ピリオド1 ・ 1963年 プラスマイナスゼロ 〜 すべての始まり  3 昭和三十八年三月九日「稔と智子」

3 昭和三十八年三月九日「稔と智子」


本当ならば、東急文化会館にある渋谷パンテオンで映画を観ていたはずだった。

そうしてきっと今時分、智子の好物、ボンゴレスパゲッティでも食べているってところだろう。

偶然、智子の卒業式も稔と同じ三月八日の金曜日と聞き付け、稔はドキドキしながら智子の家に電話を掛けた。

――卒業式が終わったら、渋谷で一緒に映画を観ないか?

そう声にしてから間髪入れずに

――実はさ、前売り券買ったんだ。ほら、智子観たいって言ってたろ? 

そこでほんの少し間を開けて、いよいよって印象いっぱい告げるのだ。

――ほら、黒澤監督の〝天国と地獄〟……。

――え? 天国と地獄なの? 

きっと智子もここで、ほんのちょっとだけ考えるのだ。

それでもすぐに答えが返って、

――え〜そうかあ〜、前売り券あるんだあ〜、じゃあ、一緒に行こうかな〜。

なんて感じを想像したが、実際のところはまったく持ってぜんぜん違った。

「え? 明日? 無理よ! 絶対無理! 渋谷になんか行けないから、わたし……」

  稔が映画の題名を口にする寸前、それは間髪入れずのリアクションだ。

「どうしてだよ! 天国と地獄だぜ! 智子、観たいって言ってたじゃんか!?」

「その映画は観たいけど、明日はダメなの……明日はね、大事な大事な用事があるんだ」

そう言って、彼女はしっかり理由も言わずに電話を切った。

そうしてその翌日、卒業式が終わってから稔はほぼほぼまっすぐ帰宅する。

「あれ? あんた今日、映画に行くんじゃなかったっけ?」

 そんな美代子の声を思いっきり無視して、彼はさっさと二階に上がった。

制服のまま畳の上に腰を下ろし、数少ないレコードの中からエルビスプレスリ―に手を伸ばす。

 文句を言って来たって知るもんか! なんて決意を心に思い、いつも以上の大音響で〝ハウンド・ドッグ〟を聞き出した。

 いつもなら、ボーカルに合わせて口ずさむところだが、どうにもそんな気分じゃまったくない。

――大事な大事な用事があるんだ!

 ついついそんな智子の言葉が思い出されて、

 ――くそっ! 大事な用ってなんなんだ!

 どうして聞き出そうとしなかったのか……時が経てば経つほど後悔の念が湧き出して、稔はいよいよ思うのだった。

 ――そうだ! 今から行って聞いてみよう!

 出掛けていたらその時は、どこに向かったのかを家の人に聞けばいい。

 たった二分十五秒の曲が終わらぬうちにさっさと決断。

それから彼はプレイヤーのコードをコンセントから引っこ抜き、慌てて部屋を飛び出したのだ。

 

 ちょうど同じ頃、気になる相手はやはり家にはいなかった。

 元々、外出する予定など無しだったから、中等部の卒業――と言っても、ほとんどの生徒がそのままおんなじ高校に進学する――式が終わって、彼女はまっすぐ帰宅していた。

大慌てで着替えを済まし、居間に置かれたテレビを点ける。

チラチラ時計に視線を向けて、今か今かと番組の開始を待っている時だった。

「智子ちゃん〜 ちょっと〜 買い物に〜 行ってくれる〜」

 なんとも間延びした声が響いて、智子は即行金切り声を上げたのだった。

「ダメダメ! 今日はダメだって知ってるでしょ!」

「え〜 だって〜 三時からでしょう〜 智ちゃんが観たい番組って〜」

 ――この人はどうして、いちいち語尾を伸ばすんだろうか?

「もう三十分で始まるんだから、絶対にダメ!」

「ふ〜ん、そうなの? 今夜すき焼きなんだけど〜 卵が切れちゃって〜 それでもいいなら、いいけどね〜」

 すでに母、沙智は居間にいて、智子のことを妙にニコニコ顔で見つめている。

 ――すき焼きに、卵がないのはダメでしょうよ!

 智子は心底そう思い、ここぞとばかりに告げるのだ。

「だったら! お母さんが買いに行ってよ!」

ところがつい今し方、父、勇蔵から連絡があって、これから客人を連れて帰るという。

 となれば当然、沙智が居ないわけにはいかないし、確かに走って行けば三時までには間に合うだろう……チャッチャッとそこまでを考え、智子は沙智に向かって慌てて告げた。

「ああ〜 分かった! 分かった! 卵でしょ! 人数分でいいんだよね?」

 そう言うと同時に、沙智の手にあった五百円札を奪うように抜き取った。

それから智子は玄関に向かって一直線。

「ちょっと〜 コート着て行きなさい〜 外寒いわよ〜」

 なんて声が聞こえてくるが、

 ――マフラー巻いていくから大丈夫だって!

