第29話

「紗季ちゃん、僕だよ」


 七澤の声は、緊迫していた。

「なんとか理由を作って、みちびさんから離れるんだ」

「えっ、どうして」

「理由は後で話す。町から集落へ入る国道の脇にコンビニがあるだろ? あそこで待っているから、来て欲しい」

「無理です。すぐになんか出られません」

 紗季がそう言ったとき、みちびさんが顔を向けてきた。


「誰?」

「――翔子さんが」

 紗季は咄嗟に思いついた名前を挙げた。七澤だと知られたくない。

「翔子さんて、お友達?」

「そうです。昔、お世話になった」

 紗季の嘘を信じたのか、みちびさんは顔を客のほうへ向けた。テーブル席のほうで、カラオケ装置の具合が悪いと声を上げている。

 紗季はみちびさんに背を向けて、小声になった。

「今、どこにいるんですか」

「日比木村だよ」

「日比木村?」

 なぜ、七澤はそんな場所に。


「ここはみちびさんが育った土地なんだ」

 ええと、紗季は頷く。

「ここで今日、人が行方不明になった」

「知ってます」

 詳しく話したいが、口にするわけにはいかない。

「もしや、彼も、蛍火の客だったのか?」

「ええ」

 七澤が黙り込んだ。


「-―あの」

「つながってるのかもしれない、全部」

「どういうことか、わたしには」

「僕がここへ来たのは、調べたいことがあったからなんだ。それで村を歩き回っているうちに、消防車がやって来て」

 七澤は、大塚の失踪を知ったのだ。

「その男の遺留品が見つかったのは、幼い頃のみちびさんが見つかった山なんだよ」

「え」

「そう。その男性は、みちびさんについて調べていたんだと思う。そう思うのには理由があってね。僕は消防団が来るまで、男の遺留品を見つけた大学生たちといっしょにいたんだけど、そのとき、男性のノートが落ちていてね。それを見たんだ。そこには、僕の知っている名前が記されていた」


「知っている名前?」

「ああ。本村明里。この男性も、明里さんを調べていたようだ。彼女にしろ、今日いなくなった男性にしろ、みちびさんに関わっている。どんな関わり方をしたのか、それはまだわからない。だけど、危険なんだ。それは確かなんだよ」

「そんな」


「店を出るんだ、紗季ちゃん、すぐに」

 紗季は店の中を見渡した。酔客たちの盛り上がりは、そろそろ収まりつつある。有賀さんとマッくんが、連れ立って店を出て行った。残りの客たちも長くはないだろう。そして、みちびさんと二人の夜が始まる。

「わかりました。行きます」

 そう言ったとき、みちびさんが顔を向けてきた。


「どうしたの、紗季ちゃん」

「あ、あの、翔子さんが、すぐに来て欲しいって」

「これから? 何があったの?」

「ど、同居人の男に、ひどい目に遭わされてるみたいで」

 苦しい嘘だが、なんとか切り抜けなくてはと思う。

 みちびさんの目は、すべてを見透かすように、鋭く光っている。

「し、翔子さんは、恩人なんです。だから、ほうってはおけない……」

 みちびさんの視線はれない。

 みちびさんの目の下には、薄く隈がある。頬にかかった後れ毛が、余計に疲れを感じさせた。美しい人だが、今夜は凄みすら感じる。


「あたしは紗季ちゃんが心配なのよ。今は人のことに構ってる場合じゃないわ」

「でも」

 七澤の緊迫した声が蘇ってくる。みちびさんから離れるんだと響いてくる。

「やっぱり行きます」

 どうしたっていうの?

