事件
「おい、神崎は?」
少し行ったところで、怜は振り向く。
お前やっぱり、神崎、気にしてんじゃねえかよ、という顔を菅原がしていた。
気にはしているが、そういう意味ではない。
え? と矢来も振り向く。
「行くよって言ったら、返事があったから、来てると思ったのに。
葵ーっ」
と言いながら、矢来は今来た道を戻っていく。
幽霊階段のある角まで来た矢来が足を止め、息を呑んだあと、悲鳴を上げる。
「どうした!?」
まだ事態に反応出来ずに、ぼんやりしている友人たちを押しのけるようにして、駆け戻った。
何があったか知らないが、矢来にそれ以上、見せないよう、立ち尽くしている彼女の肩を掴んで、塀の陰に押しやる。
『あの場所』に、神崎葵が座り込んでいた。
その前に、ナイフが落ちている。
そして、その傍に、脇腹を押さえた眉村が倒れていた。
雨の日。
その階段を見つめていると、
濡れた黒いコンクリートの上に、じんわりと滲み上がって来るものがある。
ゆっくりと広がる血のようなもの。
それが自分の足許に到達するときが、この日常の消えるときだと知っていた――。
「先生……」
葵はその場に座り込んで動けなくなっていた。
記憶の中にたくさんの凄惨な場面が埋め込まれているから、自分は少々の目に遭っても大丈夫だろうと思っていた。
だが、他人の借り物の記憶と、自分の実体験とでは、まるで違うと知った。
眉村の腹から滴る血に、何かしなければと思うのに動けない。
「大丈夫か、……葵」
彼はうめくついでのように、そう言った。
葵は黙って頷く。
草むらに居たとき、背後で聞き覚えのない声がした。
振り向こうとした瞬間、口を塞がれ、引き倒された。
感じたこともない切迫した空気に、殺されるっ、と思ったのだが、誰かが自分の上に居たものを払いのけてくれた。
自分が草むらを出るまでの僅かな時間に、何が起こったのかはわからない。
だが、階段の『あの場所』に、眉村が血を流して倒れており、犯人は居なくなっていた。
上の方で、未來と怜の声が聞こえた気もしたが、何故だか、二人とも、すぐに駆けつけては来なかった。
脇腹を押さえた眉村が言う。
「葵……
明路を呼んでくれ」
「え――」
「明路を呼んでくれっ。
どうせなら、明路の膝の上で死にたいんだっ。
明路を……っ!」
ゴンッと無情にも血を流している眉村の頭を靴で小突いたものが居た。
二人して、その影を見上げる。
「そんな元気があるのなら、大丈夫ですよ」
相変わらず、高そうなスーツを着た明路が立っていた。
腕を組み、下の方を見て、
「とり逃したんですね。
まあ、わかってましたけど」
と舌打ちをする。
……人でなしにも程がある、と思った。
「僕は君に頼まれた通りにやったぞっ」
そういえば、眉村はタイミング良く現れすぎた。
明路に言われて、この場所か、自分を見張っていたのだろうか。
もしかしたら、あの白衣の霊も――。
「いいんですよ。
わかってましたから。
貴方が犯人を取り逃がすことくらい」
淡々と明路は言う。
「でも、余計な知識を与えて、未来を変えてしまわないようにしたんです。
だって、犯人は捕まえられなくとも、こうして、全員が無事な未来が見えていましたからね」
無事じゃないだろ、と出血のせいか、刺されたショックのせいか、青褪めた表情の眉村が睨んでいた。
「大丈夫です。
死にません」
と明路は彼を見下ろし、言い放つ。
そのあまりのつれなさにか、眉村が叫び出した。
「葵っ。
ナイフを貸せっ。
死んでやるっ」
どうなんだろうな、この大人たち……。
人生において、あまり手本にはしたくないタイプの大人だ。
「その傷、実は掠り傷なんですよ。
血ももうほとんど止まってるはずです」
そう言われ、眉村は、そうっと傷口を押さえていた指を剥がし、見ていた。
なるほど。
もうあまり出血していない。
眉村が犯人を押さえ込もうと、激しく動いたために、派手に血が飛び散っただけだったのかもしれない。
彼にだって、本当はわかっているだろう。
犯人が捕まらない未来が見えていたなら、状況を動かし、『捕まる未来』を作り出すことは可能だったかもしれない。
かつて予知を変えたことのある彼女には。
だが、被害が最小限で留まる未来が見えていたから、敢えて変えなかったというその意味を。
その新しい未来で、死んでいたのは、眉村だったかもしれないのだ。
誰もが助かり、犯人も捕まる未来もあったかもしれないが、明路は彼や周囲の者たちを危険に晒さないため、敢えて、見えた未来に従ったのだ。
「で、犯人の顔は?」
改めて、そう問われ、眉村は沈黙する。
眉村が犯人の顔を確認できないことまでは知らなかったのかもしれない。
明路は深い溜息をもらした。
「でも、僕は出来る限りのことはやったよっ」
わめく眉村に、
「あ~、それ、私の一番嫌いな言い訳なんですけど。
僕はこれだけ頑張ったんだから、許してとか、自分で言うの。
黙ってれば、偉かったですね~って言ってあげるのに」
それもまた、何処までも上から目線な気もするが。
傷が深くないと知って、元気に叫び出した眉村の言葉に耳を塞ぎ、行こうとした明路が、一瞬だけ振り返った。
「葵――」
どきりとしてしまう。
正面切って、名を呼ばれたのは、初めてだったかもしれないから。
「大丈夫?」
「……はい。
あの、私も犯人の顔は見えませんでした。
フードにマスク、それにサングラスもかけてましたから」
そう、と明路は頷き、
「まさに、今から犯罪犯しますって感じの格好ね」
と呟く。
「花粉症の奴もそんな格好してると思うが」
どうやら、明路に止められていたらしい、服部怜が下まで下りてきていた。
不思議だ、と思う。
親子程の年齢差があるはずなのに、今の服部怜と彼女なら、カップルだと言われれば、そんな風に見えなくもない。
そのとき、明路が何かに気づいたように、下りていった。
下にちょうど車が止まったところだった。
明路にわめいて疲れたのか。
片膝立てて座り込んだ眉村は、膝に額をぶつけ、じっとしていた。
それを見下ろしていた怜が呼びかける。
「手を貸しましょうか?
先輩」
汗ばんだ前髪を血のついた手でかき上げようとした眉村の動きが止まった。
指の隙間から怜を見上げて嗤う。
「……先生、の間違いだろ、服部」
一人が若返りやがって。
そう眉村は言った。
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