予感

 

 階段を上がり終わったところで、怜は眉村の胸に縋る明路を見た。

 立ちくらみでもしたようだ。


 そのまま、そこに留まりそうになる。

 だが、縋るように自分を見てきた明路を思い出し、歩を進めた。

 


 ドアが開いた。


 服部由佳とそっくりなその顔が覗いたとき、強がっていた心がほどけていくのを感じた。


 気に喰わない奴だったが、長く暮らした相手だ。

 それなりの想い出はある。


 近づいて来た怜は、彼がそうしていたように、自分をそっと抱き上げてくれた。


 怜はこちらの耳許で小さく囁く。

 その言葉の意味を知り、目を見開いた。


「ゆっくりおやすみ――」


 そう彼は言ってくれた。




 明路が部屋に行くと、扉は開いていた。

 月明かりの中、怜の背中が見えた。


 ソファに猫の姿はない。

 怜は彼を抱いているようだった。


「ごめんなさい」

と明路は言った。


「関係ないのに辛い想いをさせて」


「いや――」

と怜は言う。


「……ありがとう、呼んでくれて」


 どきりとする。

 その言葉に。


 まさか。


 いや――

 猫が怜を呼ぶことに反対したのには訳がある。


 彼の中の、余計な記憶を甦らせたくなかったからだ。


 怜はそっと猫をクッションに横たえた。


「ありがとう。

 寝かせておいて。


 しばらく、そうして置いてあげたいから」


 怜は頷き、部屋を出る。

 足を止めた彼は、何故か隣の部屋を見ていた。


 鼓動が速くなる。


「行こう。

 下でお茶でも淹れるわ。


 猫に結局食べなかった缶詰も開けてあげたいし」


「猫って……。

 名前って、ないの?」


 少年の口調で怜が言ったとき、ほっとした。

 だけど、前を行こうとしたとき、彼は言う。


「夢を見るんだ」


 え――。


「貴方と逢ってから。

 貴方と同じ顔をした人が、黒い格子の向こうから、こちらを見ている」




「夢を見るんだ。

 貴方と逢ってから。


 貴方と同じ顔をした人が、黒い格子の向こうから、こちらを見ている」


 階段を少し上がったところで、眉村は、上での会話を聞いていた。


「これは――

 やっぱり、見捨てて殺した方がいいんじゃないかな」


 一人呟き、少し笑う。

 今は弾く者の居ない、グラウンドピアノを見下ろした。

  


『知っていて、黙っていたのか!


 お前を……


 絶対に許さないっ』




 脂汗をかいて目を覚ました。

 いつの間にか机に突っ伏して寝ていたようだ。


 開いた教科書の段が額に残っている。

 葵はそこをそっと撫でた。


 目の前の窓はまだ薄いカーテンが閉められているだけだった。

 住宅街の上に浮かぶ月がうっすら見える。


『こうして、教科書の上に寝てたらさ。

 頭に入ってこないかしらね。


 睡眠学習みたいに』


『それで頭に入るんだったら、四条は全部覚えてるはずだろう』


『それは、寝ててページが変わらないからじゃないの?』


 ……頭痛がする。


 佐々木明路の気の抜けるような記憶が入り込んできたからだ。


 どっちが自分の人生かわからなくなりそうだが。


 自分がそんな間抜けなことを考えないことは、理性が理解しているので、幸いに記憶が混ざってくることはない。


 やれやれ、厄介な力だ。


 自分の母親にも、こうした特殊な力があるようだが、その発現の仕方が全く違うのが面白い、とも思っていた。


 立ち上がり、大きく伸びをする。

 肩の辺りの関節から、派手な音がした。


 あまり人には聞かせられない感じだ。


 カーテン越しにも、伝わってくる奇麗な月。

 こんな日には、胸がざわつく。


 葵は、今、此処には居ない人物に向かい、呼びかけた。


「リアルに記憶が見られるからと言って、それが自分の魂の記憶とは限らないのよ、服部怜――」




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