 みちびさんの顔には、そう書いてある。明らかに紗季にたいする不審感がひろがっている。

 それでも、みちびさんは穏やかに言った。

「わかったわ。お客さんがいなくなったら、その翔子さんとやらのところまで送るわよ」

「いえ、いいんです」

 七澤と約束したコンビニに、みちびさんといっしょに行くわけにはいかない。

 テーブル席にいた最後の客が、

「ママ、お勘定!」

と、声を上げた。みちびさんが踵を返して、テーブル席へ向かう。

 その隙に、紗季は二階へ駆け上がった。出て行くとなれば、荷物をまとめなくてはならない。

 


 ここを出なければ。

 紗季は押入れから手当たり次第、身の回りの物を集めた。スーツケースなどは持っていないから、いつだったか百均で買った、大きなサイズの取っ手のついたビニールバッグがあるのを思い出した。

 押入れの奥に腕を伸ばし探す。

 あった。

 畳の上で口を広げ、手当たり次第詰め込む。

 階下から紗季を呼ぶ声がした。


「紗季ちゃん、何しているの?」

 下着や化粧品。ジャケットやセーター。大した量ではないのに、バッグが膨らむ。

 この膨らみ。

 みちびさんに不審がられるかもしれない。そしたら、なんと答えようか? 

 ああ、何も思いつかない。


 階段を上がる足音がして、みちびさんがやって来た。

 部屋の入口に立って、紗季を見下ろす。


「どういうこと?」

 視線を避けたまま、紗季は自分の体の後ろへバッグを押しやった。

「出て行くつもり?」

 うなだれたまま、紗季は自分の手元を見つめる。

「そうなのね」

 静かだった。みちびさんの荒い呼吸が聞こえる。自分の心臓がバクバクする音も。


「なんとかってお友達が待ってるってのは――嘘なの?」

「すみません」

「ねえ、紗季ちゃん」

 みちびさんの声音が優しくなった。

 顔を上げ、紗季はみちびさんを見上げた。

 口元を柔らかく緩め、みちびさんは微笑んでいる。ただし、その目は笑っていない。瞬きせず紗季を見据えている。


「紗季ちゃん、ここから逃げようとしているの」

 ここからじゃない。

 あなたから逃げようとしている。

「ねえ、答えて!」

 紗季の全身に震えが走る。

「に、に、逃げるつもりじゃありません。でも、怖くて」

「わかるわ、わかるのよ、紗季ちゃんの気持ち。だけど、怖がってるだけじゃ駄目だって、何度も言ってるじゃない。負けちゃ駄目なの。化け物は、こっちの弱い気持ちにつけこんでくるのよ。だから、強くならなきゃ」

「無理です。わたし、強くないんです」


「だから」

 みちびさんが近寄ってきた。思わず、紗季は後ずさる。

「だから、あたしが力になってあげてるんじゃないの。あたし、今度こそ、助けたいのよ」

「今度こそ?」

 紗季は目の前のみちびさんを見つめた。


「今度こそって……。みちびさん、それ、どういうことですか」

 みちびさんは、左右に激しく首を振った。後ろでまとめてあった長い髪がほどける。そのまま両手で頭を掻き毟る。


 これは誰?

 誰なの?

 目の前にいるのは、自分の知っているみちびさんじゃなかった。だが、どれほど知っていたというのだろう。何も知らないのだ。彼女の本当の姿を、自分は何も知らない!


「ねえ、紗季ちゃん、いっしょに戦いましょ」

 頬にかかった髪を、みちびさんはゆっくりと払い除けた。大きく見開かれた目が、じっと紗季に注がれる。

 みちびさんの手が紗季の手に重ねられた。


「あんたを死なせやしないから。約束するから」

 死ぬ? 何を言っているの?

 紗季は立ち上がった。


「待って! 紗季ちゃん!」

 足首が動かない。みちびさんの手が、紗季の足首を掴んでいる。

「離して、みちびさん、痛い!」

 紗季は叫んだ。

 足首にみちびさんの指が食い込んでくる。闇雲に足を振って払い除けようとすると、みちびさんは転げまわって食いついてくる。


 やめて、みちびさん、離して、わたしを自由にして!


 ふいに、窓の下から車の音が聞こえてきた。

 紗季は弾かれたように、動きを早め、階段へ向かった。みちびさんも追いかけてくる。


「あっ」


 紗季は躓いて階段を転げ落ちた。

 思わず目を閉じ、ふたたび目を開けたとき、紗季はたくましい腕に抱かれていた。


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