぶのが一番だろっ? さっきのあの車、すぐ呼んで、俺たち繁華街まで連れて行けと言って。」
「セックスじゃなくて、他のところに行こうって?」
九空はしばらく躊躇っていた。 そうやって何か悩んでいたが、俺を一度見上げると、考えを固めたのか、警護員に合図をした。 車を準備させているようで、俺は、彼女の手首を掴んだまま、ホテルを抜け出した。 今回は手を振り切らずについてきた。 外へ出てみると、車は既に待機しており、彼女を先に乗せてから俺も車に乗り込んだ。 それから、俺らは繁華街へと到着した。 車が止まり、停留所前で降りた。 降りると彼女は俺に向かって目をつり上げてみせた。
「それで、どうするつもり? おじちゃんが言い出した言葉、守らないとどうなるか、私も保証できないけど? さあ、楽しませてみて。」
「分かったから、ついて来て。」
俺は再び彼女の手首を掴んで引いた。 ただ、先のように力ずくで引っ張るのではなく、あくまでも優しく引っ張って行く感じで。 最近、九空に対して、かなり大胆な行動をとるようになった気がした。 免疫がついてしまったかのように、変に後先考えず立ち向かっているような。 まあ、どうせ、何をやってもやられるなら、堂々と立ち向かう方がむしろいいだろう。 昔のようにうじうじするのはもう嫌だった。
とにかく俺は繁華街にあるカラオケに彼女を連れて入った。 聞くまでもなく、こんなところに来たことはないだろう。 彼女は不思議そうにカラオケのルームの中をきょろきょろと見回していた。 警護員たちが何だかせわしく動いているようにみえたが、無視した。
「あまりにも密閉された空間じゃない? ここでセックスするの? さっきのホテルの方がよくない?」
「いい加減にしろよ。 セックスの話はもうよせよ。 正直、本気でセックスする気もないくせに。」
「それをおじちゃんがわかるわけないでしょう?」
「まあ、とりあえず歌う。」
俺は彼女の話を無視してマイクを手に取った。 勿論、歌が上手いわけではない。 自信はなかったが、ただ大きく声を張り上げた。 叫ぶように歌うと、彼女は俺をきょとんとした目で見つめた。 すると、やたら笑い始めた。
「それ、歌なの? キャハッハ。 笑える…。 ほんと下手くそね。 プフッ。」
「君、普段、歌手の生歌しか聞いてないだろ? だから、耳が肥えすぎてるんだよ。 これが普通だよ、普通。」
「まあ、そうかもね。 もっと歌ってみて、聞いてあげるわ。でも、ほんと笑える。」
そんなに可笑しいのか、彼女は笑いながらお腹を抱え始めた。 少し苛立ってきたから、俺は彼女にマイクを渡した。
「おい、俺だけ歌うのも変だろ。 君も歌ってくださる? そんなに嘲笑いしてしてる君は、どれほど上手いのか、見てやろう。」
「え? 私、知っている歌がないわ。 パーティー行けば、それは歌手が歌うのを聞いたりはするけど、歌ってみた事なんてないもの。」
「まさか…。 一つくらいは歌える歌があるだろ? 叫んでごらん。 何がそんなにつまらなくてむなしいのか分からないけど、叫んだら、気持ちもよくなるはず。」
すると、彼女はじっくり考えているようだったが、若干照れくさそうに切り出した。
「じゃあ、童謡もある? 幼稚園の時に歌ったような気もする。 それ以後、音楽の授業は全部無視したけど…。」
童謡? 童謡ぉぉおおう? 辛うじて知ってる歌が童謡かよ。 何とも言い表せない笑いが押し寄せてきたが、表情に出さないように太ももをつねる。 俺は、嘲笑いし、からかうつもりで、歌本にある童謡を見ながら言った。
「ぞうさんはどう? これ知ってる?」
「ん? 幼稚園の時に歌ったことがあるかも。」
よし。では一度歌って頂こうではないか。 俺はぞうさんを選曲して彼女にマイクを渡した。 彼女は少しためらっていたが、音楽が流れると両手でマイクを握り歌い始めた。 幼稚園のお遊戯のポーズだった。
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