眼鏡

浅川さん

眼鏡_1

 Sはグラスをカウンターに置いた。

 カランと氷が小さな音を立てる。


 それに気づいたバーテンダーが近づいてきた。


「おや、今日は早いですね。何かありましたか?」


 Sは不機嫌そうな顔で少し考えたあと、「いつもの」と短く注文した。


「畏まりました」


 バーテンダーは気にするでもなく、グラスを取り、新しい酒を用意する。


 Sはこのバーテンダーとはそこそこ話すのだが、今日はそういう気分じゃなかった。仕事で大きなミスをしてしまい、落ち込んでやけ酒を決めている最中で、まだ心の整理ができていない。ここで話すとしたら、笑い話として整理できてからだろう。


 すぐに新しいグラスが目の前に置かれる。


「いつもの、お持ちしました」


「どうも」


 Sはグラスを取ると、中身をぐいと口に含む。濃厚な香りがアルコールとともに鼻を抜ける。ごくりと飲み干すと少々喉が焼ける感覚があった。


「………」


 バーテンダーは何か言いたげだったが、別の客の前に行き話し始めた。


「ふう」


 一つため息を吐く。

 小さめの音量で流れるJAZZが心のささくれを塞いでくれる感じがした。

 ここは落ち着く。バーテンダーも心根は優しいが、けしておせっかいではない。

 Sはそんなことを考えながら、今日一日の疲れもあって、自分でも気づかないうちに船をこぎ始めていた。


「こんばんは」


 突然耳元で声がして、Sは体を震わせた。


「おっと、失敬。眠っていたようだ」


 そう言いながら周囲を見渡すと、バーテンダーはまだほかの客と談笑していた。

 横を向くと、そこにはハットを目深にかぶった男が隣の席に座っていた。

 俯きがちであったり、照明の暗さもあって、顔はよく見えない。


 バーで飲んでいると、時折知らない人に話しかけられることがある。見知らぬ人との交流もバーの魅力だ。だから、男は話しかけられたこと自体は驚かなかった。


「ああ、どうも。こんばんは」


 Sはひとまず挨拶を返して相手を観察した。

 グレーのコートを羽織り黒いハットをかぶっている。中肉中背の男性だ。コートを着ているということは今来たばかりなのだろうか。


「あなたは………Sさんですか?」


 ハットの男が聞いてくる。


「ええ、そうですが………どこかでお会いしましたか?」


 どうして自分の名前を知っているのだろうと思ったのだ。Sにはこの男の背格好に見覚えは無かった。


「いや、先ほどバーテンに聞きましてね」


 男が接客中のバーテンダーのほうを指さす。


「ああ、そうでしたか。………もしかして私、いびきでもかいていましたか?」


 わざわざ起こしたということは、何らかの実害があったのではないかと次に疑った。


「ええ、ほんの少し。でも話しかけたのはそれが理由じゃないんですよ」


 ハットの男はにやりと口元が歪んだ。


「実は、あなたに使ってほしいものがあるのです」


 使って欲しいもの………?


 ハットの男は手のひらに乗るほどの箱を一つ、カバンから取り出した。


「お見受けするに、今日は何か不運が重なったのでしょう。そういう人にこそ、これを使っていただきたいと思っていたのです」


 ハットの男は箱を開いた。そこには金属製のフレームで固定されたレンズが見える。


「えっと、申し訳ないが今は買い物をする気はないよ」


 Sが断りを入れると、ハットの男は首を振った。


「これはビジネスの話ではありません。そうですね、マジックの類だと思っていていただくのが良いかもしれませんね」


「マジック?」


 ハットの男の意図がさっぱりわからない。Sは段々怖くなってきたが、彼の手の上に乗せられた謎のアイテムはSの興味を引いていた。


「ええ、これを見れば意味が分かります」


 ハットの男は箱の中からレンズを取り出した。するとそれは不思議なことに箱の中に収められていた部品が自動的に組み立てられアッというまに眼鏡のような形になった。まるで時計を早回ししたかのようだ。


「今、何が起きたんだ?」


 Sが尋ねると、ハットの男は少し笑った。


「これは形状記憶合金と磁力を用いた収納展開ギミックですよ。折りたためば栞ほどの大きさになる。薄さも世界一位です。ですが驚くのはそれだけではありません」


 ハットの男は眼鏡をSに差し出す。


「どうぞ、かけてみてください」


「いや、でも私は視力は悪くないんだ」


 Sは一度断ったが、ハットの男はそれでも引き下がらなかった。


「まあまあ、一度使えばわかりますよ」


 Sは少々困っていたが、その近未来的な造形の眼鏡が気になっているのも事実だ。Sは眼鏡を受け取り、普通の眼鏡と同じようにかけた。


「んん、何も見えないが?」


 視界は真っ暗だ。確かにバーの店内は暗いが、サングラスでも多少は見えるだろう。


「右側のヒンジにボタンがあります。そこを押してください」


 Sはハットの男に言われるがまま、ボタンを押した。するとすっと視界が明るくなる。映っているのはもちろんバーの店内だ。


「なにが違うんだ?」


 Sは男の方を見たが、そこに男はいなかった。


「あれ、いつの間に………」


 まだ眼鏡を返していない。慌てて立ち上がろうとすると、「ここにいますよ」と声が聞こえた。


「うわ!」


 Sは思わず声を上げてしまう。


「眼鏡をはずしてみてください」


 言われた通り眼鏡をはずすと、そこにはハットの男がいた。


「え、どうなっているんだ?」


「その眼鏡は少し先の未来が見えるのです」


 ハットの男が言った言葉の意味を考えるのに、Sはたっぷり10秒を使った。


「なんだって?冗談だろ?」


「いいえ、本当ですよ。ボディに搭載された極小の量子コンピュータが映像を処理し、最も可能性の高い未来をリアルタイムで描写し続ける。私の時代では量子眼鏡クアンタムグラスと呼ばれる………一種のタイムマシンです」

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