第2話 橙子とカラコン


 ショップを眺めながら眼鏡店に行こうと、二人は一階下のメンズフロアでエレベーターを降りた。どこの商業施設でもある傾向だが、食料品フロアとレディースフロアを抜けると、ぐんと客が少なくなる。

 鹿沼は浮つく気持ちを抑え、何食わぬ顔でネクタイなど眺めながら歩いていた。もちろん、市川に似合うものをそれとなく物色しているのである。


 ふと、首を巡らせてエスカレーターの方を見たのは、虫の報せだったのだろうか。


 視線の先に、天敵であるあの女、彼が一度殺しかけたキャバ嬢『オレンジ みかん』がいた。その上彼女の後ろには、彼に付き纏っていたストーカー女、多田美春までが一緒にエスカレーターを降りてくる。


 なぜあの二人が…と愕然としたその時、キャバ嬢の方と目があった。ギョッとしたのは向こうも一緒で、強張った顔でこちらに目配せする。多田の方は後ろの男性と喋っていて、まだこちらに気づいていない。


「あー、カラコンずれた。ちょっと鏡見てくるから、先行ってて」

 不自然に大きな声が、少しうわずっている。


「え、待ってるよ」

「僕も構いませんよ。どうぞごゆっくり」

「いいのいいの。すぐ行くからさ」


 二人を往なして上手く離脱し、こちらに歩を向けるのを、鹿沼は仕草で制した。


「市川支部長、これ見てください! このネクタイ、似合いそうですよ。うん、すっごく似合う」


 こちらも変に甲高い声で早口になってしまう。が、市川は何も気づかず、呑気に鹿沼の誘導に従い店に入って行った。


「僕、ちょっとトイレ行ってきます。すぐ戻りますんで、ここで待っててもらえますか?」

「うん、いいよ。ネクタイ見てる」



 奥まったところにあるトイレの前で、二人は低い声で囁き合った。と言っても、甘やかな雰囲気は一切ない。どころか、二人とも青ざめ今にも掴み合いそうに剣呑である。


「なんで、こんなところに?!」

「こっちのセリフだよ! アタシは上にある不動産屋に手続きに来たの!」

「越してくんな! 僕も最近こっちに越してきたばっかなんだから」

「ちげーよ、退去の手続きだよ! アタシも引っ越すの! この後内見!」

「なんであの女と? 知り合いか?」

「何よ、アンタも知り合いなの?!」

「ああもう! ちょっと、スマホ! 連絡先!」

「なんでよ! まぁいっか、アタシも聞きたいことあるし」


 急いで連絡先を交換し、二人はそそくさと別れた。そして素知らぬ顔でそれぞれの相手と合流する。互いに、背中に冷たい汗を流しながら。



 老眼鏡の度を計測している市川を眼鏡店に残し、鹿沼はスマホを睨みつけていた。指を素早く動かすたびに眉間に皺が寄り、表情が険しくなっていく。

 短い文章が何往復も交わされ、鹿沼は大体の状況を把握した。多田美春と彼女が知り合ったのは全くの偶然で、妙に多田に懐かれた彼女は、転居手続きのついでに買い物に付き合わされているというのだ。


(ってことは、さっきの男は不動産屋の職員か。おかげで多田に気づかれずに済んだのは幸いだったな)


 この後、自分たちは外の移動本屋とやらに寄って帰る予定。向こうは昼食を取った後に電車移動し、新居の内見をしてショッピング……と。互いの予定を把握し、かち合わないようにする。

 彼女らは都心へ向かうというから、向こうが電車に乗ってから帰れば顔を合わさずに済みそうだ。できれば一生顔を合わせたくない。


 女の顔を見て、否応なく悍ましい記憶がフラッシュバックしていた。

 支部長の個室から出てきた彼女に驚き、怒りに我を忘れ、女を引き倒して馬乗りになり呼吸を塞いだ時の手の感触。必死に踠く体を両脚で押さえつけ、静かになるまで力を込め続けた間の恐怖。ぐったりとなった身体を運び、給湯室の狭い棚の中に押し込んだ時の体の重み……

 何より恐ろしかったのが、隠蔽工作を施して戻ってきたときに彼女が消えていたことだった。あれは、足元が崩れ落ちてゆくような絶望感だった。


 だが……と鹿沼は思う。


 あの女のおかげで、市川さんとの距離が縮まったのは間違いない。

 実は市川支部長も彼女を殺してしまったと思い込んでいたのだ。彼女が残していった空の靴箱を共にゴミ箱へと葬った時、二人の恐ろしい思い出も秘密に覆い隠された。それなのに、彼女本体が出てきてしまったら……


 支部長には絶対に会わせない、と鹿沼は心に決めた。


 彼女が無事であることを、今の市川は知っている。鹿沼がそう告げたからだ。彼女は自力で歩いて会社を出て行った。普通に元気そうだったから大丈夫、と。それでとりあえず、市川は安堵した。

 だが、彼女本人に出会ってしまったら、いくら呑気な筋肉バカの男といえど罪の意識に苛まれるに違いない。彼女と揉み合った時の状況を、恐怖を、そして彼女の死体が消えていた時の驚愕を思い出すに違いない。


 自分と同じように。


 彼にそんな思いをさせたくない……なんて綺麗事を言う気はさらさら無かった。鹿沼はただ、今の二人の関係が終わってしまうのが怖かったのだ。

 あの時のことをまざまざと思い出した彼は、秘密を共有する鹿沼を疎ましく思い遠ざけるかもしれない。もしくは、実際に元気にしている彼女を目の当たりにして心から安堵し、心を慰め寄り添ってくれる存在(すなわち『僕』)の必要性を感じなくなるかもしれない。


(関係が終わる? いや、まだ始まってもいない……)



 先ほど支部長に薦めたネクタイをラッピングしてもらいながら、鹿沼は爪を噛んでいた。無意識のうちに子供の頃の癖を繰り返してしまい、指先はボロボロになっている。爪のささくれを噛みちぎると、爪の脇に鋭い痛みが走り、血が滲んだ。



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