第27話

 鬱蒼とした雑木林に囲まれた沼は、昼間でも薄暗く不気味な感じがしていた。

 アパートに越してきて、兄といっしょに荷物を運び終えた重田は、窓からの景色に何か嫌な予感を抱いたという。


「でも、兄のためにはいいのだと思い直しました。とにかく静かだったし、大家さんもいい方で」

 大家の白井さんは、兄の事情を理解してくれ、重田が帰ったあとも、何かと世話を焼いてくれたという。一人暮らしの兄のために食事のお裾分けは一度や二度ではなかったらしい。辺鄙な場所だから、入居希望者は少なかったのだろう。家賃の値下げ交渉もせず、入居を決めた兄を、大家は大事にしてくれたようだった。

 そうして兄は、静かで穏やかな生活を始められた。アパートは八部屋あった。どの間取りも、六畳と四畳半に小さな台所とトイレ風呂付きという同じ造りで、どの部屋もベランダが沼に面していた。


 重田の兄が両隣に人が住んでいるのを知ったのは、引っ越してから半月ほど経ったときだったという。

「以前住んでいたマンションでは、人に会うのは嫌だと言って、洗濯物を外に干したがらなかったんですが、ここでは外に干せるようになったみたいで」

 七澤のようには、重田はアパートを振り返らなかった。手にした菊の花びらを、そっと撫でながら続ける。

 ふと、紗季は気になって訊いた。


「あの――お兄さん、ご結婚は」

 重田が辛そうに、首を振った。

「病気がもとで、離婚しました。ここへ引っ越す数年前です。仕事がまともにできなくなってしまって、経済的にちょっと――」

 それ以上は聞けなかった。聞くつもりもない。

「ベランダへ出たとき、挨拶をしたようです。右隣に住んでいたみちびさんと、別の日には左隣住んでいた千川明里さんと」

 挨拶をしたといっても、どうもと言うように頭を下げただけだったらしい。明里さんは二十代のはじめ、みちびさんのほうは、三十代に見えたと、後で重田は聞いた。

 警察で、明里さんと兄がいっしょに死んだと聞いたとき、重田が有り得ないと思った理由は、ここにある。重田の兄は重田より二回り以上上の、当時四十六歳だった。警察で教えられた二十一歳という明里さんの年齢は、兄の相手としては若すぎた。

 もちろん、それぐらいの年齢差で男女関係にある者も、世間にはたくさんいるだろう。だが、兄は年齢差のある女性とフランクに付き合えるようなタイプではなかったと、重田は言う。


「兄から明里さんについて、特別何か話を聞いた憶えはありません。明里さんの仕事は知っていました。病院で偶然出くわしたそうなんです。明里さんは、兄の通う病院で看護師さんをしていたんです。だから彼女も、こんな辺鄙な場所に部屋を借りたんでしょう。辺鄙な場所でも職場には通いやすい。それでいて、病院の近くよりは割安な家賃だったわけですから」

