ピリオド1 ・ 1963年 プラスマイナスゼロ 〜 すべての始まり

ピリオド1 ・ 1963年 プラスマイナスゼロ 〜 すべての始まり

         

カスリーン台風から十六年後、時はすでに、昭和三十八年となっていた。 

もしも生きていればだが、十代半ばくらいに見えていた少女も、今頃は、

三十代前後となっているだろう。


   

1 昭和三十八年三月九日(土曜日)


昭和三十八年を迎え、三か月とちょっとが過ぎ去っていた。

戦後十八年近くが経ってはいたが、まだまだ人々の生活は慎ましく、皆、食べるために一生懸命働いていた。

そこは世田谷区の外れも外れ、近くを流れる多摩川を越えれば神奈川県となる辺り。

丘の上には、裕福そうな住宅などもあるにはあった。しかしそこから坂を下れば、バラックのような小屋も散見され、まだまだ戦後の香りを色濃く残す頃だった。

雨が降れば土の道はぬかるみ、日が暮れると月明かりなしでは辺りは真っ暗だ。

もちろん、道のところどころを笠付きの裸電球が照らしはする。

ところがそんな光は弱々しく、辺りをぼうっと浮き上がらせるだけなのだ。

その日は、午前中雪がぱらつき、最高気温が四度行かないという寒々しい一日だった。

日没を迎えるまでに二時間以上はあるというのに、まるで日が暮れてしまったように薄暗い……そんな中、ひとりの男が奇妙な動きを見せていた。

高台にある住宅街から少し離れたところ、まるでそこだけ、時代に忘れ去られたように草木が鬱蒼と生い茂っている。

さらに奥へと入り込めば、まさに林ともいうべき空間が現れるのだ。

そんな場所で、長身の男が勢いよく地面に倒れ、そうかと思えば必死に立ち上がろうとする。しかしすぐ、男の身体は宙に浮き、そのまま地面に真っ逆さまだ。

透明な何かがそこにいて、男に向けて体当たりでもしているように、それはなんとも摩訶不思議な光景に映った。

男は背丈が異様に高く、それでいてかなり細身という体型だ。

さらに張り付くような布地を身にまとっているから、まるで〝かとんぼ〟が踊っているようにも映るのだった。

 やがて、男は立ち上がることを諦めたのか、四つん這いのままその場からの移動を試みる。両手両足を忙しく動かし、あっという間に二メートルくらいは進んだろう。

 ところがやっぱり、いきなりだった。

「グオッ!!」

 そんな呻きが響いたと思ったら、男の身体がフワッと地面から浮き上がる。 そこからあっという間にひっくり返って、背中から地面に激しく着地。

男の顔は苦悶に歪み、腹を抱えて唸り声を上げた。

見れば口元は血に塗れ、上顎の前歯がほぼ消え失せている。かろうじて残っている一本も、歯茎にぶら下がっているような有様だ。

 さらにこの状況が続くようなら、きっと前歯どころかその命さえ奪われかねない。

まさにそんな危機一髪……前歯五本を失ったところで、急に男の動きが消え失せた。

続いていた鈍い音もしなくなり、辺りには、本来あるべき静けさだけが舞い戻る。

そんな光景を、ジッと見ている者がいた。

住宅街から続く一本道に立ち、一人の少女が肩を震わせ立っている。

――え? あれって何?

野犬同士が喧嘩している? と思って彼女は足を止めたのだった。

ところがゆっくり近付いてみると、犬ってどころの大きさじゃない。遠目でも手足がしっかりわかって、異様に大きい姿はどう見たって人間なのだ。

――踊っているのかしら?

そうだったとしても……、

――ちょっと、危ない人よね?

などと思って回り道しようかなどと考えていると、いきなり男が地べたに倒れ込み、気付けばまるで動いていない。

――嘘! まさか動き疲れて、寝ちゃったの?

それにしたってここは表で、それも道路の真ん中だ。

――もう! 何やってるのよ!

ちょっと怖いな……と思いつつ、少女は男に駆け寄り声にしたのだ。

「ねえちょっと! そこでいったい、何してるんです?」

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