夜道

 


 トイレに行って、ついでに化粧を直そうかな、と思ったが、


 ま、あのメンバーだし、いっか、と思い直し、明路は廊下に出た。


 すると、腕組みした藤森が濃い色の木の壁に背を預けて立っていた。


「空いたよ、どうぞ」

と言ったが、どうも彼はトイレの順番を待っていたわけではなかったようだった。


「なんで、お前と部長が噂になるのかわかったぞ」

と唐突に藤森は言う。


「……へえ、なんで?」


 自分でもその答えはわからずに訊いてみる。

 あのなあ、という顔を藤森はした。


 わかっていて、喧嘩をふっかけているとでも思ったのだろうか。


 薄暗い照明の下、眉をひそめる彼に、

「本気で聞きたいんだけど」

と言うと、呆れたように、


「お前、言動には気をつけろ」

とだけ言いおいて、トイレには行かずに、戻って行ってしまう。


 なんだ、あれ。

 まさか、忠告に来たとか?


 いやいや、だったら、どんな言動なのか、言わなきゃ意味ないでしょうがっ、

とその後ろ姿に向かい、明路が心の中で叫んでいると、屋敷が現れた。


「あ、明路さん。

 トイレ空いてますかー?」


 呑気で小動物的なその笑顔を見ながら、


「どうぞ」

とドアの前を譲った。


『噂の通り魔かもしれないと聞いたので』か――。

 

 屋敷の消えたドアを見ながら、さっき藤森がしていたように、壁に背を預ける。


 

 

 部屋で勉強をしていた葵は、階下で激しい音がするのに気づき、立ち上がった。


 振り向いた瞬間、部屋の床の上に何か見えた気がしたが、無視する。


 いちいち霊になど、付き合ってはいられない。


 廊下に出ると、案の定、それは、どんどんと玄関を叩く音だった。


「開けてー」

という陽気な女の声がする。


 ……鍵持ってるくせにな。


「はいはいはいはい」

 葵は適当な返事をしながら、玄関に向かう。


 すりガラスのそれを開けると、父親と母親が立っていた。

 かなりの上機嫌だ。


「ただいまー、葵ちゃん」

と母親はいきなり抱きついてくる。


「うわっ、酒くさっ」


「ちょっとお母さん呑み過ぎちゃってねー」

と言う父親の顔もほんのり赤い。


「地区の集会じゃなかったのー?」

 そう言いながら、居間へと向かう。


 まあ、こうなる気はしていたが。

 気のいい町内の人たちと、寄り集まったら、呑まないわけはない。


 程よいスナックも集会所のすぐ近くにあるし。


「葵ちゃん、お水~っ」


「わかりましたー」

と言いながら、要求していない父親のコップまで用意する。


 母親はもう食卓テーブルに突っ伏し、寝ていた。

 呑気なその頭を見て笑う。


 平和だな、と思った。


 この平和にこのまま、うずもれていたい。

 そういつも願っているのに。


『明路っ。


 お前だけは……


 お前だけは絶対に許さないっ』


 繰り返される悪夢を消す方法は何処にあるのだろうか――。


 葵はコップの中を循環し、落ちていく水を見ていた。


 そんな自分を、伏せた腕の隙間から、母親が覗き見ている気がした。



『明路。


 お前、知っていたのか――』


 