 病院で顔を合わせても、重田の兄と明里さんが親しくなることはなかった。アパートで顔を会わせれば挨拶を交わす程度。

「だから、兄が明里さんといっしょに死を選んだというのが、僕にはどうしても信じられなかった」


「警察には言わなかったんですか」

 紗季の問いに、重田の表情が歪む。

「言いましたよ。でも耳を傾けてくれなかった。兄と明里さんが特別な関係だったと、証言した者がいたから」

「――それは」

「みちびさんです」

 七澤が紗季をまっすぐ見た。

「みちびさんが、二人は恋人同士だったと言ったんです。警察はみちびさんの証言を信じ、簡単な心中事件として処理してしまった」


 納得がいかなかった重田は、大家の元へ通い、兄と明里さんの関わりについて調べたという。すると、二人が、当時奇妙なことに悩まされていたのがわかった。

「あのアパートの、二階のいちばん北側の部屋」

 重田の言葉に、紗季はアパートに顔を向けた。その部屋のベランダが見える。なぜか、窓に板が貼られ封鎖してある。

「あの部屋は、当時から使われていませんでした。理由は、兄が越してくる数年前に、一人で暮らしていた高齢の男性が、強盗に遭って殺された部屋だからです。大家さんの話によると、その老人がアパートに越してきたのは、息子の近くに住みたかったからだったそうです。事情があり、息子と会うのはままならないが、せめて老後は息子の近くにいたいと言っていたそうです。ところがその老人、越してきた翌日、強盗に遭って殺されてしまった。ひどい死に様だったようです。近所の人の噂によると、部屋の中は血の海だったらしい。老人はさぞ無念だったでしょう。息子のそばで生きる望みを絶たれたわけですから」

 老人を弔うように、重田は一瞬を閉じた。


「老人が亡くなってから、その部屋はきれいにリフォームされました。だが、誰も借り手は現れなかった。そして部屋は空室のまま置いておかれたんですが……」

 紗季はごくりと唾を飲み込んだ。

「兄は、老人に会ったと言ってました」

「会った? でも、老人は亡くなっていたんじゃ」

「ええ。生きていない老人。要するに、兄は老人の霊を見たと言ったんです」

「信じたんですか」

 紗季が訊くと、重田は細かく首を振った。

「まさか。信じられるはずがありません。その話を兄から聞いたとき、僕は、兄の妄想がひどくなったんだろうと、あえて真面目に聞きませんでした。それまでにも、兄は有り得ない現象を僕に話すことがあったもんですから。今思うと、最初に兄から老人の話を聞いたとき、真剣に対処していればと、悔やんでも悔やみきれません」

 

 重田の兄は、真夜中、ドアを開けてちょうど部屋から出てきた老人と目が合ったという。悲しいというか、いや、そんな言葉では表現し尽くせない絶望的な目をしていたという。

「同じ老人を何度も見るようになって、兄は、大家に相談しました。でも、大家も僕と同様、兄の話を信じませんでした。兄は、悩んでいました。老人が自分に何か言いたいことがあるんじゃないかと、何か訴えたいことがあるんじゃないかと思ったんです。このまま、あの老人を見捨てられない。兄はそう思いつめてしまって……」

「そのとき、お兄さんの思いを共有してくれたのが、みちびさんだったんです」

 七澤が、重田の話を引き取った。


「みちびさんは、お兄さんの話を信じてくれた。その上、もう一人、お兄さんと同じように、老人を見かけている人がいると教えてくれたんです」

「それが、明里さん?」

 紗季が訊くと、二人は同時に頷いた。

「兄と明里さんをつないでいたのは、みちびさんです。だから、僕は、何度もみちびさんに、当時の兄のことを話して欲しいと頼みました。でも、みちびさんは、自分は何も知らないの一点張り。結局、僕は彼女から何も聞き出せなかった。もやもやしたものを抱えたまま、年月が過ぎました。でも、今年は兄の十三回忌で、これを期に、もう一度調べてみようと、七澤に相談したんです」

 

 車の音が聞こえてきた。顔を上げると、道の先にトラックが見えた。トラックは空き地に入ってくる。砂利を運んできたようだった。

 いつのまにか、太陽が中天に上り、空き地は白っぽく乾いていた。


「先に済ませよう」

 重田が歩き出した。紗季も七澤に肩を押されて続く。

 重田が向かったのは、空き地の端に立つ枝の広がった大きな木の根元だった。重田はしゃがみこみ、菊の花を添えた。

「この木の枝だったと、わかっているわけではないんですが」

 沼地はすっかり埋め立てられてしまった。いまでは、重田の兄が引っかかっていたという木は判然としない。

 重田に寄り添うように、七澤もしゃがみこんだ。二人は頭を垂れて手を合わせる。

 二人の背中に、トラックが巻き上げた砂埃が流れてきた。

 

 七澤が立ち上がり、紗季を振り返った。

「お兄さんと明里さんは、何かに引っ張られるように沼へ向かって行ったそうです。みちびさんが、そう証言している」

「みちびさんが、見ていたんですか」

「沼に入るところを見たわけじゃないようだ。二人が慌てた様子でアパートを出て行くのを見たと」

 二人は何に引っ張られていたというのだ?

