めがねが本体。

夕藤さわな

第1話

 ふと気が付くとめがねがなくなっていた。


「あら、やだ……どこにやったのかしら……」


 たんすの上やちゃぶ台の下、仏壇の前に置かれた座布団なんかもめくって探してみたけれど見つからない。

 ほんのついさっき。朝起きて、ふとんを片付けて、洗面所に顔を洗いに行く直前まではたしかにあったのだけれど。

 一体、どこにやってしまったのか。キョロキョロと探していると――。


 ――ああ、みーちゃん。

 ――待って、レンズが……。


 気の弱い声が聞こえた気がして私はハッと顔をあげた。


「ああ、そうだ! みーちゃんだ!」


 そう叫んで小走りに縁側へと向かう。茶トラ猫のみーちゃんは日の当たる縁側で午前中のほとんどを過ごす。案の定、座布団の上で丸くなったみーちゃんがめがねを抱きかかえて毛づくろいをしているところだった。

 自分の後ろ足ををザラザラの舌でなめ終え、今度はめがねを引き寄せて毛づくろい。


「ああ、レンズが……レンズに傷が……!」


 しゃーりしゃーりと音が聞こえるほどにしっかりとめがねをなめるみーちゃんに私は悲鳴まじりに手を伸ばす。

 ところが――。


「……」


 みーちゃんは前足で器用にめがねを引き寄せ、私の手から遠ざけるのだ。


「そんなにしたらフレームが曲がっちゃう」


 そんなこと知ったこっちゃないと言わんばかりにますますめがねを強く引き寄せ、ついにはお腹の下に隠してしまうみーちゃんにおろおろとしていた私だったけれど――。


「……まあ、いいか」


 結局、あきらめて縁側に腰を下ろした。


「みーちゃん、おじいちゃんのこと大好きだったものねえ」


 背中を二度、三度となでると取られる心配はもうないと察したらしい。みーちゃんは再びめがねの毛づくろいを再開した。


 めがねが本体、とは誰が言い出したのか。


 レンズがけてしまうからと棺に入れる前に夫のめがねを外した。見慣れない顔に戸惑っているうちに夫は火葬され、白い骨になってしまった。

 夫はもういないという実感がわかないまま、仏壇に置かれためがねを眺める日々。

 めがねをくわえて縁側に向かい、しゃーりしゃーりと夫の手の代わりにめがねを毛づくろいするみーちゃんもそうなのかもしれない。


 取り上げて、引き出しの奥にしまってしまうこともできる。

 だけど、私もみーちゃんももう年だ。のんびり縁側で日向ぼっこをし、居間でテレビを見て、時々、ご近所さんと井戸端会議をするだけ。大慌てで気持ちを切り替えて生きていかなければいけないわけでもない。


 しゃーりしゃーり――……。


 みーちゃんの毛づくろいの音を聞きながらゆっくりと目を閉じる。


 ――ああ、みーちゃん。

 ――待って、レンズが……。


 気の弱いあの人の声が聞こえた気がして私はくすりと微笑んだ。

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めがねが本体。 夕藤さわな @sawana

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