第30話
七澤が紗季の顔を覗き込んでいる。
傍らにたたずむみちびさんも、心配そうに紗季を見つめている。
紗季はゆっくり起き上がった。
「七澤さん、どうしてここに」
「コンビニで待ってたんだ。でも来ないから心配になって」
「行こうとしたの。でも」
「どうしてこんなところに倒れていたんだ?」
紗季が倒れていたのは、階段の上り口だった。二階から階段を下まで転げ落ちて、そのまま気を失ってしまったらしい。
「足を踏み外して……」
みちびさんから逃げようとして階段を駆け下りようとしたとは、言えなかった。さっきは恐怖を感じたが、今、紗季を見つめているみちびさんは、いつもの彼女だ。
七澤が、転がっているビニールバッグを手に取った。
「紗季ちゃん、荷物はこれだけなんだね」
みちびさんが、紗季と七澤を交互に見た。
「――そういうこと。紗季ちゃんたら、友達に会うだなんて、下手な嘘をついたってわけね」
思わず紗季は俯く。
「それにしても、ずいぶん、急ね。来年の春まで動けないとばかり思ってたわ」
「そうですよ。でも、一日でも長く、紗季ちゃんをここに置いとけないと思ったんです。ここに、みちびさんの近くに置いとけないと思ったんです」
えっと、紗季が七澤を見上げた。
「ここにいる限り、紗季ちゃんの前から化け物は消えない。なぜなら、化け物はみちびさんの存在によって力を得るからだ」
「どういうこと?」
「この人はね、言ってみれば、化け物の分身なんだ」
「――何を言ってるの、七澤さん」
紗季はおろおろと七澤とみちびさんを交互に見た。
「みちびさん、あなたは化け物が見えているはずだ」
みちびさんが目を剥いた。
「嘘。見えてるはずない」
そう言った紗季を、七澤が制する。
「見えてるんでしょ、みちびさん」
布団の端に現れた化け物を、みちびさんが窓へ追いやってくれたときの様子が蘇ってきた。あのとき、みちびさんは、紗季の誘導によって、化け物を追いやった。的確に窓のほうへ誘い、部屋から追い出してくれた。
あのときの、みちびさんの動き。闇雲に燃える掛け軸を振り回していると思ったが、そうではなかったのか。あのとき、化け物に向かうみちびさんの足取りに迷いがなかった。そういえば、迷いがなさすぎた。
「みちびさんの力を得て、哀れな魂は、化け物に進化していったんだ」
すうっと、みちびさんの顔から表情が消えていった。
「――進化?」
紗季は呟く。
「そう。浮遊するだけの哀れな魂は、みちびさんを介して、この土地の魑魅魍魎と結びついたんですよ」
「そんな」
「僕だって、もちろんはじめは半信半疑だった。だが、今日、日比木村の出身者に会って確信を持った」
みちびさんが、目を剥く。
「誰に、会ったの」
「
「蒲原清子……」
みちびさんの目が、遠くを見るように細められた。
「僕はあなたのことを調べるために、村の出身者を探していました。あなたを知るには、あの村にいた頃のあなたに何があったか知る必要があると思ったからです」
「いつからそんなことをしていたわけ?」
みちびさんが口元を歪めて訊いた。
「半年ほど前からです」
「あなたは偶然蛍火に現れたわけじゃなかったのね。わたしを調べるために、近づいてきたってわけね」
七澤は返事をせず、続ける。
「あの村の出身者を見つけるのは、なかなか大変でしたよ。あの村が廃村になってから十年は経ちます。行政の指導で廃村になったわけでもなく、過疎が進んで自然と人がいなくなった場所です。出て行った住民を探すのは難しい作業でした。どうやって調べたものかと悩んでいたとき、六年ほど前、あの村で、ボランティア団体が、農業体験のイベントを開いたのを知ったんです」
七澤の表情が、心持ち緩む。
「農業体験のイベントといっても、大して大きなイベントではありません。村に自生していた山椒の木から実を取って、それを農業フェアで売ってみる。そんなイベントでした。そのとき、ボランティアの人たちが頼ったのが、村出身者の老人たちでした。僕はそのボランティア団体から、協力してくれた老人たちの名を知ることができた。その中に、蒲原清子さんがいたんです。八十二歳の高齢の方です。彼女は現在、兎の谷で、娘夫婦といっしょに暮らしています。日比木村は今は廃村となってますから、彼女の家土地は、もうあの村にはありません。だが、墓はまだあの村にあるそうで、彼女は月に一度の墓参りをかかさないらしい。今日、僕は彼女を連れて日比木村へ行ってきたんです」
「――そんな人、憶えてないわ」
低く、みちびさんが呟いた。
「そうかもしれません。あなたがあの村にいたのは八歳までだ。憶えてないのも無理はない。でも、あの失踪事件で見つかっていない蒲原義雄さんの奥さんだといえば、記憶が蘇ってくるんじゃないですか」
「あの事件って」
有賀さんから聞いた、あの奇妙な事件か。
紗季の予想は当たった。七澤がみちびさんを冷えた目で見据える。
「あなたが村を出ることになった事件ですよ。六人もの人が、一晩のうちに失踪してしまった。雫が乾くように忽然といなくなった人たちには、同じ村に住んでいるという以外、何の接点も共通点もなかった。ただ、一つ、あなたと交流があったということ以外には」