 紗季の腕に鳥肌が立った。蛍火で襲ってくるあの化け物に覚える恐怖と、それは似ている。


「遺体は見つかりませんでした。兄の身につけていた服の断片や腕時計が見つかっただけで。警察からは自殺だろうと言われました」

「遺体が見つからなかったのに?」

「警察は沼をさらってくれましたけどね、見つからなかった。だけど、遺品が出てきたから、警察としてもそう判断するしかなかったんでしょうね。書類上、兄は、いまだ失踪者のままですよ」

 沼にのみ込まれた? 沼に棲む何かに?

 七澤が決然と言い放った。

「鍵はみちびさんが握っているんですよ。だから、みちびさんがこのアパートを出てからの足取りを追ったんです。そして、あの山あいの集落に蛍火にいると知った」

「だから、七澤さんは蛍火に」

 偶然に、たまたま、店に入ってきたと思っていた。だが、違ったのだ。七澤はみちびさんを探るためにやって来た。


 そこで出会った自分は、七澤にとって何なんだろう。七澤の目的は、みちびさんを探るためで、そして紗季を利用したとしたら。

 優しかった七澤。優しすぎた七澤。今度こそ、ほんとうにしあわせになれると思った。それが、全部、計画的だったとしたら。


「紗季ちゃんと出会ったのは、予想外だったよ」

 まるで、紗季の心の内を読み取ったかのように七澤が言葉を重ねた。

「まさか、あんな場所で、理想の人と出会えるとは思ってなかった」

「理想の人だなんて」

 笑顔になれなかった。

「七澤は本気ですよ」

 重田が励ますように、声を上げた。

「七澤は蛍火からあなたを救い出したいんですよ」


 もう一度、信じていいのだろうか。


 そう思ったとき、ブルルッと、紗季のハンドバッグの中のスマホが震えた。

「紗季ちゃん、どこにいるの?」

 聞こえてきたのは、いつもよりワントーン高いみちびさんの声だった。

 咄嗟に七澤に背を向けて、紗季は屈み込むように重田が花を添えた木にもたれた。

「聞こえてるの? 紗季ちゃん」

「――聞こえてます」

「心配するじゃない、黙って出かけていくなんて」

「すみません」

 みちびさんからの返事はなかった。ただ、細く息を吐く音だけが聞こえる。

「今夜、中川さんたちが来ることになったのよ」

 中川さんというのは、集落の顔役のことだ。

「四、五人は来ると思うの。早めに仕込みをしないと他のお客さんも来るだろうし」

「はい。すぐ戻ります」

 電話は切れた。どこにいるのかを、紗季は言えないまま会話を終えた。戻ってからみちびさんに訊かれるだろう。そのとき、自分はこのアパートに行ったと言えるだろうか。


 紗季は七澤を振り返った。

「行かないと」

「みちびさんだね?」

「心配してるんです。黙って出て来ちゃったから」

「ちょっと待って。重田の話を聞いてから」

 紗季は重田に頭を下げ、歩き出した。

 みちびさんの声を聞いて、目が覚めたように思った。自分は七澤側の人間じゃない。自分はみちびさん側の人間なのだ。あの夜、藍也を死なせてしまってから、あの夜、闇の中で人の体を土に埋めてから。

 

 みちびさんを裏切るわけにはいかない。重田の話をこれ以上聞いてしまったら、蛍火に戻れなくなる。

「待って、紗季ちゃん」

 紗季は振り返らなかった。


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