ピリオド1 ・ 1963年 プラスマイナスゼロ 〜 すべての始まり 2 児玉亭

2 児玉亭


そんな出来事から、半年ほど前のことだ。

昭和三十七年の秋口……茹だるような暑さが幾分和らぎ始めた頃だった。

高台から下った先にある商店街の一角に、旨いと評判しきりのやきとり屋。

児玉亭という店で、昼間は定食を出し、夕刻過ぎれば呑み処となる。この辺りではそこそこ人気の繁盛店だ。

ちょうど昼の時間が終わり、夜の営業までの中休み。

もちろん休みと言っても、慌てて昼食を取り終えた後は夜の仕込みで忙しい。

 そんな時間に、階段下から声が響いた。

「こら! 稔! 音楽ばっかり聴いてないで、ちゃんと勉強しなさいよ!」

 そんな母親の声がしっかり届き、それでも彼はいつもように無視を決め込む。

 ところがその日はいつもと違って、そんなことでは終わらなかった。

ドタンドタンと足音が響き、なんと母、美代子が二階の部屋までやって来る。

「ちょっと! 下まで聞こえるんだから、もう少し音を小さくしなさい!」

扉を開けるなり大声を出し、振り返りもしない彼に向かってさらに続けた。

「あんた勉強大丈夫なの!? 受験まで、もう半年もないんだよ!」

中学三年生である児玉稔は、そこでやっと畳の上から起き上がるのだ。

かったるそうにレコードプレイヤーに手を伸ばし、一気に音量を下げて美代子に向かって大声を出した。

「どうせ店を継ぐんだから、高校なんてどうでもいいって!」

「誰がそんなこと決めたのよ! 父ちゃんもわたしも、継いで欲しいなんてこれぽっちだって思ってないんだよ! だいたいねえ、今どき高校くらい出てなくてどうするの? それにねえ〜」

「わかった! わかった! もういいって、もうたくさんだって!」

美代子の言葉を遮るようにそう言ってから、彼はスックと立ち上がる。

あっという間に美代子の脇をすり抜け、そのまま部屋を飛び出した。

階段を駆け下り、勝手口から外へ出る。たまたまあったサンダルを突っ掛け、稔はアテもないまま歩き出した。

 そうして十分くらいが経った頃、彼は多摩川の土手に立っている。

 平日の夕刻だ。こんな時間に歩いている人など滅多にいない。

 ところがいきなり声が掛かった。

「こら! そこのキミ! 勉強もしないで、なにフラついてるの!?」

 一瞬ドキッとしたが、すぐに声の主が誰だか分かった。

稔が慌てて振り向くと、そこにいたのは幼なじみの同級生。

いかにも怒っているふうに口を尖らせ、眉をひそめて立っている。

そんな顔付きを一目見て、

――こんな顔も、可愛いなあ!

などと、つい口角が上がってしまいそうなるのを必死に堪え、いかにも「心外だ!」と言わんばかりにちょいと語気を強めて声にした。

「なに言ってるんだよ、そっちだってフラついてるのは一緒だろ!?」

「ちょっと! こっちはぜんぜん違うわよ! わたしは買い物言いつけられたの! そしたらさ、今にも死にそうな顔した稔ちゃんがトボトボ歩いてるじゃない? だからね、こっちは急いでるってのに、わざわざ付いて来てあげたんでしょ!」

「死にそうな顔なんてしてねえって!」

吐き捨てるようにそう言って、彼はさっさと踵を返して歩き出した。

 声を掛けて来たのは霧島智子で、丘の上にある大きな屋敷のひとり娘だ。

幼稚園は一緒だったが、彼女は小学校から私立に通い出したから、卒園後はしばらく会っていなかった。

 それが小学校三年生になった頃、智子がちょっとした事件に巻き込まれ、稔が偶然そんなところに居合わせる。

稔の奮闘によって智子の方は何事もなく、それ以来、二人は一緒に遊ぶようになった。

そんなのは、どちらかといえば智子の意志が働いたせいで、稔とすれば――誘われるから仕方なく――といった感じが強かったのだ。

ところが中学に上がった頃から、そんな関係にも大きな変化が現れる。

 智子は日に日に美しくなり、通っている中学では学年で一、二を争う成績だ。

さらに運動の方もバッチリで、バレー部のキャプテンとして大活躍なのだ。

 一方稔の方は何から何までパッとしないから、どうしたって二人のパワーバランスは否が応にも変化した。

 そうして今や、智子が言ってくるのは稔の成績のことばかり。

「ねえ! おばさんに聞いたわよ! 稔ちゃんまた赤点取ったんだって? もう、いい加減ちゃんと勉強しなさいよ! でさ、その追試っていつなのよ!」

 いきなり稔の部屋に現れて、真顔でそんな言葉を投げ掛けてくる。

こんな時……美代子相手のようにできればいいが、例えどんな言葉を返したところで稔の方に勝ち目はなし。

だから逃げるが勝ちとさっさと決めて、智子を置いてきぼりにしたまま一生懸命歩き続けた。

そうして一分くらいが過ぎ去った頃、

――もういい加減、大丈夫だろう……。

 そう思って脚の力を抜き掛けた時、いきなり智子の声が響くのだった。

「ねえ、いったいどこまで行くの?」

え!? と思って真横を向けば、なんと智子の顔がそばにある。

「どうせあれよね? お母さんにさ、勉強しなさいってさんざん言われて喧嘩になっちゃって、慌てて家を飛び出したってところでしょ? 」

 ――こういうところが好きじゃない!

「当然慌ててたから、お母さんのサンダルなんか履いちゃって、とにかく家から離れたかっただけから、もちろん行く宛なんかありゃしない〜」

 ――ムカつく!

「そうでしょ? そうなんだよね〜 しょうがないなあ〜」

 ――そうじゃねえって!

 などと心の中で叫んでみても、実際のところはぐうの音だって出やしない。

そうして結果、醤油の瓶が重いだのなんだのと言われ、智子の買い物にまで付き合わされる。

醤油一升瓶を抱えて急坂を登り、とうとう彼女の家まで運ぶ羽目になった。

 ――なんで俺が持たされるんだよ!

 なんて気持ちでいっぱいだったが、

「稔ちゃん、ありがとう! 助かっちゃったわ!」

 そう言って手を振る智子の笑顔が浮かんでは消えて、稔は結局思うのだった。

――ま、仕方ねえか……。

「ま、なんだかんだ言っても、あいつは女の子だし……」

 そんな言葉を呟いて、彼は足取りも軽く家に向かって走り出した


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る