第34話
「初めて魔物に遭遇したとき、どうしてあんな恐ろしいモノを救おうとしてしまったのか。だけど、後悔しても、もう、遅かった。山蛭の黒山に向かって行ったとき、あたし、見てしまったの」
「見た?」
紗季の声は掠れた。
「魔物が化け物に変わろうとしていたのよ。ほかの五人を取り込みながら、魔物は形を変え始めていたの。さざなみを繰り返す山蛭の大きな黒い塊に、人の肌色に似た斑模様が模様が浮かび上がって、そこにいくつもの目が見えた。五人の目よ。目だけが残って、あたしを見てた。そしてキネばあちゃんが」
みちびさんが両手で顔を覆う。
現実に起きたことだったのだろうか。
ううん、違う。紗季は胸のうちで叫んだ。
これはみちびさんの妄想だ。孤児となり、村で育てられたみちびさんは、孤独のうちに村を出、それからまた兎の谷でも辛い目に遭った。その歳月が、みちびさんに奇妙な妄想を描かせている!
だが、七澤が放った一言で、紗季の希望は打ち砕かれた。
「あなたは気を失ってしまった。そして翌日、村では六人が失踪したと大騒ぎになった」
みちびさんは俯いたまま、頷いた。
「遺体が見つからなかったから失踪という結末になったけれど、あたしは、彼らがどうなったのか知ってる……」
嗚咽が漏れる。
「大塚さんも、同じように?」
紗季は訊いた。
「六人が失踪した山へ行ってみましょうと、大塚さんに誘われたの。嫌だったけど、どうしてもと大塚さんは譲らなかった」
「そして、大塚さんも山蛭に取り込まれ……」
膝の震えが激しくなった。そんな紗季を、七澤が支えてくれる。みちびさんがさびしそうな目で見ている。
「あたしのせいなの。初めて山蛭の魔物に遭遇したとき助けたばっかりに、こんな結末になってしまった。あたしは半分あいつらと同じになってしまったのよ」
「半分、同じに――」
信じたくない。紗季はそう思った。
みちびさんは味方だ。自分はみちびさんに頼ってやってきた。
「魔物と半分同じになったあたしの存在によって、土地に根ざす異形のモノたちが目覚めていくのを見てきたわ。異形のモノたちが目覚めて、あたしのまわりの誰かを食い物にして変化し、進化を遂げるのを見てきた。兎の谷の蛍火でも、重田さんや明里さんがいたアパートでも。だけど、紗季ちゃん、ここはだいじょうぶだと思ったのよ。ここは因縁も伝承もない土地だから」
「――だから、あなたはここにやって来たのか」
七澤が目を見開く。
「ここはだいじょうぶだと思ったのに、やっぱり異形のモノが目覚めてしまった。でも、今度こそ、あたし、あいつらに勝ってみせる。紗季ちゃんを、キネばあちゃんや重田さんたちと同じ目には遭わせない」
みちびさんの目が強く光ったとき、窓が軋む音がした。
「あの音は」
みちびさんが窓に顔を向けた。
「もしかして」
音は次第に大きくなっていく。
「来たんだわ、また来たのよ、わたしを狙って」
全身が震え出し、紗季は恐怖で息が詰まりそうになった。
「今度こそ、取り込まれてしまうわ――きっとわたし、あの化け物の中へ」
「落ち着くんだ! 紗季ちゃん」
ふいに、窓に、化け物の脚が覗いた。
毛の生えた真っ黒な脚の先。以前見たときよりも、脚は大きくなっていた。その上、脚からまた別の細い紐のようなものが生えている。触手のようなものか。黒く細い紐状のそれは、表面が魚の鱗のような重なった何かで覆われ、動くたびに硝子をこするような乾いた音をさせている。
また、進化を遂げたのだ。
「いやあぁああ」
「どこだ? どこにいるんだ」
耳元で叫ぶ七澤に、紗季は窓を指さした。
「紗季ちゃん、逃げよう」
「でも」
「迷ってる場合じゃない!」
紗季は七澤に引きずられるように店の裏手に向かった。テーブルや椅子にぶつかりながら、転げるように裏口に向かう。
後ろでガシャンと窓硝子の割れる音が起こった。振り向くと、化け物の脚が窓枠にからみついている。
「いやぁ!」
七澤の胸に顔をうずめて、紗季は気を失いかけた。
「しっかり! 紗季ちゃん!」
七澤に強く肩を揺さぶられる。朦朧と目を開けると、脚から生えている紐状の先端が、にゅるりと部屋の中へ入って来るのが見えた。
「うやああああ」
人の声とは思えない唸り声が響いた。
みちびさんだ。みちびさんが店で使う包丁を振り上げて、化け物に向かっていく。
後ろで束ねていた髪が乱れ、目をつり上げている。歯を剥き出しにして叫ぶ形相は、まさに、鬼女――。
みちびさん、あなたは、何者なの?
負けちゃだめよと、慰めてくれたあの優しい笑顔は、仮の姿なの?
