第32話
「やめて!」
みちびさんが、七澤を見据えた。
「何度も言ってるわ。あたしは二人を救いたかった」
七澤が続けて何か言おうとするのを、紗季は七澤の腕を取って、制した。みちびさんを責めて欲しくない。
みちびさんは、善意の人だ。
「あの夜、助けを求めて、明里さんはあたしの部屋に駆け込んできたわ。後ろには、化け物がいた。はっきり見えた。しかも、あいつは、口に咥えてたの」
紗季の腕に鳥肌が立った。
「口? 化け物に口があったんですか」
七澤の目が光る。
「あれが口なのか、そんなことあたしは知らない。でも、そうとしか思えない。突起物の間に、重田さんが、挟まれていたんだから」
きゃっと、思わず叫んで、紗季は両手で顔を伏せた。もう、これ以上聞きたくない。
「なんとかしなきゃ、なんとかしなきゃっていっしょうけんめい考えたけど、どうする術もなくて。重田さんが生気を抜かれていくのがわかった。体の色が変わっていったわ。青みがかった緑から、青い灰色に。そして化け物は、明里さんめがけて進んできた。部屋の中を転がって逃げ回ったわ。そのとき」
ごくりと七澤が唾を飲む音が聞こえた。
「窓から沼が見えたの。あそこへ化け物を落とせばいいって咄嗟に思いついた。化け物があの沼から来たのなら、沼に返してしまえばいいとそう思ったのよ。それで明里さんと二人で、沼のほうへ逃げていったの。化け物は追いかけてきた。じゅるじゅると不気味な音をさせながら、滑ってきた」
「それから?」
「あの沼は、さほど大きさはないわ。でも、深いと言われていたから、しっかり鉄製の手すりで囲われているの。それでも、どこからどこまでが水なのか、よくわからなかった。大きな木の枝が沼全体を覆うように垂れ下がっていて、しかも真夜中。街灯の明かりは遠いし。闇雲に沼に向かって、飛び込むふりをしたわ。そうすれば、化け物がつられて沼に入ると思ったから。あたし、しっかり明里さんの手を握って、もう片方の手は、沼の手すりを握った」
「――重田さんのほうは」
紗季は訊いた。
化け物に銜えられた重田さんのほうはどうなったのだろう。
「あたしは明里さんを助けるだけで精一杯だった。明里さんの手を離さないよう必死だった。だけど、明里さんは重田さんを助けようとしたのね。彼に腕を伸ばしたのよ。そのと途端、化け物の体が伸びてきて、明里さんの腕を掴んだの」
「そのまま二人は沼に沈んでいったんですね」
「どうしようもなかっったのよ。あのときの恐ろしさはわかってもらえない。強い力で引きづられたというんじゃないの。なんていうか、痺れが起きたの。生臭い臭いがして、水の中にいるわけじゃないのに、全身が濡れたように重いの。動けなかった。明里さんの全身はみるみる青緑色に染まっていったわ。ああ、もうだめだって、そう思った。そのとき、もう、あなたのお友達のお兄さんのほうは」
「化け物と一体化していた?」
「ほとんど元の姿をしていなかった。粘土からうっすら元の形が盛り上がっているみたいに、ところどころ体の形が見えただけ」
「――そんな」
藍也の骨と一体化したあの化け物に取り込まれたら、自分も化け物そのものになってしまう。はじめは体の色が変わるだろう。そして体は練りこまれていき、やがて――。
嫌だ。
耐えられない。
「化け物といっしょに、二人が沼に沈んだあと、水面は静かになった。嘘みたいに、静かに」
キシッと窓が鳴った。風が出てきたのだ。
いつのまにか、日が陰りはじめている。
「みちびさん、わかっているんでしょう?」
みちびさんが、虚ろな視線を七澤に向けた。
「二人はあなたのせいで化け物に取り込まれたんだ」
「違う。あたしは二人を助けようと」
「あなたの意思は関係ない」
みちびさんの目が潤む。
「あなたには、得体の知れない力がある」
「まさか」
七澤の言葉が、紗季を揺さぶる。みちびさんは善意の人だ。そう信じる反面、恐ろしさをみちびさんに感じている自分もいる。
「二人を取り込んだ化け物は、古い言い伝えを信じるなら、もともとあの沼に棲んでいたんです。何年も何十年も、いや、何百年かもしれない。沼の底で、ひっそりと、だが特別忌み嫌われることもなく。人間の世界で様々出来事が起きては消えていく間、あの化け物は、変わらず沼の底に棲んでいたんです。ところが、あなたの出現によって、化け物は
「――みちびさんが、喚んだ?」
そんな。自分を襲うあの化け物も、みちびさんに引き寄せられたというの?
「あなたが喚んだというのは語弊があるかもしれない。たまたま異形のモノと接触した者がいた。それだけなら、いつしか異形のモノは消えていったんだ。ところが、そこにあなたがいると、ヤツらは力を増して進化していくんだ」
「やめて!」
紗季は叫んだ。これ以上何も聞きたくない、知りたくない。
「そう。あたしのせいね――全部あたしのせい」
みちびさんが、顔を上げた。
「大塚さんも救えなかった」
七澤が目を剥いた。
「やっっぱり、あなたが」
みちびさんが、潤んだ目で七澤を見つめた。
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