第28話 第八章
第八章
蛍火は賑やかな喧騒に包まれていた。
テーブル席はいっぱいで、カウンターにも窮屈そうに客が並んだ。カラオケは大音量で流され、笑い声や嬌声が飛び交った。
集落の世話役である中川さんは、根っから陽気な
中川さんたちより早くから陣取ってカラオケを楽しんでいた有賀さんが、中川さんたちの勢いに押されて、今夜は静かだ。
「突き出しの烏賊がもうなくなるわ」
みちびさんが、カウンターの中で紗季に耳打ちした。
「だいじょうぶですよ。今からじゃ、お客さんは来ないだろうし」
時刻は十時になろうとしていた。蛍火はふらりと客が入ってくるような店じゃない。集落の端に、隠れるようにある店だ。
「そうね。集落の主だった顔は全部揃ってる」
そう言ってみちびさんは、いたずらっぽく笑った。その笑顔に、紗季は安堵を覚えた。
昼間、紗季が黙って出かけたことを、みちびさんは気にしていないようだ。
みちびさんからの電話で、慌てて店に戻った紗季だったが、西町からのバスの時間が合わず、店に着いたのは夕方の四時を過ぎていた。外出の理由を作るために、駅前の花屋で、フラワーアレンジメントの置物を買ったせいで、余計に時間がかかってしまった。
急遽、整体師時代の世話になった子が結婚することになった。そのお祝いを買いに出かけたのだと言うつもりだった。
何度も胸の中で、言い訳を練習しながら蛍火に戻ったが、みちびさんからは何も訊かれなかった。紗季が下げて帰ってきた買物袋を一瞥しただけで、今夜の段取りに話を進めた。それがかえって奇妙だったが、といって、こちらから話を戻すのも怖い。
「そろそろ表の看板を入れてもいいかも」
カウンターの客におかわりのサワーを渡しながら、みちびさんが言う。
「そうですね」
応えた紗季が息で曇った窓に目をやったとき、入口の扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、マッくんだった。
マッくんはほんの少し頭を下げてから、店内を見渡し、それから真っ直ぐカウンターにやって来た。
「いらっしゃい」
そう声をかけたものの、席はいっぱいだ。
すると、カウンターの端に座っていた常連客のおばさん二人が、腰を浮かせた。
「あたしたち、もう帰るから」
「いや、いいっすよ」
マッくんは遠慮がちに言ったが、有り難がっているのがわかる。
「いいのよお。眠くなったから」
そう言って二人はアハハと笑い、マッくんに席を譲った。すみませんねえとみちびさんがおばさんたちに声をかけ、会計を始めた。会計はおばさんたちの席とは反対側のカウンターに置かれたレジで行う。みちびさんが金額を告げると、おばさんたちは、わたしが払う、いやわたしがと押し問答を始めた。酔っているせいもあって、なかなか結論が出ない。
マッくんは椅子に腰掛け、紗季に目配せを送ってきた。
目配せの意味がわからないまま、紗季は、
「何にします?」
と、おしぼりをマッくんの前に置く。
「ビール」
マッくんはそう言い、そして付け足した。
「大塚が死んだんだ」
鳩尾を掴まれたように、息が詰まった。
「い――いつ」
「今日」
カウンターに肘をつき、マッくんは指先で目頭を揉む。
「びっくりだよ。まだ、信じられない」
「どうして――」
マッくんは、首を振った。
「大塚の同僚から死んだって知らせが来たんだ。死因は――」
膝が震え始めた。自分でもどうにもならない。
「おい、だいじょうぶかよ」
紗季は目を閉じた。鼓動が早まる。
「それでさ、俺、大塚から
「言伝?」
マッくんは、ちらりとみちびさんを見た。みちびさんはレジの前で俯いて、結局割り勘になったおばさんたちの会計を進めている。
「みちびさんには、内緒にしてくれって」
紗季は頷く。
「昨日、大塚からメールが来たんだよ。俺、ジャスミンたちとバカ騒ぎしててさ、返信もしなかったんだ。まさか、死ぬなんて思わなかったから。それで今日さ、死んだって聞いて驚いてメールを開いたんだ。そしたら――」
「紗季ちゃん」
声のしたほうへ顔を向けると、中川さんが手を振っている。
「おかわりちょうだーい」
「はい」
返事はしたものの、体が動かない。
マッくんがスマホをカウンターの上に置いた。メール画面を開き、紗季側に機体の方向を変える。
紗季は顔を近づけた。
――千川明里という女性を調べた。彼女の同僚だった看護師を見つけ、彼女がその同僚に送ったメールを添付した。この添付メールを、蛍火に行き、みちびさんに知られないよう紗季さんに見せて欲しい。自分で見せに行きたいが、明日は蛍火に行けないから。頼む――。
大塚からのメールの文章はこれだけだ。
紗季の視線を確かめて、マツくんは添付画面を開いた。
――春菜、信じてくれる? わたしの見たもの。
明里の同僚の名は春菜というようだ。
――また例のおじいさんを見たの?
――そう。でもおじいさんじゃないんだよ、もう。
――どういうこと?
――おじいさんの見た目が変わったの。皮膚に黴が生えたみたいに斑に青くなってた。
――いやだ、何それ。
――形も変わったの。大きく膨らんで、手足がどこかわかんなくなって。伸びたり縮んだりしているの。
「あ」
紗季は思わず叫んだ。
同じだ。まるで、同じ。霊が形を変えている。紗季が見た手の形が、徐々に蜘蛛の化け物に変わっていったように。
二人のやり取りは続く。画面からは、明里の恐怖も春菜の戸惑いも、淡々としてあっさりと続いているように見える。だが、紗季にはわかる。明里の恐怖が、身に迫ってくる。
――もう、いや。耐えられない。
――ほんとに見えたの?
――ほんとだってば。
――明里、夜勤続きで疲れてるんじゃないの。
――違う、違うってば。信じて、春菜。わたしが見たおじいさんの霊が、どんどん姿を変えてってるんだよ。もう、あれは霊じゃない。化け物になったんだよ。おじいさんが化け物に変わってってるんだよ。
――明里、アパートを出たほうがいいよ。それから、ゆっくり休んだほうがいいと思う。
春菜という同僚が、明里の話を信じていないのがわかった。だからだろうか、明里からの返信はない。メールはここで終わっている。
マッくんが、訝し気な目を上げた。
「何の話?」
明里はあのアパートで化け物を見たのだ。そして、そこには、みちびさんがいたのだ。おじいさんの霊が形を変えて化け物に変わっていったとき、みちびさんがいたのだ。
――鍵はみちびさんにある。
そう言った七澤の声が蘇る。
――七澤は、蛍火からあなたを救い出したいんですよ。
重田の声も響く。
「なあ、紗季ちゃん。これ、そんな重要な話なの?」
ここにいちゃいけない。
紗季は恐怖に震えながら、はっきりとそう思った。みちびさんを裏切れない。そう思っていた。でも、もう無理。ここから逃げ出したい。
「紗季ちゃん」
みちびさんの声に、紗季は顔を上げた。レジの横に立つみちびさんの視線を受けた。
「中川さんのおかわりは?」
のろのろと動き出し、後ろの棚からグラスを取り出した。それからビールサーバーのつまみを掴む。グラスに泡が盛り上がる。
そのとき、奥のテーブルにいた中川さんがマッくんに気づいた。
「おお、井澤。久しぶりじゃないか」
有賀さんが立ち上がって、ふらふらと店を横切ってきた。
「どうした。元気ねえじゃないか」
どかりとカウンターの椅子に腰を下ろし、乱暴にマッくんの肩を叩く。
「なんだ、何も飲んでねえじゃないか」
有賀さんが言う通り、マッくんの前にグラスはない。紗季がビールを出しそびれたのだ。
「ママ、井澤に焼酎! 俺のボトルから作ってやって」
まだマッくんに訊き足りない。みちびさんに聞かれたくないのに。
「なんだよ、葬式でも行ってきたのか?」
いつもと様子が違うマッくんを、有賀さんは怪訝な顔で覗き込んだが、マッくんは控えめな笑顔を返すだけだ。
みちびさんが、焼酎の入ったグラスを持ってやって来た。グラスを受け取り、マッくんはごくごくと喉を鳴らして飲む。
そして、有賀をねめつけた。
「俺、通夜帰りなんですよ」
有賀さんが目を丸くする。
グラスを置き、マッくんはみちびさんに顔を向ける。
「ここに、俺が呼んだ男、憶えてます?」
みちびさんが、目だけを紗季に向けてくる。
「えっと、誰だったかしら」