「危ない!」
紗季は叫んだ。窓に映る化け物の影が膨らみ、店の中を暗くしていく。青黒い影が、みちびさんに迫っていく。
みちびさんの腕が振り上げられ、的に向けて振り下ろされた。シュウウッと奇妙な音が上がり、青緑色の半透明の液体が吹き出した。それを避けながら、みちびさんは
次々と的確に、化け物の脚を切り落としていく。
切り取られた脚は、上へ跳ね上がり、空中で回転し、ドサリと床に落ちた。脚の脇から生えた紐状の触手が、横倒しになった椅子やテーブルの脚に当たって絡まっていく。
みちびさんには化け物が見えている。そう言った七澤は正しかった。見えていなければ、あれほど的確に切り落とすことなんかできない。
さらに大きな音を立てて、窓硝子全体が壊れた。化け物が全体を現したのだ。もう、藍也の手の名残りなど微塵もない。醜悪な蜘蛛に似た化け物が、体全体で店の中に入ろうとしている。
頼りない包丁一本で、みちびさんはさらに化け物へ向かっていった。別の脚をめがけて、腕を上げる。
「逃げてぇー! みちびさん」
叫んだ途端、別の脚から伸びた触手が、紗季の足元へ伸びてきた。
「いやぁ!」
のけぞった瞬間、七澤に引っ張られ、紗季は床に倒れた。振り返ったみちびさんが、紗季に近づいた化け物の脚に包丁を突き刺す。
ふたたびシュウウッと、奇妙な音が響き、包丁を突きつけられた化け物は異物を吐き出す。
「キャッ」
紗季が叫んだと同時に、ウッと七澤が唸り、片腕で顔を覆う。化け物から飛び出した液体が、顔を庇った七澤の片腕にびっちょりと付いた。しかもその液体は、黒いダウンコートの片腕の袖口で、ぷくぷくと生きているように動きをやめない。
「あ、ああぁ」
紗季は自分の片頬に、反射的に手をやった。頬に、液体が飛び散っている。あてた掌に、液体糊をこぼしたときのように糸が引く。
「いや、いや、いやああ!」
紗季は顔を拭った。取れない。いくらこすっても、粘つきが取れない。強くこすっても、爪で引っ掻いても、取れない!
「紗季ちゃん、早く!」
七澤の叫ぶ声が耳元でした。その瞬間、こんな小さな店に似つかわしくない爆音が響いた。
化け物の中心で火が上がった。みちびさんが、店に数缶あった灯油缶を化け物に向けて投げたのだ。
ボワッと炎が大きくなり、シュウウという音が連続して起こった。
真っ赤な火柱が立ち上った。その脇で、動きをやめない化け物の脚に、みちびさんが絡め取られる。
「みちびさん!」
踏み出そうとした紗季は、七澤に引っ張られた。
「放して! みちびさんを助けなきゃ!」
「逃げるんだ!」
「ダメ! みちびさんが!」
化け物の脚の触手が、紗季の足首に絡みついた。表面の鱗状の突起が皮膚に食い込む。
「紗季ちゃあぁぁん!」
みちびさんの叫び声が響き、同時にくるくると舞いながら包丁が飛んできた。
包丁は紗季の足元に落ちた。
「切り落とすのよ!」
化け物に締め付けられながら、みちびさんが叫ぶ。
咄嗟に包丁を掴み、紗季は自分の足首に絡まった化け物の触手に向けて振り下ろした。
シュウウ!
不気味な音が響いたが、包丁の先は化け物の触手に突き刺さっただけで、紗季の足首から離れない。
「もう一度!」
みちびさんの励ましで、紗季は包丁をふたたび振り上げ、思い切り力を込めた。
キュンッ。
妙に明るい音をさせて、化け物の触手は足首の先で切り取られた。切り取られた触手はのたうち回って、火から遠ざかっていく。
ふたたび大きな爆音が起こった。大きな火柱が立ち、化け物の中心部がぐわりと盛り上がる。その拍子にみちびさんを締め上げていた化け物の脚がほどけた。ばさりと、みちびさんが床に落ちる。
ふいに、大量の火の粉が舞い上がった。虫の集まりのように、火の粉はぐるぐると渦を巻きながら舞い上がる。熱風が迫ってきた。目を開けていることができない。
みちびさんは、どこ?
