第33話


 第十章


「大塚さんがあたしのことを調べてるのを知って、なんとかしなきゃと思ったわ。話をして、調べるのをやめてもらおうと思ったの。あたしに関わらないで。ただそう言おうと思った」

 

 今日、みちびさんは大塚から連絡を受けた。

 中川さんたちとのミーティングに向かう途中の、車の中だった。大塚は訊きたいことがあると言った。

 みちびさんは、はじめ、聞く耳を持たなかった。だが、大塚がこれから日比木村へ行くと聞いて、無視できないと思った。


「日比木村に行ったの?」

 紗季の問いに、みちびさんは力なく頷く。その目には、だって仕方ないじゃないのと、紗季に言いたげだ。

「大塚さんは、昔、あの村で起きた集団自殺について調べていると言ったわ。そして、事件とああたしとの関わりも。そのために、山蛭の出る山へ入ってみると言った」

「日比木村に昔から言い伝えられている山蛭のことですね」

 七澤の問いかけに、みちびさんは頷く。

「危険だと思ったの。あんなところに一人で行くなんて。それで仕方なく」

 深くため息をつき、みちびさんは続けた。

「あの村には二度と行くつもりはなかった。村にいい思い出はない。あの集団自殺の事件が起きてから、あたしは村で孤立したままだった」


「どういうことですか」

 七澤が訊いた。

「なぜ六人もの人が死んだのか。結局真相はわからなかった。だから村の人たちは、魔物の仕業にしたのよ。そしてその魔物を操っていたのは、死んだ人たちの側で気を失っていたあたしだったと思うようになったの。あの事件以来、あたしは村の中で恐れられるようになってしまったわ」

「そんな」

 呟いた紗季に、みちびさんは薄く微笑む。

「半分は正しくて、半分は間違い」

 自分に得体の知れない力があると、みちびさんは気づいていた。山にいる獣たちを、自分の思い通りに操れる力があったし、人には聞こえない、土地の唸り声を聞くこともあったという。


「どうしてそんな力があたしに備わっていたのか、それはわからないわ。七澤さんが調べたように、鳴り物の末裔だからなのかもしれないし、親に捨てられた少女の孤独が見せた妄想と言ってしまえばそうなのかもしれないし」

 日比木村の山奥に昔から棲みついていると言われ続けた山蛭の化け物の存在を知ったのは、近所に住むキネと山菜取りに出かけたときだったという。

 無口な上に、子どもらしい無邪気さに欠けていたみちびさんは、友達もなく、学校から帰ると、村はずれに住む遠山キネのところへ入り浸っていた。キネは一人暮らしの老女で、ちょっと変わり者だったらしい。当時八十に手が届くほどの高齢で、今にして思えば、軽度の認知症を患っていたのではないかとみちびさんは言う。自分の家の庭で、勝手にひとり遊びをする子どもに、キネは何も言わなかった。

 

 季節がいいと、二人は、連れ立って山を歩いた。山の恵みである茸や山菜を取り、沢では小さな蟹を取ったり、ときには岩魚を釣ることもあった。

「あんまり奥へ行くな。山蛭に血を吸われるぞ」

 キネは薄闇を怖がらず歩き回るみちびさんに、しきりに声をかけた。

 あるとき、それは春のはじめの黄昏時だったという。みちびさんは、何かに呼ばれるように山の奥深くへ入っていった。頭上には木々の葉が何重に覆いかぶさり、足元は闇に沈んでいた。


「闇の中で、あたしは帰る道を探したの。キネばあちゃんを何度も呼んだ。でも、キネさんは来てくれなかった。耳が遠かったの。風が強い日だったから、余計に聞こえなかったんでしょうね。怖くなってあたしは歩き回るのを諦めて、その場にへたりこんでしまった。そしたら、雨が降ってきたの。晴れた日だったし、頭上の木々の合間から星は見えているのにおかしいなと思った。雨の雫を頬に感じて」

 みちびさんは、指先で自分の頬を撫でた。

「雨じゃなかった。あたしの頬に落ちてきたのは山蛭だったの。すごい数の山蛭が、まるで雨みたいに頭上から降ってきていた」

「山蛭は吸血動物だ」

 七澤が言った。

「そうよ。でも不思議なことに、あたしは無事だった。なぜかわからないけど、山蛭たちはあたしの血を吸わなかった」

 頬に添えた指先を、

「いつのまにか、闇が薄くなって、気が付くと、足元がはっきりしていた。月が出ていたのね。青い光が辺りを包んでた。細く短い糸のような山蛭たちが、よく見えたわ。彼らが息をしているのがよくわかった。さざなみみたいだった。無数の山蛭たちのさざなみ。彼らが集まろうとしているのがわかった。蟻が獲物に寄っていくと、数を増して獲物を包み込んでしまうでしょう? そんなふうに山蛭たちが塊になっていったの」


「――そんな、信じられない」

 七澤が呟いた。

「信じてくれなくていいわ。でも、ほんとうのこと」

 みちびさんは掠れた声で返す。

「山蛭たちは徐々に大きくなっていった。見る間に頭上の木々に届くほど大きくなって。もう、山蛭の集まりとは言えなくなってた。しゅわしゅわと音を立てながら、息づいている巨大な塊。それは何かほかのモノ……」

「あの村に言い伝えられている魔物だ」

 みちびさんが頷く。


「怖くなかったわ。あたしを襲ってくる様子もなかったし。なんていうか、うまく言えないけど、山と森と魔物とあたしが一体になっているような、そんな親近感が湧いてきたの。きっと」

 みちびさんが、ふっと細く息を吐いて笑った。

「あたしに得体の知れない力があったからなんでしょうね」


「やめて――みちびさん」

 紗季は両手で顔を覆った。もう、聞きたくない。


「そのとき、あたしの後ろで炎が上がったの。キネばあちゃんだった。手に、松明を持ってたわ。逃げろーって、ばあちゃんは叫んで、あたしの腕を掴んだ。あたしを魔物から救おうとしてくれたのよ。ばあちゃんは誤解してた。魔物はあたしに危害を加えようとしたんじゃないのに、松明を魔物に向けて投げようとしたの。だから、あたしはそれを止めた――魔物の前に立ちはだかって両手を広げて、魔物を救おうとしたの」

 少女が不気味な化け物の前で、必死に両手を広げている姿が目に見えるようだ。なぜ少女は魔物を守ろうとしたのだろう。村で孤立していた自分と重ね合わせたか。


「キネばあちゃんはあたしを押しのけて、松明を投げた。命中はしなかったけど、火の粉が魔物にかかったわ。きゅうーっていう――あの声、忘れられない――叫び声が森に響いて。魔物は、うねりながら元の何千匹もの山蛭に戻ろうとしてた。その中の数匹が、キネばあちゃんに降りかかって」

「血を吸われたの?」

 怖々、紗季は訊く。

「よくわからない。あたしはキネばあちゃんを引っ張って、必死になって山をおりたから。ただ」

「ただ?」

 七澤が訊いた。


「その日を境に、キネばあちゃんの言動がおかしくなって。村の人たちは、認知症が進んだのだろうと言っていたけど、あたしには理由がわかってた。キネばあちゃんは、魔物にやられたの。あの事件のあった日、キネばあちゃんは、何かに憑かれたように山へ入っていった。あたしは追いかけていった。山に入ってあの魔物のいた場所へ行けば、魔物に取り込まれるだろうと思ったから」

「あのとき亡くなったのは、キネさんのほかに五人。その五人も、あなたと関わりがあったんですか」

 みちびさんの表情が、苦しそうに歪んだ。

「深い関わりがあったわけじゃないわ。ただ、五人共、山菜取りの名人だったから、山で何度かすれ違った憶えはある。彼らもあの日以前に、魔物と遭遇していたのかもしれないわね。いまではわからないけれど」


「そして」

 軽い咳払いをしたあと、七澤が言った。

「あの事件の日、あなたはキネさんを追って山へ入った。そこでほかの五人も見つけたんですか」

「ほんとうに後悔しているわ」

 みちびさんの声が沈んだ。

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