「俺の同級生の大塚。閉店間際にここに来て、みちびさんが営業時間を延ばしてくれたじゃない。なんとかっていう失踪した友人を探してるってーー」
ああと、みちびさんは曖昧な返事。
「今、あいつ、行方不明なんですよ」
叫び声こそ出さなかったものの、みちびさんが体を固くしたのが紗季にはわかった。
「多分、死んでるんじゃないかって」
「なんで行方がわからないんだ? おまえと同級生なら、まだ若いだろうに」
有賀さんが目を丸くして訊いた。そんな表情をすると、人の良さが滲み出る。
「くわしくはわからないんだけどさ、あいつの荷物だけが山の中でみつかって」
「そんな」
紗季は口元に手をやった。嫌な予感がする。
「どこの山だ?」
マッくんは顔を上げた。
「日比木村ってわかる?」
カラン。
手から、持っていた盆が滑り落ちた。慌てて、やだ、手が滑っちゃったと紗季は呟く。
日比木村という名は、大塚からたしかに聞いた。日比木村は、みちびさんの生まれ故郷だと大塚が言っていたのではなかったか。
有賀さんが、引き取った。
「日比木村って知ってるよ。県境のど田舎の村だろ? 子どもんときに、遠足で行った憶えがある」
有賀さんが、紗季に前の客が食べ終えた皿を渡してきた。すみませんと、紗季は受け取る。マッくんから大塚のメールを見せられたせいで、こんなことも忘れていた。
「だけど、今は、人が住んでないはずだがな」
「そ、数年前に住民がいなくなって、今は廃村になってるようなところ」
「なんで、おまえの知り合い、そんなところに行ったんだ?」
「わかりませんよ」
県境の村とはいっても、車を使えば、二時間ほどで往復できる場所なのだという。
大塚の衣服や荷物が、その村の山奥で見つかったらしい。
「誰が見つけたんだ?」
「町の大学生らしいですよ。廃屋写真を撮るサークルの連中みたいで、村の写真を撮ったあと、山歩きをしたらしくて」
「それで、警察を呼んだってわけか」
「すぐに、村の消防隊も来たみたいですけどね」
「見つからないのか?」
マッくんが首を振った。
「そんなに高い山じゃねえのになあ」
「高くはないけど、廃村の山だから、人の手が入ってないせいで物凄く鬱蒼としてるみたいですよ」
「怖いわねえ」
呟いたみちびさんを、紗季は見た。その目は言っている。もう、これで、大塚に疑われる心配はないわね。
知らず知らず、紗季の膝が震え始めた。
そう。もう、誰も、藍也の失踪とこの蛍火を結びつけない。これで危険は回避された。
だけど。
何かが引っかかる。
ふいに、なんとかするわと言ったみちびさんの声が蘇った。
彼女は一昨日、大塚が帰ったあと、そう言ったのだ。
まさか。
大塚の衣服や荷物が見つかったのは、今日のことだという。
今日、千川明里のアパートへ行っている間、みちびさんは中川さんたちとの打ち合わせに出かけていた。だが、それが嘘だったら――。
大塚と連絡を取るのは簡単だったはずだ。大塚が務めるタウン誌の事務所に電話をすればいい。話があると言えば、大塚はみちびさんの呼び出しに応じただろう。そして大塚を日比木村へ呼び出したとしたら……。
指先が震えて、有賀さんから引き取った皿がカタカタと鳴る。
「おい、おい、紗季ちゃん。どうしたんだよ」
「な、なんだか寒くて」
「寒い? こんなに暖房が効いてるのにか?」
有賀さんが訝しげに言う。みちびさんの視線が痛かった。しっかりしなさい。目はそう言っている。ボロを出さないで。そうも言っている。