みちびさんは唇を噛み、七澤をにらみつける。
「四十四年前、ある家族が村にやって来ました。男親と三人の子どもです。蒲原さんは、彼らのことをよく憶えていましたよ。四人ともボロボロの衣服を着て、まるで浮浪者のようだったと。日比木村は、県境の辺鄙な場所にある村です。今は道路も整備されて行きやすくなっていますが、当時はまさにこの県のチベットといってもいい場所でした。そんなところに、なぜみちびさんの家族がやって来たのか、今となっては確かなことはわかりませんが、蒲原さんが言うには、隣村で行われていた土木工事に雇われていた男親が、そこで何か問題を起こし、日比木村に逃げてきたんじゃないかと」
「聞きたくないわ、そんな話」
みちびさんが呻くように言ったが、七澤は続ける。
「家族は村の神社の軒下に居着きました。男親は陽気な男で、村の人々の機嫌を上手に取って世話になっていたようです。村の人たちは親切でした。母親のいない子どもたちに、同情もあったんでしょう。まして、未子はまだ二つにもならないような小さな子でしたから。ところが、村人の好意を仇で返すように、ある日、家族は黙っていなくなってしまいます。しかも、置き土産を残していきました。末の女の子を置いていってしまったんです」
「それが、もしかして」
紗季の呟きに、七澤は頷いた。
「なぜ、男親がみちびさんだけを置いていったのか、その理由はわかりません。三人の子どものうち、上二人は男の子でした。女の子は旅の暮らしに足手纏いだと思ったのか、かわいらしい顔をした女の子でしたから、この子なら村人にかわいがられると思ったのか」
みちびさんの強さの原点を、紗季は見たように思った。親に捨てられ、たった一人で生きてきたのだ。
「みちびさんは、子どものいなかった農家の夫婦に引き取られ、すくすくと育っていったそうです。ただ、蒲原さんの話によると、彼女は物心ついた頃から、奇妙な力を持った子どもだったらしい。彼女が田んぼへ出ると鴉が何羽も集まってきて、彼女のまわりを囲んだり、山では木の枝にぶら下がった数匹の蛇たちが、彼女を守るように後を追ってきたり。狐を数頭従えて、山を歩いていたのを見た者もいるらしい。誰も表立っては口にしなかったが、何か得体の知れない力を持った子どもだと思われていたんだ」
「得体の知れない力……」
いつだったか、野良犬を追い払ったみちびさんのことが蘇った。あのとき感じた奇妙な気持ち。みちびさんを怖いと思った。
「あなたの父親は、自分は鳴り物を作る家系の末裔だと言っていたそうですね」
「鳴り物?」
紗季には初めて聞く言葉だった。
「そう。宗教儀式の際に使われる音の出る物のことだよ。神社の境内に吊るされている鈴や、僧が行脚のときに鳴らす鐘や、仏壇に置かれるお
みちびさんの表情は変わらない。冷えた目のまま、七澤を見据えている。
「みちびさんの得体の知れない力というのは、やがて、土地に根付く何かを呼び覚ます力と思われるようになったようです。鳴り物を作る一族の子どもという事実が、余計そんなふうに思わせたのかもしれない。金や鈴の響きは、神との橋渡しの意味もあるんだ。みちびさんという名の少女は、まるで鳴り物のように異界との橋渡しをするんじゃないかとね。そして、あの事件が起きた」
紗季は両手の拳を思わず握り締めていた。
「六人の痕跡――衣服などが見つかったのは、普段村人も近づかない山の中でした。山蛭が多く生息すると嫌がられていた場所です。なぜ、六人は、そんな場所へ行ったか。僕はみちびさんがおびき寄せたんだと思っています」
「まさか」
紗季はみちびさんを振り返った。
「だってみちびさん、まだ八歳だったんでしょう? そんなことできるはずがない」
「だが、六人の遺体が村の消防団に見つかったとき、みちびさんが遺体のそばで気を失っていたんですよ」
「わたしはなぜあの場所にいたのか、自分でもわからなかったのよ」
「そうらしいですね。蒲原さんもそう言っていました。見つかった子どもは、記憶を失っていて何も聞き出すことができなかったと。六人のうちの一人、遠山キネさんというおばあさんと、あなたは親しかったそうですね。学校帰りに、キネさんの家の庭で一人遊んでいるところを蒲原さんはよく憶えていました」
みちびさんの瞳が、一瞬、翳った。
「だから警察は、夜になっても帰らないキネさんを探しに出かけたあなたが、六人の衣服が落ちていた場所を見つけ、倒れてしまい、そのまま朝を迎えたのだと結論づけたんだ」
「そう。多分、そうよ」
「みちびさん」
七澤がみちびさんを見据えた。
「ほんとうのことを教えてください」
「……」
「もう紗季ちゃんは知っていることですが、僕があなたのことを調べ始めたのは、親友の重田に相談されたからなんです」
「親友の――重田」
みちびさんが、ゆっくりと繰り返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます