第35話 最終回
エピローグ
朝だ。
ベッドの上で目を覚ました紗季は、見慣れない部屋に、今朝も戸惑いを覚えた。
七澤が暮らすマンションで暮らし始めて二ヶ月弱。いまだ、山での生活が抜けていない。
横に眠る七澤を起こさないように気をつけながら、紗季は一人起き上がってキッチンへ向かった。七澤の暮らす部屋へ越してきてから、毎朝の習慣となっている、コーヒーメーカーの釦を押す。
コーヒーの香りが立ち上がり、ようやく紗季はほんとうに目が覚めてきた。
東の窓のカーテンを開けた。空を、朱色の鮮やかな朝焼けが覆っている。美しいがちょっと怖いような、朱だ。
窓の下を、トラックが通り過ぎていった。すぐ先にあるコンビニへ納品する業者のトラックだ。
七澤のマンションは、麓の町の中心地にある。地方都市とはいえ、一日中途切れることのない車の音や、駅へ向かう人の喧騒に包まれた場所だ。
紗季は窓越しに空を眺めた。電線が見えた。そこに数羽の鴉が止まっている。鴉たちは、向かいに建つコンビニの前に置かれたゴミ箱を目当てに、毎朝あの電線に止まり人間たちの隙を狙うのだ。
その窓を開けようとしたとき、七澤の声がした。
「おはよう」
挨拶を返そうとした紗季は、ふと電線に止まる鴉の異変に気づいた。今日はいつもより鴉が多い。
ぼんやりと数を数えてみた。四、五……、十三羽もいる。
「キャッ」
紗季は思わず叫んだ。肩を掴まれたからだ。
「ごめん、驚かせた?」
「おはよう」
なぜか無性にホッとして、紗季は七澤に顔を向けた。
「ずいぶん、早く起きたんだね。もっとゆっくり寝てればいいのに」
「でも、お引越しは明日でしょう? 荷造りを終えてしまわないと間に合わないから」
七澤の赴任池である南の町へ、紗季は七澤についていく。それは、これからの人生を、七澤と共に過ごすことを意味している。
紗季に、もう迷いはなかった。この町に、戻ってくることはないだろう。この町から見える山並みも、二度と目にすることはないだろう。何もかも忘れて、新しい生活を始めるのだ。
「なんか、変だな」
七澤が紗季の首筋から腕をほどいた。
「あの鴉たち、こっちを見てる」
「えっ」
紗季も電線にふたたび目をやった。七澤の言う通り、鴉たちは一羽残らず、こちらにその頭部を向けている。その中心にいる一羽の眼光が鋭い。
紗季はじっと見つめた。自分でも、なぜ、そうするのかわからない。
ふいに、その見つめられた一羽が、飛翔を始めた。大きく羽を広げ、勢いよく飛び上がり、そしてこちらに向かってくる。真っ直ぐ、迷いなく。すると他の鴉たちも一斉に飛び始めた。
「……い、いや」
目の前の硝子窓は暗く閉ざされた。飛んできた鴉たちが、硝子窓にぴったりと吸い付いたのだ。
「何なんだ、これは」
七澤が呆然と呟いてから、紗季を後ろへ下がらせると、窓を叩き始めた。
ドンッ、ドドッ。
鴉たちは動かない。
紗季は腕を延ばして、窓硝子に触れた。
見つめ合った一羽に、硝子越しに、掌を当てる。自分でも、なぜ、こんなことをするのかわからない。腕が勝手に動いたのだ。
「行きなさい」
紗季は呟いていた。
「紗季ちゃん?」
「行きなさい」
もう一度呟くと、羽ばたきの音が上がり、鴉たちが飛び去り始めた。鴉たちは飛散し、やがて群れを作った。
群れは朱い空を向かってく。向かう先にあるのは、山だ。
「不思議だ」
七澤が、呟いた。
「まるで紗季ちゃんの言葉が通じてるみたいだ」
「まさか。ただ思い浮かんだことを口にしただけ……」
自分の言葉が通じるはずがない。それじゃ、まるでみちびさんだ。
――まるでみちびさん?
紗季はごくりと唾を飲み込んだ。
いつだったか、店に野良犬が迫ったときの様子が蘇った。あのとき、野良犬たちは、みちびさんの呟きで、いなくなった。
あのときと同じだ。あのときのみちびさんと同じように、自分は獣を操った。
みちびさんの力が、のりうつったというの?
「卵は半熟でいいかな」
穏やかな七澤の声に、紗季は返事ができなかった。
了
蛍火怪異譚 popurinn @popurinn
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