梅雨と未練

 

 いい天気だ。

 でも、私は雨の方が好きだ、今は。


 なんとなく――。


 怜に、明路たちの記憶が焼きついていると言った町を屋上から見下ろす。


「もうすぐ梅雨ですね」

 振り返らずに葵は呟く。


「佐々木明路が嫌いな長雨の季節が来るな」

 ないかと思った返事が後ろの人物からあった。


「随分と小意地の悪いことをするじゃないか」

 そう言った眉村を葵は振り返る。


「あら。

 先生も、ああして欲しいのかと思ってました」


 彼は服部怜を好ましく思ってはいないはずだ。

 自分にとって、障害となるはずのものだから。


 人は何処で恨みを買ってるから、わかんないものね、服部くん、と心の中で、今、傷つけてしまった少年に向かい、呼びかける。


 もちろん、懺悔の気持ちはたっぷりとあった。

 でも、それを怜に見せる気にはなれない。


「葵。

 君が怜を恨む理由がよくわからないが」


 別に、と目を閉じ、葵は手すりに背を預ける。


「羨ましいだけですよ」


「あの哀れな少年が?」

と眉村は嗤った。


 やっぱり、こいつの方が年季が入って底意地が悪いな、と思った。


 まあ、環境のせいかな。

 この人も私も――。


 でも、すべては佐々木明路のせいだ。


 余計な記憶で、私たちに悲しみを押しつける。

 あの女のせいだ。


「彼がもっとしっかりしてくれていたらなあ、と思います」

「それは僕にはあまり嬉しくない自体だが」


 目を開け、葵は問うてみた。


「先生は、何処から何処までご存知なんですか?」


 それはもう、と彼は自信満々に言う。


「明路のことなら、何処から何処までも」


 今、ちょっとだけ、佐々木明路に同情してしまった。

 きっと彼の部屋は、彼女の写真でいっぱいだ。


「さて。

 哀れな服部怜くんを慰めてくるかな」


「お願いします」


 嬉しいそうに笑いながら、眉村は屋上を出て行った。


 なんのかのと言いながら、きっと、『服部怜』という人間自体は好きなのだろう。

 からかう絶好の理由ができて、嬉しくてしょうがないらしい。


 怜の神経が太いことを祈るのみだ。


「まあ――。

 本来、今、あの二人に対立する理由はないものね」


 それを言うなら、自分こそないはずなのだが、なにやら釈然としない。


 再び、町を見下ろす。

 緑の隙間に、あの階段が仄見えた。


 幽霊階段――。


 かつては、雨が降ると、血溜まりの中、這い登ろうとしてくる男子高校生の姿が見えたらしいが。


 今、その姿は何処にもなかった。



 署内の廊下で、明路は湊と出逢った。

 逢うなり彼は、こちらを見て、眉をひそめ、


「……厭な気配がする」

と呟く。


「相変わらず、いい勘してますね~。

 見えないのに」


 明路の肩には猫が乗っていた。

 霊体なので、重くはない。


「服部くんちの猫が憑いてきてるんですよ。

 身軽になれたのが嬉しくて仕方ないみたいで。


 いきなり、通りすがりの霊に、フーッとかって喧嘩をふっかけてくれるんで、ちょっと困ってますけど」

と言いながらも、明路は笑ってみせた。


「死んだのか。

 なんとなく、永遠に生きてるもんだと思ってた」


 私もですよ……。


「じゃあ、今日は来なくていいぞ」

と湊は、すれ違いながら言ってきた。


 振り返り、

「憑いてきたら、邪魔だからですか」

と言ったが、


「違う」

と返される。


 一応、気を使ってくれているようだ。

 まあ、死んだとは言っても、前よりやかましいくらい傍に居るのだが。


 ……本当に喧しい。

 親よりも口喧しい。


 うっかり、いっそ、成仏してくれ、と願ってしまうほどに。

 そのまま行ってしまうのかと思った湊だったが、再び足を止めたようだった。


「あいつ、なんで死んだんだ?」


「え?」

「ずっと死なないと思ってた――


 なんで死んだんだ?」


「さあ~。

 そろそろ生まれ変わるタイミングだったんじゃないんですかね?


 まあ、まだ此処に居ますけど」


 ふうん、と少し疑わしげに湊は見てくる。

 ひやりとしていた。


「部長」

「なんだ」


「いえ。

 なんでもありません。


 失礼します」

と頭を下げる。


 去って行くその後ろ姿を見ながら思った。


 ちょっと不安に思っただけですよ。

 貴方も望みを果たしたら、消えてしまうのではないかと――。


 まるでこの世に想いを残していた何かの霊のように。





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