シンガン
あるはずのない影がひとつ、岩だらけの大地を縫って動いている。
前へ前へと進んでいく、その影はただ一点を見つめている。
「止まれ」
そう言われて、その影の主は足を止めた。高い山に登り、そこで思いがけず見つけた集落ではあまり友好的なもてなしを受けなかった。
「よそ者はお断りだ、ドラッグがついてくるだろう」
「その心配は無用です。ここに来る前の2日間はドラッグに遭遇していませんから。ところで、ここには安心して住むことが出来る保証があるのですか?それとも移動しながら暮らしているとか...?」
「...よそものに教える義理があるか?」
「...そうですね、つかぬことを聞きました」
その日の夜は結局家にあげてもらうことは叶わなかった。しかし集落に住む、ケイン、と名乗る老人の計らいにより、その老人の持つ小さな小屋に泊めてもらえることになった。
「いったい、こんなところまでどうやって来たのかね」
「あなたに教える義理が...」
そう言いかけ、泊めてもらっているという大層な義理があることに気づいた。
「このガスマスクは優秀なんですよ」
「そうじゃ無い、ドラッグのことだ」
「あぁ」
そう言って遠くの星でも見るかのように上を向く。
「最初は死のうと思ったんです。けど、汚染ガスで死ぬのは嫌だったから、マスクだけ付けて、いけるところまで旅をしようと思ったんです。そしたら意外とドラッグと遭遇しなくって、ここまで来てしまったんです」
聞くだけで身震いするような話をけろっと言ってのける、目の前の頭のネジのはずれた放浪人に、ケインは思わず声をあげて笑ってしまった。
「君、名前は」
「...アリスと、言います」
「ほう、女のような名だな」
「...」
泊めてやった義理で、今ならきっとなんでも話してくれるだろうと思った。しかし、同時に、いくら聞いても、きっと自分には、この放浪人の素性も心根も、一切理解できないような、そんな不思議な感覚があった。
2人はそのまま、小さな小屋で夜が明けるまで語り明かした。
この世界のこと、お互いの人生のこと、そして、『エデン』のこと。
「本当にもう行くのか」
「言ったでしょう、もういつ死んでも良いんです。これ以上あなたと話してたら死ぬのが怖くなってしまう」
「そうか...」
上り始めた朝陽の強烈な逆光で、背を向けたアリスのシルエットがくっきりと地面に濃く刻まれている。
アリスが旅立ったのはまだ、集落の人間がケインを除いて誰も起きていないような時間だった。
そして、ケインが異変に気づいたのは、そこから2時間も3時間も経った後だった。
生活音が活発に聞こえるようになった頃、集落の人間達が怒り心頭でケインの家を取り囲んでいる。
訳もわからずつかみかかられたケインは話を聞いて全身に鳥肌が立つのを感じた。
「リオが...いない?」
「そうだ!お前だな!逃したのは。昨日までいたあのよそ者に付いていくようにそそのかしたんだろう!!」
「...そうか、あいつは行ったか...!」
あまりの興奮に上手く回らない舌を必死に落ち着かせて話す。
「リオ...リオ!行ったんだな!!」
「おい、分かってるのか!!自分が何をしたのか!」
「...私じゃないさ、あいつが勝手について行ったんだろう。先の短いお前達のために生きるよりもよほど良い選択だ」
自分でもそう思っていた。しかし、そう思っていながら言い出せなかったのだ、リオを連れて行ってくれと。
逆光の中、去っていく背中を見てどれだけの後悔したことだろう。
しかし、結果的にリオはついて行った。こんな老人の手など借りずとも、自らの手でこの地を抜け出して行ったのだ。
もう思い残すことはない。ケインはそう思い、腹の底から、自分の醜悪な面を全て吐き出すかのように叫んだ。
「許せっ!!リオ!!すまなかった!!不甲斐ない祖父ですまなかった!!」
その日の夜、集落は、腹を空かせてやってきたドラッグに全てを荒らし回られ、跡形もなく消えた。
ケインが最後に流した涙も、大地の脅威に飲み込まれていった。
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