ピリオド2 ・ 1983年 プラス20 〜 始まりから二十年後 1 昭和五十八年三月九日「水曜日」
ピリオド2 ・ 1983年 プラス20 〜 始まりから二十年後
昭和三十八年、児玉亭の長男、稔は中学校の三年生。
卒業式の前日に、幼なじみの霧島智子とのデートの誘いに失敗し、どうにも気持ちが収まらない。
一方、智子の方は一条八重のことが気になりつつも、卵を求めて小雨の中を……。
1 昭和五十八年三月九日「水曜日」
確か、小雨が降っていた。
そんな中、智子の用事とはなんだったのか……が知りたくて、卒業式の日に稔は表へ飛び出したのだ。
そうして急坂を駆け上り、荒い呼吸のまま再び走り出そうとした時だった。
――あれ? あれって、智子……。
彼女の家とは反対方向、右手の方に智子の姿が見えたのだった。
さらにその隣には誰かいて、なんともデカい輩が右に左に揺れている。そんなのを智子が抱えるようにして、なぜか林の方向へ向かっているようだ。
――傘も差さないで、あいつ、何やってんだよ!?
大事な用ってのは、あの大男とのことだったのか?
そんな疑念に突き動かされて、彼はその後ろに付いて行こうとさっさと決めた。
ところがそのすぐ後だ。二人の姿が林の木々に隠れたところで、いきなり下っ腹に違和感を感じる。
押されるような鈍痛だったが、それでも彼は痛みを堪えて歩みを進めた。
そうして稔も林の中に入り込み、さらに二人との距離を詰めていこうという時だ。
突き刺すような腹痛と共に、強烈なる便意が彼の全身を貫いた。
――なんでなんだよ!
そんな苛立ちと一緒に脳裏に浮かんできたのは、まさにこうなることへの声だった。
「おいおい、もう三本目だぞ! お腹ピーピーしたって知らないからな!」
そんな店主の声に、彼は間髪入れずに言い返すのだ。
「今日はね、飲みたい気分なんだ! それにさあ、俺は腹ピーピーなんてならねえよ!」
そう言って、三本目の〝ラムネ〟を掲げるようにして口付けた。
卒業式が終わって、友人と遊ぼうなんて気分には到底なれない。そうかと言ってまっすぐ帰宅するのも嫌だった彼は、近所にある駄菓子屋に帰宅途中に立ち寄ったのだ。
そうしてラムネ三本飲み干した結果、店主の心配が見事に的中。
腹から驚くくらい「ギュルル〜」なんて鳴り響き、一刻の猶予もないのはどう考えたって明らかだった。
それでも幸い、ここは人が滅多に通らない。身を隠すにも困りゃしないし、強いて言うなら〝落とし紙〟がないってところが問題なだけだ。
それでもジャンパーのポケットを探ってみれば、一週間は入れっぱなしのハンカチがある。かなり汚れてヨレヨレだが、それでも落とし紙の代わりとしては申し分ない。
――頼む! 頼むから!
二人よ、このまままっすぐ行ってくれと願いつつ、彼は茂みの中へと走り込んだ。
そうしてズボンを下ろし、再び立ち上がるまで、きっと三十秒とは掛かっていない。
なのにそれから歩けど歩けど二人の姿は現れず、十分ほどして林の反対側まで歩き切ってしまった。
もしもこの時、そこで二人のことを諦めていたなら、その後、数日間あった地獄の時間は経験せずに済んだだろう。
しかしそうしていたら、それから何年も続いた苦痛の日々がより辛く、さらに厳しいものなっていたはずだ。
――あれはいったい、なんだったのか?
林でのことから二十年……稔はすでに三十五歳になっていた。あの頃の記憶もずいぶん薄れ、今では滅多に思い出すこともなくなっている。
彼の中で辛かった日々は確実に、遠い過去のことに成り果てていた。
ところがちょうどひと月前、いきなり知らない男から電話が掛かった。
「とも子は無事か? 無事なのか?」
どこかで聞いたような気がする声だが、名前も名乗らずいきなりだから、
「とも子って……いったいなんのことです?」
彼は思ったままをそう返す。
「なんのことって? あんたは児玉稔だろ? まさか、あの約束を忘れたか?」
そう続いた言葉に驚いて、彼は次の台詞を飲み込んでしまった。
きっと一秒か二秒、長くたって三秒以上ってことは絶対ない。
そんな短い沈黙に、相手はいきなり語気を強めて告げたのだった。
「おまえ……まさか、あっちの人間なのか!?」
――あっちの人間?
そんな言葉に、稔は訳も分からず声を荒げた。
「だから、なんのことですかって!」
次の瞬間、息を呑むような感じがあって、相手はいきなり電話を切ってしまうのだ。
――なんだってんだよ!
なんて感じを思ったが、それからすぐに、受話器を置いた途端だった。
――とも子……って、まさか、あの智子のことか?
ここ十年、もしかしたらそれ以上に亘って、彼はその名前を口にさえしていない。
だから「とも子」と聞いたからって、単に女性の名前だってくらいの認識だった。
ところが電話の男は安否までを尋ね、さらに「あの約束」とも声にする。
ここまでくれば、すぐに思い出せなかった稔の方が責められたって仕方がない。それくらいに衝撃的な事件だったし、実際智子は未だ、行方不明のままなのだ。
あの日、二人の入り込んだ林の道は一本道で、左右は名前もわからぬ雑草だらけ。かくれんぼでもしようってんじゃないかぎり、道を逸れようだなんて考えないはずなのだ。
ところが歩けど歩けど二人の姿は現れないまま、稔は林の反対側から再び林の道へ戻っていった。
二人は林道と呼ぶには細すぎる道をどこかで外れ、きっと草木の生い茂った空間へと入り込んだ。そこまではすぐ分かったが、どこから道を逸れたか?
左手には草木の先に網のフェンスが見えている。
となれば二人が向かうのは、当然右手に広がる空間へだろう……。
――でもどうして、こんなところに入ったりしたんだ?
それもフラフラしている大男を抱えてだから、よっぽどの理由があったと思うしかないだろう。
そんな確信を胸にして、稔は少しでも入りやすそうなところを探し始めた。
すると半分くらい来たところで、木々の間にぽっかり空いたような空間がある。
踏み付けられたような跡もあり、彼は躊躇することなくその空間に飛び込んだのだ。
ところが一メートルも進んだところ、きっと三歩目の足が着地した瞬間だ。
いきなり頭にガツンと衝撃。
あっと思う間もなく気が付けば、稔は地面に突っ伏している。
――え! なんで!!
顔は完全に雑草の中で、彼は慌てて辺りを見廻し立ち上がるのだ。
――何が、あったんだ!?
そう思った途端、後頭部にズキンと痛みが走った。
恐る恐る手をあてがってみれば、何やらヌルッとした感触がある。驚いて手のひらを覗き込むとそこそこしっかり血が付いていた。
となれば、何かで殴り付けられたに違いない!
そんな事実を確信し、稔はさらに強く思った。
――何かあるんだ! 急がなきゃ!
恐怖を必死に抑え込み、ただただ急いで智子を見つけ出そうと思うのだった。
しかしその時、彼は分かっていなかった。
その日は一日薄暗い日で、家を出た頃だって薄暗かった。それでも日が暮れるには随分あったし、昼間なんだから暗いにしたって林の中も見通せた。
ところがいきなり殴られ、気付いた時には辺り一面、日暮れのように暗かったのだ。
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