「自殺だろうって言ってるやつもいるんだけど」
マッくんが呟いた。
「俺にはそうは思えない。あいつはそういうタイプじゃない」
「あんな村に何の用があったのかね」
有賀さんが、マッくんに顔を戻した。
「さあ。仕事柄、なんかの取材だったのかなあ」
「普通の村とは違うからな、あそこは」
「え、どういう意味です?」
マッくんの声に、紗季も聞き耳を立てる。
「知らないの? あの村、有名なんだよ」
そして、有賀さんは、みちびさんにも同意を求めた。
「ママも知らない?」
さあと、みちびさんは首を傾げてみせる。
「三十年ぐらい前かなあ。いや、もっと前だったかな。俺が中学のときの話だから。あの村で、失踪騒ぎがあってさ」
「ええっ」
と、マッくんが叫ぶ。
「なんですか、それ。知りませんよ」
「六人、そう六人だ。一晩で村人がいなくなっちゃったんだよ。といってもね、はじめは個別にそろぞれ理由があって家出でもしたんだろうって言われてたんだが。最終的には集団失踪ってことで話は収まったんじゃないかな」
「ちょっと、待ってください」
と、マッくんがスマホの画面を動かし始めた。
「あ、あった。日比木村の集団失踪。ブログに書いてる人がいますよ。日比木村の謎……」
だろ、と有賀さん。
「ほんとのとこはね、わかってないらしいよ。理由も何もわかってない。山ん中に、六人の衣服やなんかが残されててさ。それで本人たちは見つからないまま、三十年だよ、三十年」
「ブログにもそう書いてありますよ。何の手がかりもないみたいですね」
マッくんが画面に顔を向けたまま、呟く。
「六人が一晩でかあ」
「神隠しだって聞いたよ、俺は昔」
「ほんとだ。現代の神隠しって書いてある」
「当時、いろんな噂があったんだよ。それだけ事件の衝撃が大きかったんだろうけどね。なんせ、六人だから」
「どんな噂だったんですか」
マッくんがスマホから顔を上げた。
「同じ村の六人だったけどな、何のつながりもなかったんだ。友人というわけでもないし、ま、小さな村だから、顔ぐらいは知っていたかもしれないが。それにしたって、着のみ着のまま山奥へ連れ立っていくような仲じゃなかった。だから噂の一つには、山に棲む魔物にやられたんだろうっていうのがあってさ」
「有賀さん、やめて。気味が悪いわ、そんな話」
みちびさんが硬い声で制したが、有賀さんはおもしろがっている。
「あの辺りの山にはさ、いるんだよ、魔物が。
震え続けている紗季に、有賀さんは顔を向けた。
「蛭って、あの血を吸うやつですか」
と、マッくん。
「あの辺りの昔話にあるんだよ。山蛭が化けた魔物の話。だけどさあ、昔話じゃ、山蛭の魔物は、おどけた顔をしててさ、ちっとも怖くないんだよね。それが、六人の生き血を吸って殺してしまったって。なんだか俺は信じられなかったけどね」
「まさか、大塚もその山蛭の魔物にやられたっていうんですか」
「そりゃないだろうけどさ」
「なんで、あいつ、そんな村に行ったんだろ」
マッくんが、ぽそりと呟いた。
大塚はみちびさんの過去を探るために出かけて、そして失踪してしまったのだ。
これを、どう考えればいいのだろう。
そのとき、エプロンのポケットの中で、スマホが震えた。画面を開けると、七澤の文字があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます