第50話

実は、これも幼い頃に師匠が骨を丈夫にさせる目的で、彼女たちに牛乳を飲ませていたことから始まった間違った常識だった。 牛乳に飽きていた先輩たちが、一番年下の氷上に牛乳を押し付けていた。 牛乳をたくさん飲んでこそ、自分たちのような美肌を備えた美人になり、また、強くなれるという、でたらめを言ったのだ。 それを信じ切った氷上は、それ以降、習慣的に牛乳を飲むようになった。 大人になった今までも。


とにかく賭けに負けた氷上は道場の外へでて、薪割りを始めた。 暑くなって上着を脱ぎ捨てた。 胸を圧迫する白い布がぐるぐると巻かれている。 熱心に斧仕事をしていたところ、後ろから声が聞こえてきた。


「美憂奈(みゆな)」


耳慣れた声に氷上は、とっさに斧を置いて頭を90度下げた。


「こ、こんにちは。師匠様」


彼女に挨拶をされた中年の女がうなずいた。


「依頼が入った。」


「え? 今ですか?」


「そう。」


師匠の命令は絶対だった。 少なくとも独立する前までは。 勿論、独立するからと完全に抜け出せるわけではないが。 彼女は脱いでおいたTシャツを再び着た。 彼女の師匠は依頼内容が書かれた紙切れを氷上に投げつけては、中へと入って行ってしまった。


メモを読んでみると、拉致された子供を助ける仕事だった。 どうやら、ある政治家の息子が拉致された模様だった。 氷上は剣を持って指定された場所へと向かった。 2年前、20歳の誕生日に師匠から貰った古びた乗用車に乗り込んだ。 解決師という職業に、足になってくれる自動車の存在が、必要不可欠だった。


エンジンをかけて車を走らせ、氷上は紙切れに書かれた場所へと到着した。 車を下りる前にバックミラーにかけておいた、幼い頃に死んだ実の弟の写真にキスをした。


「行ってくるね。」


写真に向かってそう言い残し、車から降りる。 貸倉庫のような建物だった。 氷上に気づいた男たちが近づいて来る。


「おい、お嬢さん。 ここは出入り禁止だよ!」


氷上は返事もせずに剣を抜いた。 杖のような鞘から、刃を光った。 そして、その刃は男の足をそのまま切り裂いてしまった。


「ヴアアアッ!」


悲鳴が響き渡ると、暴力団のような男たちがどっと押し寄せてきた。 暴力団だなんて。 単なる拉致ではない、お金の絡まるような何かの他の権力争いの匂いがした。 だから、こんなやからがたむろしているのだろう。 しかし、そんなことは、どうでもいい。 解決師である自分は依頼さえ解決すれば良い。 でも、どこか、気には入らないのは事実だ。


死んだ弟と同じ年頃の男が一人もいなかったのである。


体格の大きい老いた男ばかり。 だから容赦なく全員切り裂いてしまった。 血が飛び散る。 倉庫の床が血で染まった。


「こ…この、怪物みてぇな女が…」


背中を刀で切られ倒れた男が手を震わせながら言った。 不細工、怪物みたいな女、生きていて最も聞き慣れた言葉だった。 不細工というのは主に先輩たちから聞き、怪物みたいな女というのは今のこのような状況で何度も聞いていた。


今となっては何の動揺もないのか、氷上はそのまま顔を背けた。 すると、柱に縛られている男の子が見えた。 5歳くらいの子供だった。 氷上は急に胸がドキドキした。


「ぼくちゃん。大丈夫?」


氷上は慌てて縛られている子供を解放してあげた。 しかし、男の子は先見た状況があまりにも衝撃的だったのか、彼女の手が触れるや否や泣き出した。


「ウアアアアンッ!!」


ぶるぶる震えながら、ちょろちょろと小便まで漏らし始めた。 氷上は急激に感情が冷めてしまった。 泣かれるのは本当に嫌だ。 泣くのは弱い者の弁明だと思うがゆえに、嫌気が差した。 勿論、そこには、これほどの幼い男の子までが、自分を見た瞬間泣いてしまうという虚脱感と少しの怒りも混ざっていた。 やはり、直ぐに泣きじゃくる子供たちは弟ではない。


自分の弟がこんなにひ弱くなってしまったなんて有り得ない。 幻想が消えると現実が迫ってきた。


そう、実の弟が生きていたら18歳くらいだろうから、こんなチビではない。 自分を実の姉のように思ってくれるには、もう少し大きくなければならない。 芳年、22歳の氷上はそう心に誓った。


電話で仕事が終わったことを知らせ、泣いている子供のそばでしばらく待った。 すると、両親が現れて子供を連れて行った。いや、親ではなさそうだった。 保母だろうか。 まあ、関係はなかった。 泣いている上に弟でもないチビなど、元から関心もなかった。


そして歳月は流れる。


3年が経ち、氷上はついに独立した。 自分だけの空間ができたということがとても嬉しかった。 先輩たちには今もなお勝てなかったが、師匠は独立を認めてくれた。 本物の解決師への第一歩だった。


その日も氷上は依頼をあっさり解決し、帰り道にコンビニで1000mlの牛乳を買った。 仕事の後の牛乳は彼女の唯一の幸せだった。 しかし、一生飲んできたにもかかわらず、きれいになったという言葉を聞いたことはなかった。 先輩たちが嘘をついたのだろうか。 牛乳を飲めば美しくなれると言っていたのに。 コンビニのガラスに映る自分の姿を見て、氷上はそう思った。


勿論、コンビニの窓に映った彼女は目鼻立ちがはっきりしていて、やや厚めの唇が魅力的な、非の打ち所がない美人だった。 勿論、この事実を話してくれる人は彼女の周りにはいなかった。 24年という歳月の間。


むしろ不細工だといじめる先輩たちと、狂ったように刃物を振り回している彼女に向かって化け物だと呼ぶ男たちがいるだけだった。 どこかなく危険なにおいが漂う彼女だったためにナンパをしてくる人もおらず、彼女は妥当な評価を受けたことがなかった。 剣と一緒に生きてきた彼女は幼稚園どころか、小学校、中学校、高校にも通ったことがなかった。 義務教育など師匠の力で全てパスさせた。 専ら剣の道を重要視する師匠だったから。


そうは言っても、彼女の師匠が基本的な教育をさせなかったわけではない。 氷上は、先輩たちと一緒に暮らしていくのに必要最低限の教育は受けた。


彼女はコンビニを後にした。 急いで剣についた血を拭きたかった。 そのまま鞘に入れたから刀が泣いているだろう。 足取りを急がせていると、いきなり彼女は立ち止まった。


[執事カフェ]


目新しいカフェの看板を発見したのだ。 中を覗いてみると、年下に見える男たちが執事の服を着ておもてなしをしていた。 ここは天国なのか。彼女はときめく心で店内へと入って行った。

自分に甘えてくる男や、頭を撫でてあげられる男がいるだろうか?

そうであってほしいと思いながら。


「おかえりなさいませ、お嬢さま。」


氷上の表情は暗くなった。 お嬢さまだなんて。瞬く間に心が冷める。


「お嬢さま、注文はどうなさいますか?」


仄仄とした容姿の年下の男が注文を促してきたが、急に関心がなくなった。

甘え方が違う。 むしろ自分のことをおもてなししようとしている。 彼女が望んでいるのは自分が面倒を見てあげられる弟だった。 嫌気がさしたが、それでも、せっかく入ったため、すぐ帰るのも恥ずかしくなり、メニューに見向きもせずに牛乳を注文した。 勿論、先ほど1000mlの牛乳を飲み干した彼女だったが。


「え? お嬢さま、うちのカフェに牛乳は…。」


「えぇ?」


氷上は腹が立った。 本当に有り得ないというような目つき。 こいつのお嬢さまという声も聞きたくないのに牛乳もないなんて。 年下の男が多いからと期待した自分が馬鹿らしかった。


「じゃ、要らない!」


そう叫びながら剣を持ってカフェの外へと出てきてしまった。 気狂い女というかのように見つめる周りの女たちの視線に恥ずかしさが頂点に達してただ走った。 きれいなやつらが私の気持ちなんてわかるものか。 氷上はそうぼやきながら家へ帰った。


家に着くとすぐにテーブルの上にのせておいた、弟の写真の入った写真たてを抱きしめた。


「やっぱり、あなたしかいない。 チュッ」


そして、写真たてに口をつけた。 深刻な状況だった。 そして月日は流れた。


芳年27歳 。20代の端に立った氷上は今日も無心に依頼を解決しているところだった。 先ほど腕を切り裂かれた男が、残りのもう片方の腕で氷上に向かって拳を振り回したが、氷上はその手を蹴飛ばした。 地面に倒れてうめく男の胸倉を掴んで言った。


「もう片方の腕も切られたいの? さて、どこに隠したのかな?」


依頼内容は企業の秘密帳簿が盛り込まれた書類だった。 残りのもう片方の腕まで危機にさらされた男はぶるぶると震えながら答えた。


「お…奥の金庫に…。」


氷上は男を再び蹴飛ばしては金庫の方へ向かって歩いた。 固く閉ざされている金庫を剣で切り壊した。 道場代々伝わる名剣の威力は偉大なものだった。 金庫は真二つになってしまった。 書類を取り出すと、氷上は再び無心に歩いた。


四方八方、男たちが倒れていた。 全員片腕や片足が切られていた。 幸いにも生きてはいる。


「き、気狂い女が。 一人でこんな…。」


男は渾身の力を尽くして呟いた。 黒いTシャツに黒いズボン、黒い靴、黒い髪。 まるで死者のように見えたため、死にかけながらも一言声を張り上げたのだ。 今度は気狂い女か。 氷上はその言葉を言った男の顔を蹴飛ばした。 その一撃でほとんどの歯が折れて鼻骨が陥没した男は、そのまま気絶してしまった。


「おだまり。 わかっているわ。」


既に聞くこともできない男にそう言った後、暴力団事務所から出てきた。 その時、電話が鳴った。


「もしもし」


「こんにちは。解決師さん?」


氷上は声に驚いて剣を脇に抱え、携帯を両手で持った。


「お、お嬢さま。 お久しぶりですね。ご用件は…。」


「一つ依頼を任せようと思って」


「は、はい! 何でもお申し付けください。」


「解決師さん、最近とても楽しそうね? 初めて会った時はそうでもなかったけど?」


初めて会った時とは。 昔のことが思い浮かんだ。 それはおそらく24歳の駆け出しの頃だった。 解決師として名声を積んでいると、師匠がついにいわゆる本家の依頼を任せてくれた。 本家から依頼を任されるというのは、解決師の名声に非常にプラスになった。 嬉しくて宮殿のような本家に行った氷上は、その日初めて彼女に会った。 制服を着て正座をしている少女に。 彼女は氷上を見るや否や笑顔で挨拶をしてきた。


「こんにちは」


氷上はその人形のような少女を見ては飛びついて頬をさすった。 こんなにも可愛い人がいるなんて、という思いから。自分とは違いすぎるではないか。


それがどれほど無礼なことであったのかは今考えてもぞっとする。 勿論、その時の少女は面白い人ね? と言って笑った。 あの時のことを思い浮かべながら氷上は答えた。


「あ、あの時は少し気が狂って…。」


8歳も年下の彼女だが、その空虚な瞳はあまりにも深くみえて、何故か身の毛がよだった。 何も知らずに頬をさすりながら目が合った時、感じたのだ。 流れ出る威圧感はまるで師匠に接しているかのようだ。 いや、それ以上だった。


一体どういう精神状態で頬をさすったのかは分からなかった。 おそらく、とても可愛い少女だったあまり、弟が思い浮かんでしでかしたのではないだろうか。 勿論、あの日に会って以来、ほとんど電話だけで仕事を受けていたため、実際に会うことは少なかった。 いや、できるだけ会いたくなかった。 仕事なんて電話で受ければよい。


「解決師さん、その反応、面白くないわ。 そういう態度なら、これ以上は解決師さんに仕事任せないわよ?」


「そ、それが…。」


そして、電話の向こうの女は依頼内容を説明すると一方的に電話を切った。 本家の依頼がなくなったら困るのに。 氷上はそう思いながら少し不安な顔で歩いた。 この依頼も依頼だが、今日は簡単な仕事をもう一つこなさねばならなかった。 時刻は夜中になりかけていた。


しばらく夜の街を歩くと、お腹がすいた。 ちょうど屋台が目に入ってきた。 こんなにひと気のない所に屋台とは意外だ。 久しぶりにやきとりが食べたくなった。 きっと、牛乳はないだろう。 やきとりにはやはり牛乳だと思いつつ、氷上は屋台へ入って行った。


―翌日


道場を訪れた氷上はその日初めて先輩に勝った。 野はまさかという顔で氷上を睨んだ。


「一体いつこんなに実力が? 一週間前は私が勝っていたのに…。」


氷上は飛び上がらんばかりに嬉しかった。 いに先輩の中で最も強いこの人に勝ったのだ。 その言葉は自分も美しくなったという言葉のようだった。 全ては昨日会った長谷川のおかげだった。 そう、自分をきれいだと言ってくれる弟のような男。 それがとても嬉しくて封印が解かれたように先輩らを負かしてしまったのだ。


いつも不細工だから勝てないのだと言っていた先輩たちに氷上は言った。


「先輩! 私もきれいになったということですね?」


幼い頃のいたずらを27歳になってまで信じているこの世間知らずの末っ子に、阿野はやれやれと首を横に振った。 どこから間違ったのか益々おかしくなっていった。 氷上は返事も聞かずにすぐに道場から飛び出て行った。 そして、コンビニへ駆けつけ牛乳を買い、飲み干した。 もっと美しくなりたかったがゆえに。

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