「連れて帰ってください、それ」


 指差された場所に、佐々木明路が突っ伏して寝ていた。


 場所を移動して、また呑んだのが悪かったのか、明路はカウンターで爆睡してしまっている。


『なんで和風の居酒屋から、また同じようなところに移動すんですかっ』

『メニューが違うだろうがよっ』


 いつも本部で揉めるのと同じような勢いで、明路と大倉が揉めるのを湊は、ただ眺めていた。


 こいつら、事件解決する気あるのか。


 いや、まあ、仕事のストレスもあるのだろうと、温かい目で見守ったのが悪かったか、と湊は一人反省する。


「連れて帰ってください」

 藤森が自分に向かい、無情にそう繰り返した。


 この面子めんつの中に居ては、自分の地位の高さも全く役に立たないようだった。


 明路との噂を信じているのか、そうでないのか。


 藤森は、ともかく、自分に明路を押し付けようとしている。


 気兼ねをしたのか、屋敷が、

「あのー、僕がタクシーに乗せましょうか」

と言って来たが。


「いや、いい。

 持って帰ろう」


 湊は、溜息とともに、二人にそう告げた。



 そうして、なんとか、屋敷と藤森に見守られ、タクシーに乗ったまではよかったのだが。


 途中で、明路が、


「吐きそう……」


 などと言わなくてもいいことを言ったがために、結局、タクシーを降ろされてしまった。


 しかし、それが良かったのか。

 外の空気を吸った明路は気分が落ち着いたらしく、歩くと言い出した。


 だが、酔っぱらい特有の千鳥足だったので、自分が彼女を背負って歩くことに。


 なんで、こんな目に……。


 見た目以上に重いじゃないかっ、と心の中で文句を垂れながら、辛い一歩を踏み出したとき、明路が言った。


「すみませんね~、部長~」


 全然、すまなくなさそうな感じに、へべれけだ。


「女が正体なくすまで酔うなよ」


「そうですね~。

 私、あんまり酔わないんですけどね~」


 それは知っている。


「今日はあれでしょ。

 気を張ってなきゃいけないメンバーでもなかったので」


 だから、酔ったのだろうと明路は言う。


「あの面子で、気を張らないってのも凄いな」

 屋敷たち、後輩連中はともかく、大倉、藤森、自分と、明路の天敵ばかりだが。


「気を使わなくていいからですよ~」

「誰になら、気を使うんだ?」


 抱え直しながらそう訊くと、

「そうですねえ。


 ……んとか?」

と言った。


 失言か? それは、と微かに聞こえた言葉に天を見る。


「でもさー、ほんとに昔はもっと強かったんですよ~。

 アセトアルデヒド脱水素酵素は記憶と違って、転生したら、持っていけないと知りました」


「……昔っていつの話だ」


 親からの遺伝じゃないのか、アルコールを分解する酵素とか。


 肉体の遺伝と、魂に寄る記憶の保持。

 全然、関係ないだろう、と思っていると、明路は、


「でも、酔うかどうかって、結局、心の問題なんですよね、きっと。

 昔は、自分は酔ってなんかいちゃいけないと思ってましたからね。


 ほら、部長は、今から殺さなきゃいけない相手に杯差し出されて、酔えますか?」


「普通の人間はそんな状況にならないからな」

「私に酒を出されて、酔えますか?」


「お前を殺す必要はない。

 お前には他に使い道がある」


 そうですかね~? と明路はいぶかしげな声を上げる。


 じゃあ、殺されたいのか、と思った。 


「明路」

「はい」


 警察学校の訓練中か、というような勢いのいい返事が返った。


「今、酔えるってことは、お前は、今、幸せなのか?」

「そう思いますか?」


 ははは、と彼女は背中で笑ったが。

 すぐに一息ついて言った。


「……なんでまた、同じような事件が起きるんでしょうね。


 人間ってのは、結局、いつの時代も似たようなことしか思いつかないもんなんですかね?」


「そんなことは犯人に訊け」

「じゃ、部長、捕まえてきてください」


「捕まえるのは、お前ら、雑兵の仕事だろうがっ」


 その言葉に明路は笑う。


「すっきりしましたかー?」

「怒鳴ってすっきりするような歳じゃない」


「そうですか、そうですか」

 陽気な声に苛立つ。


「お前、それだけはっきり喋れるんなら、もう正気だろう。

 降りろっ」


「厭ですよ~」


「だいたい、なんで、僕が――」


「あ、今、僕って言いましたね。

 可愛いですね~、僕って言うと。


 なんだか――」


「落とすぞ……」


「でも、男の人って、大変ですよね。

 その場その場で、一人称まで変わる。


 上司とか偉ぶりたい部下の前では、私って言ってますよね、部長」


 とりあえず、そこの蓋の空いている溝に落とそう、と湊は思った。


 だが、明路の言葉がそこで、ぴたりと止まる。


 彼女は前を見ているようだった。


 誰も居ない路地に、明路は何を見ているのだろうか。


 彼女だけにしか見えない何かだろうか。


 そう思ったとき、彼女の携帯が鳴った。


「出ろ」

「厭です」


「出ーろっ」


 近所迷惑だろうが、鳴り響いたらっ、と肩にかけていた明路の鞄を探し、着ているコートのポケットを手でまさぐり、音の源を引きずり出した。


 着信を確認して、眉をひそめたが、仕方ない、出る。


「もしもし」


 相手は自分よりももっと硬い声で出た。


「はい。

 今、もう近くです」


 道の先に、明路の家がある。


 見るからに平凡な二階建ての家。

 その玄関には、娘の帰りを待ってか、灯りが灯っている。


 話している間に、携帯を手にした明路の母親が現れた。


 道路に立った彼女はこちらに気づき、頭を下げる。


「降りろ」

「もう遅いです」


 疲れたように肩に頬を寄せたまま明路は言う。


「確信犯かっ、降りろっ」


 そう言っている間に着いていた。


 明路を降ろして、母親に犯人のように引き渡しながら、


「すみません。

 仕事のあと、みんなで飲み過ぎまして」


 あくまでも、自分と二人ではなかったと強調する。


「ありがとうございました」


 明路を傍に立たせた母親は、深々とこちらに頭を下げた。


 上げた顔と目が合う。


 思ったほど、冷たい眼はしていなかった。


 いや、願望かな、と湊は思った。


「じゃあ、明日、寝過ごすなよ」

「部長、タクシーは?」


 かなり正気な明路がそう訊いてくる。


「お前の酒臭い匂いが消えたら、乗る。

 じゃあ、失礼します」

と母親に頭を下げ、もう佐々木の家を振り返ることはしなかった。







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