盲人のように手で宙を掻き、紗季は喘ぐ。
みちびさんを置いていけない。置いていくわけにはいかない。
「走れ! 紗季ちゃん!」
七澤の強い力に腕を引きずられ、紗季は店の裏口に回った。壁が軋む音がする。建物を覆う鼠色の煙が、吐き出しながら迫ってくる。
風は、西風だ。煙が裏庭へ集まってくる。
「表へ回ろう」
店の表に回ると、みちびさんが店のドアから這い出してきた。
「みちびさん!」
駆け寄ろうとする紗季は、七澤に抑えられた。
「行こう、紗季ちゃん。ここにいちゃだめだ」
「いや! みちびさんを助けないと」
紗季は七澤の腕を振り払い、走り出した。ドアから半分体を出したみちびさんが、苦しそうに呻いている。見ると、みちびさんの下半身に、化け物の脚がからみついていた。ひき千切られた脚が、断末魔の動きを止めない。紗季は瞬間目を閉じ、腕を伸ばすと、化け物の足を掴んだ。
「紗季ちゃん!」
みちびさんが、涙声で叫んだ。
化け物の脚の突起物が、紗季の皮膚に食い込む。
「いやあ!」
思い切り引っ張っって、脚を剥がした。途端に追ってきた火が、脚に燃え移る。
「ああ」
安堵したのも束の間、火はみちびさんの体にも燃え移ろうとしている。
「みちびさん、早く!」
そのとき、紗季は七澤に引っ張られた。
「紗季ちゃん、危ない!」
みちびさんの背後で炸裂音が起こった。途端に、目の前が真っ白になる。七澤に連れ出された紗季は、雪の上に転がった。その瞬間、紗季は聞いた。
「紗季ちゃん――ありがとう」
店のすべての窓が割れ、砕けた硝子片が雪の上に飛び散った。紗季が毎晩明かりを灯した蛍火の看板も、ボンと音を立てて砕け散る。瞬間火花が、花火のように闇の中に浮かび上がった。
「ああ、蛍火が」
建物が崩れていく。大きな音を立てて、右側の壁が破れた。と同時に、紗季は低い唸り声を聞いた。地から湧き上がるような、重い音だ。
遠くで、サイレンの音を聞いた気がした。
その音は、軋みを続ける建物の音と合間に、かすかに聞こえてくる。
建物の中で炸裂音が続いた。炸裂音のあとには、シャシャワシャワという雨を思わせる音が続く。
生あたたかい風が建物から吹き付けてきた。土の臭いがする。
土の臭いをはらんだ風は、紗季の手前で大きく膨らみ、それから上昇すると闇の中へ消えていった。
やがて、辺りは静かになった。闇の中に、建物のそこかしこに、炎が上がっている。
雪が降り始めた。細かい粉雪だ。
サイレンの音が徐々に大きくなり、木々の合間から、消防車の赤い色が見えてきた。ほかに、数台の車も見える。蛍火から舞い上がった煙に気づいた集落の人々がやって来たようだ。
車が続々と、駐車場へ入ってきた。慌てた様子で、人々が車から降りてくる。蛍火の客だった集落のおばさんたちや、有賀さんと古川さんの顔も見えた。
誰もが黒煙が立ち昇る店を見上げて、呆然と立ち尽くしている。
「みちびさんを、早く!」
紗季の声に、有賀さんが気づいた。有賀さんが絶望的な表情で首を振る。
紗季は七澤に引っ張られた。
「行こう」
「でも」
二人のまわりに、消防隊員が駆け寄っていく。
七澤は自分の車のドアを開けた。
「早く乗るんだ」
「待って。みちびさんを」
だが、紗季の体は、強引に助手席に押し込まれた。
「このまま行くんだ。あの人と関わっちゃいけない」
そんなことはできない。
みちびさんは恩人だ。
絶望から救ってくれたのだ。
紗季はドアを開けようとしたが、七澤がロックをかけたせいで開かない。
「開けて、七澤さん!」
叫んだ途端、紗季の頬に鋭い痛みが走った。七澤が頬をぶったのだ。
「ごめん、紗季ちゃん。目を覚まして。悪夢はもう終わったんだ」
紗季は呆然と、崩れた蛍火を振り返った。
――あたしがなんとかしてあげる。
みちびさんの声が蘇る。
紗季のためなのだ。紗季のために、みちびさんは大塚を葬ってくれた。
車は道に出た。
紗季は窓を開け、顔を出した。
「みちびさあぁあん」
返事はない。ただ瓦礫が崩れる音がするばかりだ。
ごめんなさい、みちびさん。
置き去りにして、ごめんなさい。溢れてくる涙で、蛍火が滲んでいく。
「危ないぞうう!」
誰かの叫び声とともに、野次馬たちが動いた。わわああと、人々のどよめきが湧き上がる。
「あ、蛍火が」
車を止めて、バックミラーを覗いた七澤が、叫んだ。
黒煙が上がり、建物が崩壊し始めている。
「蛍火が崩れていく」
跡形もなく消えていくのだ。
あの場所で起きた忌まわしい事柄がすべて、蛍火と共に葬り去られていく。
雪が激しくなった。雪は今夜中降り続けるだろう。そして蛍火の焼け跡に積もるだろう。
車はゆっくりと山を下り、やがて、木々の合間から、町の灯が見え始めた。
麓の町に着いたとき、交差点の信号待ちで、七澤が呟いた。
「あ、消えていく」
「え」
見ると、化け物の液体が飛び散った七澤の袖口は、雪が乾くように蒸発を始めている。
紗季も、頬に手をやった。さっきの粘りが嘘のように表面が硬くなり、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。
終わったのだ、すべて。
そう思えた。
もう、化け物に怯えなくてすむ。
ハンドルを握る七澤が、空いたほうの手で、紗季の手を握しめた。
「忘れよう、紗季ちゃん」
紗季は窓の外を見た。舞い降りる雪の向こうに、山が見えた。目を凝らしたが、蛍火のあった集落が、どの辺りかはわからなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます