第31話 第九章
「兎の谷の西町にある隠乳沼で死んだ重田聡さんは、僕の親友の兄なんです」
みちびさんの両目が大きく見開かれた。
「あなたは彼らの死に関わっているんでしょ。ほんとうにことを話してくれませんか」
みちびさんの両目に涙が膨らんだ。
第九章
「みちびさん!」
紗季は弾かれたように、みちびさんに駆け寄った。
痩せた肩を抱き寄せる。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
謝っても謝りきれない。藍也から助けてくれたみちびさん。藍也が死んでからも、励まし続けてくれたみちびさん。その人を、自分は裏切ろうとしていた。
「もう、いいの。何も聞かなくてもいい。何があってもわたしは」
「わたしは助けようとしたのよ。でも助けられなかった」
紗季にすがるみちびさんの腕に力がこもった。その腕を、七澤が振り払う。
「みちびさん、教えてください。どうして重田の兄は沼に向かったんですか」
みちびさんが、激しく首を振った。
「止められなかった。化け物の力が強くて」
「化け物……」
紗季の呟きに、みちびさんが頷く。
「あの二人が化け物に取り込まれていくのを止められなかった……」
「重田の兄と、どうして関わるようになったんですか」
七澤の声は冷たい。
「あのアパートに越してきて半年ぐらい経った頃だったと思う。重田さんが、真夜中に、わたしの部屋のドアを叩いてきたのよ。助けてくださいって」
「それまでに面識はあったんですよね?」
「あったわ。廊下ですれ違えば挨拶もしたし、ゴミを出すときにいっしょだったりすると、たわいない世間話をした。誠実そうな感じのいい方だった……。彼の部屋のベランダにね、いつも真っ白な洗濯物が干してあったわ。まるでアイロンをかけたみたいに、ぴっちりと伸ばして干してあって。ああ、生真面目な人なんだろうと」
「あなたも同じ二階に住んでいたんですよね? 女性のほうとは?」
「同じよ。挨拶を交わす程度だった。ところが、あのことがあってから、親しく話すようになって」
「あのこと?」
「彼女――明里さんは、猫が好きで、でも、あのアパートは動物禁止だったから、近所をうろうろしている野良猫に、アパートの前の電信柱の横で餌をあげててね。大家さんに一度叱られているのを見て、あたしが慰めて。それから、会えばなんとなく挨拶以上の話をするようになって」
「老人について、初めて明里さんから話を聞いたのは?」
みちびさんは、辛そうに顔を歪めた。
「大家さんに叱られた後。彼女、大家さんの心無い言葉に傷つけられて、アパートを出たいって言ってた。そのとき、真夜中に奇妙な老人を見かけて、気味が悪くなって。だから、次の契約更新はしないって怒ってた」
「重田の兄や、明里さんがあなたに話すまで、あなたは老人を見たことがあったんですか?」
みちびさんは、ゆっくりと首を振った。
「知らない。ほんとなの。どうして二階のいちばん北側の部屋がずっと空室なのか、二人に聞くまで知らなかった」
「だけど、二人の話を聞いてから、あなたにも老人の姿が見えるようになったんですね?」
みちびさんは、深く頷く。
「でも、一人でいるときは見えないの。二人のうちどちらかといると、見えてしまうのよ。重田さんが、真夜中にあたしの部屋に助けを求めに来たとき、あたしは初めて老人を見たわ。重田さんがガタガタ震えながら言うのよ。老人がすり抜けていくんだって。それで、いっしょに廊下に出たの。そしたら、彼が言うように、老人が空室の前に立っていた」
そのときの恐怖が蘇ったのか、みちびさんは、眉間に皺を寄せて目を閉じる。
「しばらく老人は動かなかったわ。やるせない表情で、じっとドアを見つめたまま」
「それで?」
みちびさんが、カッと目を見開く。
「彼が言ったように、ドアをすり抜けていったのよ」
「その後は?」
「老人は頻繁に姿を現すようになった。二人は徐々に参っていったわ。重田さんのほうは、病院にも行けなくなるほど弱ってしまったし、女性のほうも、会社へ行けなくなって、引きこもり状態になってしまった」
「そのあたりのことは、友人から聞きました。友人は、兄の妄想がひどくなったと言ってましたが」
「妄想じゃない!」
みちびさんが怒鳴る。
やめて。
紗季は声にならない声で叫んだ。
そんな恐ろしい顔をしないで。
目を剥き、瞳をぎらつかせ、口から泡を飛ばすみちびさんは、紗季の知っているみちびさんではなかった。
店の客の酔態を笑顔でかわし、誰にでも親切なみちびさん。
眠れなくて真夜中に階下へ下りていったとき、そっとホットミルクを作ってくれたみちびさん。
何より、藍也から守ってくれたみちびさん。
あなたの、そんな恐ろしい表情を見たくない。
「二人とも、何度もあたしのところに来て、震えていたわ。二人には、ほかに老人の話ができる場所がなかったから。実際、アパートのほかの住人から、そんな話は聞かれなかったし。そうしているうちに、あたし、気づいたの。二人から話を聞くたび、老人の姿が変化しているって」
「変化?」
紗季は思わず声を上げた。自分を襲うあの化け物のように、老人も変わっていったのか?
「はじめは頼りなげな、ごく普通のおじいさんだったのよ。猫背の、小さなおじいさん。乾いた顔の皮膚に皺がたくさんあった。灰色っぽい作業着みたいなのを着ていたわ。それが、二人の話を注意深く聞いていると、外見が少しずつかわっていくのがわかった。変化は徐々に加速度を増して、明らかにおじいさんの容貌に異変が起き始めた。作業着は見るたびに剥がれていって、そして皮膚が、何か――そう、薬品にただれたみたいに、青く変わっていっているというの。顔も、首も、剥がれた作業着から覗く体の部分も、青く……。その青っていうのがね、女性が言うには、緑がかった、黴みたいだって」
紗季はブルっと体を震わせた。七澤も、表情を曇らせる。
「そんな馬鹿なことある? あたしは信じられなかった。信じたくなかった」
「いや、あなたは、信じられたはずだ」
七澤のきっぱりした物言いに、みちびさんがうろたえるのがはっきりわかった。
どういうこと?
みちびさん、あなたは何を知っているの?
「あたしは、二人を助けなきゃと思った。あいつは――あの化け物は、どんどん力をつけて進化をし続けているように思えた。近いうちに、必ず二人は化け物に取り込まれてしまう。その前になんとかしなきゃって。その頃、化け物はもう、あの絶望に打ちひしがれた老人の片鱗もなかった。体全体がぶちょぶちょと膨らんだ感じで。そう。蛙が潰れたみたいな形。手足ははっきりしなくて、伸びたり縮んだりを繰り返してるの。その上」
みちびさんの息遣いが早くなった。ヒーヒーとかすかに喉が鳴る。
「その上、表面が、たくさんの気味の悪い突起物で覆われていたのよ。まるで、そう。池の底に溜まっている泥に、空気の泡が吹き出してるみたいな」
更に、みちびさんの息遣いは荒くなる。紗季はみちびさんを抱いた腕に力を込めた。みちびさんの薄い背中が震えている。
「醜い化け物だった。もう、あいつはあのかわいそうな老人じゃなかった。そしてあいつはやって来たの」
「やって来た?」
七澤が目を剥く。
ああ。同じだ。
化け物が力を増したのだ。
「そうよ。あの夜」
「二人がアパートの隣にある沼に沈んだ夜ですね」
「女性のほう――明里さんは、あの夜以前から、化け物に脅かされていたのよ。今にして思えば、もっと早く明里さんを逃がしてやるべきだった。明里さんは言ってたわ。表を歩いていても、一人になると、背中を何かに引っ張られる感じがすると。勘違いじゃないの。腕を取られたときは、腕に青緑色のぬるぬるした液体が付くって。背中を押されたときは、背中に濡れた布を置かれたみたいに重くなると。それを聞いて、思ったわ。もしかしたら、化け物は水のある場所から来たんじゃないかと」
「水といえば」
七澤が声を上げた。
「そう。あの二人が沈んだ沼よ。アパートのすぐ脇にあった、古い沼。それを思いついたとき、化け物はあの沼に棲みついている何かなんじゃないかって思ったの」
「僕が調べたところでは、あの沼には魔物が棲みついていると言い伝えがあったようです。いまでは誰も知らない話ですが、昭和になる前までは、人を喰う生きものが棲むと恐れられていたようです」
ああ、いやだと、みちびさんが呻く。
「どうしてそんなものが蘇ってきたのか」
「その理由を、あなたはわかっているんでしょう?」
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