 心の中でそう言い返し、玄関に掛かっていたマフラーをチャチャっと巻いて外へ出た。

 朝方降っていた雪が小雨になって、思っていた以上に外の空気は冷え込んでいる。

それでも智子は傘も持たずに飛び出したのだ。

実際、これが原因で風邪を引こうと構わなかった。

一条八重が一年ぶりにテレビに出る。

そんな報道を週刊誌で知って、彼女はこの日が来るのを指折り数えて待ったのだ。

一条八重……。

当代きっての予言師であり、世の女性憧れのファッションリーダー……智子はそんな彼女の大ファンだった。

 戦後間もなく発生していた福井地震を予言して、見事に一条八重は的中させる。

そこから新聞や雑誌にエッセイなどが連載され、女性を中心にみるみる人気を獲得。さらに〝街頭テレビ〟が普及すると、その美しさに男性ファンも一気に増えた。

 実際に、地震以外でも彼女の予言はけっこう当たった。

 テレビはいずれ一家に一台となり、将来は〝総天然色〟のテレビだって夢ではない。

 白黒テレビ一台がサラリーマン年収の何倍もする時代だから、ラジオでのそんな発言を信じる者などまずいなかった。

そんな時代がくればどんなにいいかと、人々は彼女の話を夢物語として楽しんだのだ。

もちろん智子もそんなひとりで、女性誌に一条八重が掲載されれば何があっても〝貸本屋〟に駆けつける。

両親に見つからないよう持ち帰り、彼女のページだけを何度も読み返すのが常だった。

ところがここ数年、一条八重の露出が激減する。

人気が衰えたわけではけっしてないのに、長年続いたラジオ番組が終了。

さらにテレビや雑誌にも滅多に出てこなくなる。

昭和三十八年を迎えてからは、彼女の姿はメディアから完全に消え去ってしまった。

 一条八重は、いったいどこに消えたのか!? 

世間がそんな話題で大騒ぎになった頃、いきなり降って湧いたようなテレビ出演なのだ。

 だからどうあったって見逃すわけにはいかないと、智子は傘も差さずに商店街目指して走って向かった。

 そうして住宅街の外れまでやって来て、後は坂を降ればあっという間に商店街という時だ。

 ――え? あれってなに?

坂の少し手前の道で、奇妙な動きをしている何かがあった。

最初は犬か何かと思ったが、あの大きさだったらそれこそ猛獣かもってことになる。

恐る恐る近付いてみると、薄暗い中でも手足がわかって、異様に大きい姿はどう見たって人間だ。

 男が地べたに倒れ込んでは立ち上がり、立ち上がったと思えば〝すってんころりん〟とばかりに寝転んでしまう。

 やはり踊りにしてはおかしいし、どう考えたって普通じゃないのだ。

 だからと言って、引き返している時間など絶対ない。

どうしよう……と思っていると、

 ――嘘! 寝ちゃったの?

 男が地べたに横になり、気付けばまるで動いていない。

――動き疲れて、寝てしまったとか? 

それにしたってここは表で、それも道路の真ん中だ。

ちょっと怖いな……と思いつつ、智子は駆け寄り声にしたのだ。

「ねえ、そこでいったい、何してるんです?」

そう告げてから、ドキドキしながら反応を待った。

しかし男は何も答えず、身動きひとつしようとしない。

それで少しだけ大胆になって、男の傍らにしゃがみ込み、智子はさらに大きな声を出したのだ。

「こんなところで寝ちゃったら、車に轢かれて死んじゃいますよ!」

 滅多にここは通らないけどね……などと、続けて思った途端だった。

電信柱に設置された水銀ランプが点灯し、男の姿をそこそこはっきり映し出す。

その瞬間、現れ出たものはあまりに悲惨。

血だらけで、腫れ上がった顔に声も出ず、智子は息を呑んだまま目を丸くした。

 すると男の方もその明るさに気が付いたのか、ゆっくり薄目を開けようとする。

 きっとすぐには焦点が合わない。

 あるいは上からの光が眩しかったか?

 微かに開いた瞼の奥で、瞳が左へ右へと小刻みに揺れた。

 そうして智子の顔を捉えた瞬間、男の顔が固まった。

そのままゆっくり目を見開いて、男はいきなり叫ぶのだ。

「おまえ! こんなところで何してるんだ!?」

 智子は思わず立ち上がり、二、三歩後ろに後ずさる。

 そうしてからやっと男を睨み付け、

 ――こんなところって、ここは天下の〝大道〟です!

 そんな言葉が頭に浮かんだ次の瞬間、男の方が身体を起こし、さらなる声を上げるのだった。

「どうやって! どうやってここに! やって来たんだ!?」

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