第26話

「紗季ちゃん、どうしてここへ」

 七澤に遅れて近づいてきた男性は、遠慮がちに紗季を見つめている。七澤と同年代だろうか。縁なし眼鏡の目が、優しいが悲し気だ。

「大塚さんに聞いて――ここがみちびさんの住んでいたアパートだと」

 うんと、七澤は頷いた。


「七澤さんは、どうして」

 もう一人の男性が声を上げた。

「その大塚さんというのは?」

 そんなことはどうでもいいと思えた。ここで明里という名の女性について知りたかったことも、今の紗季にはどうでもよかった。ただ、七澤がなぜここにいるのかを知りたい。

 足元が心許ない。七澤は偶然蛍火にやって来たのではなかったのか。偶然、みちびさんを知り、紗季と心を通わすようになったのではないのか。

 そうではなくて、七澤はみちびさんを調べるために蛍火にやって来たのだとしたら。


「紗季ちゃん、大塚さんというのは?」

 七澤が畳み掛けるように、訊く。

「蛍火のお客さんです。タウン誌の記者をやっている人で、みちびさんについて調べているんです」

 大塚が安東藍也の行方を探しているとは言えなかった。それだけは、七澤に知られたくない。

「その人は、どうしてみちびさんを調べてるの?」

 紗季は首を振った。なんと説明すればいいだろう。すると、傍らの男性が、声を上げた。

「その人も、親しい誰かを亡くしたのかもしれませんね」

 紗季は男性に顔を向け、七澤に目で訊いた。

 七澤が、あ、ごめんと男性を振り返る。


「彼は僕の親友で、重田拓也」

 傍らの男性が心持ち頭を下げる。

「紗季さんですね。七澤からお話はうかがっています」

「はじめまして」

 言いながら、紗季は首筋が火照るのを感じた。続けて何かを言うべきだと思うが、ここで七澤に会った事実が引っかかっている。もし、紗季に紹介するために蛍火ででも引き合わせてくれていたら、何か気の利いたことが言えただろうに。

 七澤が沈痛な面持ちになった。


「彼のお兄さんがここで亡くなったんだ」

「え」

 紗季は小さく叫び、重田拓也を見つめた。

「じゃあ、明里さんといっしょに亡くなった人の」

「明里さんを知っているんですか」

 重田は言い、七澤と顔を合わせた。

「大塚という人が、明里さんを調べてるんだね」

 七澤に言われて、紗季は目を逸らして頷いた。そうとも言えるが、安東藍也の話はできない。

 重田は手元の花束に視線を落とした。


「今日は命日なので」

 花は、菊ばかりだった。



 重田の兄であるさとしは、十二年前の今日、同じアパートに居住していた千川明里と共に死を選んだ。

 死因は、当時アパートの隣にあった隠乳沼での溺死だという。

「二人が水面に浮かんでいるのを見つけたのは、近所に住んでいた老人でした。夕方、犬を連れて散歩に来て、沼に枝を垂らした柳の木に何かが引っかかっているのを見つけて近くまで行ってみると、人の胴体らしきものが浮かんでいたそうです」

 重田はくぐもった声で、苦しそうに話す。彼の中で、まだ悲しみが癒えていないのがわかる。

「兄の遺体から少し離れた場所に、千川明里さんの遺体もあったそうです。当時、あの沼は雑木林に囲まれていました。木々の枝が水面を覆うように垂れて、薄気味の悪い場所だったようです」

 よく憶えている。雑木林はバス通りからもよく見えた。手入れのされていない薄暗い場所で、先へ行ってみようと思ったことはないが。


「兄はいっしょに亡くなっていた千川明里さんと死を選んだのだろうと、警察で聞かされました。それを聞いて、僕はひどくショックを受けると共に、何か奇妙な感じがしました。千川明里という名を、生前、兄の口から聞いたのは、せいぜい一度か二度。しかも、ほんの世間話程度でした。そんな人と、兄がいっしょに死を選んだというのがどうしても信じられなかったんです」

「恋人ではなかったんですか」

 紗季が訊くと、重田は深く頷いた。

「兄に、付き合っている女性はいませんでした。いるはずがないんです」

 苦しそうに続けた重田を励ますように、七澤が重田の肩にそっと手を置いた。

「お兄さんの聡さんは、当時、精神的に問題を抱えていてね。仕事を辞めて、治療に専念していたんだ。はじめは兎の谷にある大きなところで治療を受けてたんだが、お兄さんを看ていた先生が夢野町にできた新しい病院に移って」

 紗季も憶えていた。兎の谷と西町の間にある田んぼしかなかった場所に、立派な病院ができたのだ。そのそもあの辺りは、夢野町などという癖のない名前ではなかった。たしか、猿井田さるいだといったのではなかったか。名前を変え、病院が誘致された土地は、以前とは比べ物にならないほど人の往来が増えた。


「そこに移ったために、お兄さんもここへ引っ越してきた。西町からなら、バスで一本だから」

「夢野町のアパートにすればよかった」

 重田が唇を噛み締める。

「一階がコンビニになっているアパートを決めようとしてたんだ。だけど、静かな環境のほうが兄にはいいと思って。それで、ここを見つけた。あのとき、夢野町に決めていれば」

「おまえのせじゃない」

 七澤が言ったが、重田は首を振る。


「たまたまなんだ」

 七澤が続けた。

「たまたまここにみちびさんがいた。だから――」

 七澤は後ろのアパートを振り返った。


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